愛なき予言
扉が閉まる音がやけに大きく響いた。
それから、静寂。
薪のはぜる音だけが部屋の中に残った。
食卓の上には冷めたスープと二つの皿。
ゾラが去ったあとの椅子を見つめながら、ミハイルは小さく息を吐いた。
さっきまで二人で座っていたテーブルが今はひどく広く感じられる。もう何度も見た光景のはずなのに、今夜だけは落ち着かない。
『あなたに行かせる方がうんと危ないわ』――
その言葉がまだ胸に刺さっている。
皮肉なのか、心配なのか。
彼女の声はいつも冷静で、感情の輪郭を掴ませない。
けれど今夜のそれは明確に棘があった。……まるで自分がそこにいること自体を拒まれたような。
それも当然だろう。何も出来ない僕は邪魔なだけだ。
窓に近づく。外は深い闇だ。月も見えない。
ゾラの姿は――もう見えなかった。
時間が過ぎていく。
何度も扉の方を見た。
薬草を摘むだけなら、もう戻ってきてもいい頃なのだが。
僕は食器を片付け始めた。手を動かしていれば、少しは気が紛れるかも知れない。
皿を洗い、拭いて、棚に戻す。
それでも不安は消えない。胸の奥がざわついて落ち着かない。
あの人はいつも一人で全てを終わらせる。
それはある意味では信頼。だけどある意味では、怖さだった。自分が必要とされていない事、それを強く感じるから。
特に今夜は、余計に。
窓際に立ち外を見る。
ゾラは――どこにいるんだろう。
居ても立っても居られない僕は、せめて外に出ようと考えた。
扉を開けた瞬間、空気が違うのが分かった。
静か過ぎる。
虫の声も、風の音も無い。まるで世界全体が息を呑んだかのように音が無かった。
(……何?)
嫌な予感が背筋を這い上がる。――何かが起きる前触れのように。
森の方を見た。
薄暗い空気の向こう、微かに光の粒が漂っている。
……ゾラの魔力の痕跡。
最近では、その“匂い”のようなものが分かるようになっていた。
この変化は、彼女の血を貰うようになってからだろうか? まるで呼吸のように、彼女の魔力の流れを感じる――。
足が勝手に動いた。森の方へ、一歩、また一歩。
彼女の“匂い”を追うように進む。
枝を踏む音さえ恐ろしく響く夜だった。
どれほど歩いたか分からない。
やがて、“匂い”が途切れた。
濃霧のような魔力の中に、二つの影が在る。
一つは地に伏し、もう一つは静かに見下ろしていた。
……ゾラ?
声を出したつもりだった。
けれど、喉から洩れたのは息のような音だった。
地に倒れているのは、見覚えのある顔だった。
血の繋がりを拒んでも、忘れられない輪郭――姉の、ニカエラ。
そして彼女を見下すように立つゾラは何も言わずこちらを見た。
光を失った瞳が、夜よりも深い色をしていた。
「留守番も満足に出来ない子だったとはね」
言葉を失うミハイルにゾラは冷たく言い放った。
「……すみません」
俯きそう言うに留まる弟の様子を見て、ニカエラの胸に苛立ちが走る。
「なぜ言いなりになっているの? 罵倒されても平気でいるの?」
声は掠れ苛立ちが滲む。責めるような、縋るような。
ミハイルは答えられなかった。沈黙が、森よりも深く広がる。
代わりにゾラが淡々と告げる。
「分からない? ――私の使い魔だから、よ」
それだけのことだった。
その声には誇示も激情もなく、まるで日常の説明のように。
使い魔は魔女には逆らえない。それは契約であり、絶対のルール。
ニカエラは唇を噛み締めた。
ミハイルが言い返せないのは彼女自身がよく知るところだった。レオナールやエヴァンジェリンに揶揄われても、彼は黙ってやり過ごしてきた。
だからゾラに何を言われたとしても、返す言葉など持たないのだろう。
だが今、沈黙は服従に変わっていた。
胸の奥が焼ける。弟を縛っているのは、弱さではない。あの女だ――と、直感してしまった。
ゾラに怯え、言い返すことも出来ず立ち尽くす弟の姿。
そこに流れ込んでくるのは焦げつくような屈辱だけではなかった。
女として、何かを奪われたような痛み。
「……どうして、こんな女に」
ニカエラの声が震えた。
「未成熟で、色香があるわけでもない……そんな子どもみたいな女の、どこがいいというの?」
答えるべき弟が沈黙したままなのが余計に胸を刺す。
ただ俯き、ただ怯え、ただ黙る。
いつもの“弱い弟”と変わらないはずなのに、その沈黙が形を変えていた。
――しかし。
「……やめて」
ミハイルの声が落ちた。
弱いはずの声が、不思議と刃のように響く。
「ゾラを侮辱しないで」
その一言がニカエラの呼吸を止めた。
信じられない、という顔。
弟が自分に逆らった。
守るべき私を捨てて――あの女を、選んだ。
「おまえ……本当に、この女を……?」
ゾラが淡々と息を吐く。
(またそれ?)
会合でのナザヘルの下卑た笑みが一瞬脳裏を過ぎる。
どいつもこいつも同じ。優雅ぶった吸血鬼すら、結局はこの手の話に行き着く。
「違うわ」
平坦な声。
「血を与えただけ。それ以外はしてない」
ニカエラの顔が引き攣る。
「じゃあ……何故、ミーシャはおまえなんかを――」
「知らないわ。私は何も求めていないもの」
ゾラは淡々と遮った。
ニカエラの指先が、小さく震える。
弟は否定しない。否定出来ない。そのことが、彼女の自尊心を更に削った。
結局、弟が従うのは彼自身の弱さではない。契約という鎖。その鎖に縛られ、あの魔女の傍に立つ。
ならば、その怒りが向かう先はひとつしかない――ゾラへと。
けれど動けなかった。
魔力の重圧が身体を押し潰すように支配している。
力の差を否応なく思い知る。
今頼れるのは、弟だけ。
――自分が何もかも奪い、力のない存在に育て上げた、ただ一人の弟。頼りない彼しか、居なかった。
「お願い、ミーシャ……この女を退けて」
その声にミハイルの瞳が揺れる。
だが彼は何も言えず、ただ姉とゾラの間で視線を彷徨わせた。
ゾラが一歩、静かに近づく。
どこからともなく短剣がその手に現れる。彼女はそれをミハイルに握らせ、囁くように言った。
「あなたの手で終わらせて」
命令の響きだった。
だがその冷たさの裏に、言葉に出来ない何かが混じっていた。
ミハイルの手が震える。両手で包み込むようにその柄を握っていなければ、零れ落ちてしまいそうだった。
ゆっくりと、刃を握ったままミハイルはニカエラの元へと近づく。
その手は震え、寒い夜気の中で汗が滲み、頬を伝う。
姉の前に辿り着くと、膝をつきただ見下ろした。
息を呑んだニカエラの瞳が、ゆっくりと絶望に染まっていく。
「嘘、よね……」
その言葉にミハイルはぎゅっと目を閉じた。
だが刃は振り下ろせず、項垂れたまま言う。
「……ゾラ、これは……これには、従えない」
「何故?」
ゾラの声は低く、凪のように冷たい。
「あなたが言った。連れ戻しに来る家族を退けたいと」
「でも……」
それは彼にとって初めての反抗だった。
命令に背くことの重さを誰より知っている。それでも――実の姉に刃を向けることなど、出来るはずもなかった。契約の鎖よりも、血の絆が勝ったのだ。
しばしの静寂。
森の奥で、風が一筋通り抜ける。
ゾラは小さく息を吐いた。
呆れとも、諦めとも違う。
むしろそれを“確かめた”ような安堵がそこにあった。
「下がりなさい」
その言葉にミハイルの肩が跳ねる。
振り返った彼の瞳に、戸惑いと恐れが交錯する。
もし言う通りにしたら、自分の代わりに彼女が終わらせるつもりなのでは――と。
「……見逃してください」
彼の声は震え、懇願に変わる。
「姉さんも、もう……ここには来ないって約束して。それなら、ゾラはきっと見逃してくれる」
そうニカエラに語りかけた。
「何を言って――」
「約束して」
言いかけた姉を遮るように、必死に言い聞かせる。
「お願いだから。僕は大丈夫」
淡々としていながら、言葉の底に揺るぎない意志があった。
ニカエラは迷いながらも、やがて小さく頷いた。
「美しい家族愛だこと……いえ、姉弟愛というべきかしら」
ゾラが静かに笑みを漏らす。皮肉とも、感心とも取れる声。
「っ、この魔女……ッ!」
「ええ、魔女よ」
短く返す。その声音にほんの僅か、寂しさが混じっていた。
ゾラが緩やかに腕を下ろせば、拘束の魔術が音もなく解けニカエラの身体から力が抜ける。
地に這い蹲った彼女をゾラは見下ろしたまま言った。
「ほら、さっさと帰りなさい。もう二度と来ないことね」
その声音には怒りも憎しみもなかった。ただ、森に放たれる哀れな獣に向けるような、高みからの憐れみだった。
ニカエラは立ち上がろうとしたが、膝が震えてうまく動かない。
悔しさで唇を噛み、血の味が広がる。その赤が夜の闇に溶けていく。
「……滑稽ね。魔女の憐れみなんて」
「憐れみじゃないわ。躾よ」
ゾラは目を細めた。微笑にも似た表情で、しかし瞳の奥には一片の情もない。
ミハイルがそっと歩み寄り、姉の腕に触れようとした。
だがその手をニカエラは払った。
瞳の奥に怒りとも悲しみともつかない光が宿る。
「ミーシャ、覚えておいて」
声は震え、息のように細い。その一言にゾラの魔力が微かにざわめいた。
「その女はおまえを愛さない」
呪いのように静かな声。
「その女の支配の終わりに、きっとまたおまえを迎えに行くわ」
一陣の風が吹いた。
ニカエラの輪郭が、夜の闇に溶け出すように崩れた。
人の形を保っていられなくなったかのように、その身体は無数の蝙蝠となって四散する。
――逃げるように、散り散りに。
羽音は森の奥へと吸い込まれ、やがて聞こえなくなった。
風が止み、森に沈黙が戻る。土の匂いが濃くなり、夜がひとつ深くなる。
ゾラは何も言わなかった。
まるで全てが自分の掌の内にあると知っているように。
その静けさがミハイルには恐ろしく思えた。
ゾラが姉を退けてくれた。それなのに、救われた気がしなかった。
胸の中に重たいものが沈んでいく。
“殺したわけじゃない。”そう思おうとするたび、その言葉が嘘のように感じた。
確かに、止めた。
姉を逃がしたのは自分の言葉だった。
けれど――守れたとは思えなかった。
結局、彼女を生かすかどうかを決めたのはゾラで。自分はただ、その許しの隣に立っていただけだった。
罪は、そんな沈黙の中にあった。
『その女はおまえを愛さない』
ニカエラの声がまだ耳の奥に残っている。思い出すたび、心臓の奥を誰かに掴まれるようだった。
ゾラが振り返る。
その瞳は、夜と同じ色をしていた。
「……行くわよ、ミハイル」
静かな声。その一言に逆らえず、ただ頷いた。
冷えた夜気が肌を刺す。
けれど、震えていたのは寒さのせいだけではなかった。
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