母で姉で、そして女
それは、百年以上生きた私が見た奇跡だった。
たった今生まれた命は、産声を上げる。その姿に少しばかり戸惑ったのを覚えている。
両親から生まれた、それは奇跡そのもの。第一子である私が生まれてからゆうに八十年は経っていた。
純血の子供は、中々生まれ難いのだという。長命な我々の、ある意味での生物的欠陥。
ましてや我らリュセリエのような『白き血統』はその美しさの代償として、より一層子を成すことが困難だった。だからこそ、両親はこれまで眷属という形で家を広げてきた。
レオナールとエヴァンジェリン――彼らは人の出で、両親や私、ミハイルとは異なる外見的特徴を有する。
故に弟妹と呼ぶにはどこか遠い。今この瞬間にだって、どこか遠巻きに私達母子と新しい命を見ているだけだった。
「お母様……触っても?」
私は尋ねる。お母様はただただ優しい微笑みを湛え、静かに頷くのだった。
それは恐る恐る。泣き喚くその泣き声の大きさに、こちらの方が圧倒されかけていた。
指先でそっと、頬に触れる。……柔らかくて、温かい。
その瞬間、赤い瞳がこちらを見て――微笑んだ、ような気がした。
その一瞬に私は息を呑んだ。なんて可愛らしい……私の、弟。
「貴女も……今からでも母になれば良いのに」
「私にはそんなものは、似合わないわ。ただ、“美しい女”でいることだけを選びたいの」
その言葉にお母様は少し寂しい目をした。それは一瞬の事であったが。
「誰かの妻や母と定義されるなんて。息が詰まりそうだわ」
そう。ただ一人、私という女でありたかった。数多の男に称賛され、愛を囁かれ。そんな生き方を忘れられはしない。
誰か一人の為に在ることも、子という存在の煩わしさに悩まされることも――私という存在には無関係のものであると思いたかった。
それに子など居なくとも……弟がこうして生まれてきてくれた。この子を守ろうと思えた。
自分にとってはそれで充分だった。
気が向いた時だけ、思いついたように可愛がれば良い。責任も、義務も、母性も要らない。
ただ、あの子が私の名前を呼んでくれるなら、それでいい。
「ねえお母様。この子の名前は決めてあるの?」
「そうねぇ。お父様はこう言ってたわ……男の子なら、ミハイルが良いと」
「ミハイル? なら、ミーシャね。ミーシャ……可愛いミーシャ」
その時の私の顔は、どんな顔をしていたのだろう? お母様はどこまでも優しい笑みを浮かべ、ミーシャと、彼を抱き上げる私を見ていた。
――それから、幾夜も経たぬ内に。
あの優しい微笑みも、抱き上げた温もりも、まるで幻だったかのように儚く過ぎ去った。
夜だった。あの日も。
蝙蝠たちが慌ただしく空を飛び交っていた。風が鳴り、月が沈黙する夜だった。
出かけたままの両親は、帰って来なかった。お父様も、お母様も。
両親は、ミーシャに歳の近い
愛情深い二人だった。両親は、眷属であるレオナールやエヴァンジェリンのことも、実の子のように愛していた。
私は反対した。これ以上、家を広げても意味はない。
「日が昇る前には帰るよ」
父はそう言った。その隣で母は微笑んでいた。
だが、待っていても二人は帰らない。
私は妙な胸騒ぎを覚えていた。
まだ幼いミーシャを抱き上げたまま扉の前でじっと立ち尽くしていた。
けれど、帰ってきたのは一匹の蝙蝠だけだった。
片翼を焼かれ、焦げた匂いを撒き散らしながら窓辺に墜ちた。
指先でその翼に触れた瞬間、冷たいものが流れ込む。
――記憶が開く。
それは映像とするなら、ひどく不鮮明だった。
見知らぬ路地。湿った石畳。
男が胸を貫かれる。女が喉を掴まれ、声を奪われる。
その顔が母と重なった。
犯人の姿は朧。
細い体躯、中性的な輪郭。黒とも、白ともつかない髪の色。
月光に透けるその瞳は氷のように、感情の欠片すらなく――ただ作業のように、命を刈り取っていた。
血が石畳を染める。
二人の身体は路地の奥へ引きずられ、夜明けの光に晒される。
焼けて、消える。跡形もなく。
そこまでを見届けた瞬間、記憶はぷつりと途切れた。
蝙蝠が手の中で崩れ、灰になった。
動けなかった。
胸の奥で、怒りと恐怖とが絡み合う。
殺したのは人間ではない。同族でもない。あの殺意は、もっと別の……何か、恐ろしいもの。
「……悪魔」
冷たい理性の奥で、血が煮え立つ。
誰を憎めばいいのかも分からない。ただ、焼かれて消えた両親の幻が、脳裏にこびりついて離れない。
この小さな命を今夜から、私一人で守らねばならない――その実感が遅れて、ずしりと胸に落ちてきた。
「ねぇ、ミーシャ……」
誰もいない広間で、彼に語りかける。
「おまえは私が守るわ。誰にも奪わせない」
そう囁いた瞬間、小さな手が私の指をぎゅっと握った。
言葉も、意味も持たぬ行為。けれどその温もりがまるで返事のように思えて――私はたまらず、彼を胸に抱き締めた。
――気づけば、懐かしい記憶と共に目を覚ましていた。
頬が濡れているのに気づき、私はそっと手を当てた。
あの夜の記憶が、また私を呼び戻す。時と共に鈍ったはずの怒りが、夢の底からまた滲み出してくる。
あの日、私はミーシャにとっての姉であり、母になってしまった。そんなのはどうしても避けたかった。そう……かつては。
けれども、愛する両親の忘れ形見であるミーシャを捨て置けない。
レオナールでもエヴァンジェリンでもない。ミーシャを育てられるのは、私しかいなかった。
幼いミーシャが、頼るものを失くした私の指を握った――その瞬間に、覚悟は出来ていた。
そう。私達姉弟が居れば、それで良いのだ。そう思えた……だから。
「きっとあの子のことだから。無理に契約を迫られたのね」
そう、そうでなければ。
「きっと怖い思いをしているはずよ」
そうでなければ。
「待っててね……必ず、迎えに行くわ」
あの子は待っている。私を信じて。そう――そうでなければ……。
目覚めた私は、すぐに蝙蝠たちを呼び寄せた。
「あの協力者達を見つけなさい」
低く静かな命令に、闇に紛れた影たちが一斉に羽ばたく。
程なくして戻った蝙蝠の一匹が、ある情報を持ち帰ってきた。
男が一人、まだ生きている。命乞いをしながら逃げ出した哀れな小者。
他の者は既に始末されているか、口を閉ざすに足る報いを受けたようだった。
私は即座に男の潜伏先へと向かった。
呼吸の音も立てず、窓辺に降り立つ。部屋の中では、男が安酒に口をつけながら、怯えたように窓を見張っていた。
情けない――自分の末路をどこかで分かっていたのだろう。
あの日、私による救出劇を演じた内の一人。それに尋問する。あの夜見たことを詳細に話せ、と。この男以外は、既に私の“目”の届く範囲には存在しなかった。
この男だけが、重要な証言を持っているだろう。
「いえ。俺はなにも見ちゃ、いないです。ええ、へへ……」
視線が泳いでいる。目の前の私より、怖いものでもあるのだろうか?
「全て話すのよ。あの夜、誰がそこに居たの。何が起きた?」
男は怯えきった声で、絞り出すように言った。
「それは、うぅ。腕が、落ちて……そう、女が。来ましたよ、若い女。最初はあんただと思った。後で来るって、仰ってたので」
“腕が落ちた”? 何かの比喩か、それとも……。
男の証言は怯えと混乱の中で真相に朧気な輪郭を与えていく。
金髪の、小柄な女――そいつがミーシャを連れ去ったのだと、はっきり言った。
正体も目的も知れぬ何者か。だが、それが私のものを奪ったという一点だけは、疑う余地がない。
ならばその女は、罪人だ。
「そういえばですね、女帝……へへ、その。報酬の方は……?」
「報酬、ね。完遂出来なかった癖に、欲しがるのかしら」
――ああ、なんて浅ましい。
「で、ですが。危険な目に遭ったんで、何割かは……」
施しをやると言った。そう、約束したわね。
「じゃあこれが、報酬というやつよ」
囁きと共に顎を持ち上げ、喉元に爪を滑らせる。声も血飛沫もない。
あるのは、命が削げ落ちる感触。そして、ただ静かな断絶だけ。
男は静かに崩れ落ちる。彼が何を恐れていたのか今となっては知る由もない。だが、どのみち価値はなかった。
「飲むにも値しない……腐った血」
踵を返し、闇に足を踏み入れる。
情報は得た。次は――その女。
「小さな金髪の女。……お前が、ミーシャを連れて行ったのね」
それが全ての元凶。私のこの胸の、ひりつきの理由。
排除すれば、全て元通りで……そう、おまえを守れるのはこの私だけなのだから。
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