冒涜的な口づけ
レオナールは、この状況をただ一人愉しんでいた。
城の空気は沈み、誰もが息を潜めている。そんな緊張の只中にあって、彼だけが軽やかに笑っていた。
退屈な秩序が壊れていく――その音ほど彼を悦ばせるものはなかった。
「……酷い匂い。
不意に、暗がりから冷ややかな声が落ちてきた。
振り返れば妹の姿があった。薄闇の中、蝋燭の火が彼女の白い肌を浮かび上がらせている。
どこか人形めいた彼女の愛らしさは不機嫌に歪んでいた。城内を行き交う有象無象の人間達――“
「おや。エヴァンジェリン、君も夜更かしとは感心しないな」
「今夜も出かけるの?」
彼女は兄の軽口を無視し、咎めるように目を細めた。
「ああ、少しね。この城の空気は、今の俺には少し濃すぎる」
「……逃げるのね」
「人聞きが悪いな。戦略的撤退と言ってくれ」
レオナールはわざとらしく肩を竦め、妹の元へ歩み寄った。
彼女の喉が、微かに動いたのを彼は見逃さない。
愛らしいレースの襟元で、本能が悲鳴を上げている。その我慢強さが、いじらしくもあり、滑稽でもあった。
「どうした。寂しいのかい? 置いていかれるのが」
「そうは言ってない」
即座に返された声は氷のように冷たい。だが、その瞳の奥には揺らぐものがある。
「そこは嘘でも肯定してくれないと。……お兄ちゃんは悲しいよ」
これ見よがしに肩を落とすと、呆れたような視線が突き刺さる。
その反応を見て、彼は微かに笑った。
「こういう時こそ楽しまないと。勿体ないと思うけどね?」
「兄様みたいになれたら、楽しめるんでしょうけど。私には無理」
それは侮蔑のようであり、どこか羨望の響きも含んでいた。
完璧な吸血鬼を演じようとする彼女にとって、この状況はただの拷問でしかない。
レオナールは微かに笑い、妹の髪を一房、指先で弄んだ。
「無理をするなよ、可愛い妹。我慢は毒だ」
「……余計なお世話」
エヴァンジェリンは短く吐き捨て、けれどその手を払い除けなかった。
少しの沈黙。廊下の奥からまた、誰かの足音と甘い血の香りが漂ってくる。
彼女はふい、と顔を背け言った。
「いってらっしゃい」
レオナールは一瞬だけ、その強張った横顔を見つめた。
掛ける言葉はもうない。彼はただ微笑んで頷くだけに留めた。
「すぐ戻るよ」
踵を返し重厚な扉を押し開ける。
途端、頬を撫でたのは冷ややかな夜気だった。城内に澱む熱とは違う、冴え渡るような闇の匂い。
背後で扉が閉ざされる音を合図に、彼は夜の深淵へと足を踏み出した。
答えを探すように彼は森を歩いていた。
夜霧が薄れ、視界が澄んでいく。木々の合間に冷えた月が落ちる。
彼らにとって月は特別な引力を持つ――ヴァンパイアでなくても、そうなのかも知れないが。
「お、晴れてきたね。……さて、ここからが我らの時間ということかな」
足元にはミハイルの残した微弱な魔力の残滓。
それはゆらゆらと揺れながら、確かに人間達の住まう街の方へ続いている。
夜の街は賑やかだった。
そこら中に獲物が蔓延る――そう形容するに相応しい光景。
ただここで本性を表してしまっては、追跡どころではなくなる。レオナールもそれを理解してはいたが、どうにも牙が浮くようなもどかしさを感じてしまう。
周囲に溶け込むように……人間のフリをして。
そしてようやく、ある暗い路地に差し掛かると――そこでぱったりとミハイルの痕跡が消えた。
「おかしいね」
足跡は、まるで途中で断ち切られたように途絶えていた。
この場所で何かがあった――レオナールはそう直感した。
地面に目を凝らす。人の往来も殆ど無いこの一帯に、荷車の轍が残っている。そしてその轍の傍に、血の痕。
誰かが、何かを――或いは、誰かを――運んだのか。
レオナールはふと笑みを浮かべると、無言のままその痕跡を追い始めた。彼はさながら探偵になったような気分で居た。
「さて、君らの力を借りよう」
呼びかけに、どこからともなく蝙蝠が追従するように現れる。何事か囁くように彼が言うと、蝙蝠は霧散するように夜空の闇へと消えていく。
轍に沿って歩みを進める中で時折、空に放った一匹一匹が入れ替わり、報告するように戻ってきては、また飛び立っていく。
その声なき声に耳を傾けるように、レオナールは頷く。そして目的地が定まったかのように、迷いなくある場所へと彼の歩みは向かう。
「……雰囲気あるねぇ」
そこはかつて貴族の所有する館だったのだろうか。今は見る影もなく朽ち果て、不気味な様相でそこに在る。誰も近寄ろうとはしないだろう。
地下へと続く階段を降りるにつれ、鼻を突く腐臭が濃くなる。
扉の先は、かつて何かを監禁していたような石造りの部屋だった。
「ああ、匂う匂う……はぁ。変な匂いがするなぁ」
そう零しながらも、内部へと歩を進めていく。
欲望の腐敗臭と、錆びた鉄のような血の匂い。そして地面に転がる
赤黒い染みの中央に置かれたのは――人間の腕、だったもの。
数日が経過しているのだろう。その断面は乾き、腐りかけた肉塊が放つ異臭が部屋に澱んでいる。
思わず目を背けるが、恐怖したわけではない。ただ、唆られない。腐った残飯には食指が動かない、というだけの話だった。
しかし。
鼻を覆いたくなるような悪臭の中に、一本の糸のように鋭く鮮烈な香りが混じっている。
それはミハイルの魔力など掻き消してしまうほどに強烈で、甘い誘い。痕跡とするには随分と鮮やかで、あまりにも異質なもの。
その違和感を無視することなど出来はしない。
「何が起きたんだろうね?」
この魔力を保有する誰か……同族か、それとも別の魔性か。ただ、それらとはどこか違い、この場にはミハイル以外の純粋な魔性の気配は漂っていなかった。
であるならば、人間でありながら魔を纏う“魔女”だと考えるのが自然か。
そしてこの魔力の残滓には、どこか強烈な引力があった。
これを胸いっぱいに吸い込んだなら――自分が自分でなくなる気がする。
まるで名もなき誰かに生まれ変わるような。そんな錯覚を覚えるほどに、甘く妖しい特別な痕跡。部屋の中央にそれが確かに在る。
「知りたいな、君のことを……」
そう呟き膝を折ると、微かな血痕を見つけた。
思わず目が釘付けになる。
魔力に慣れた者でなくとも、直感で“違う”と理解する。甘やかで、禍々しく、そして――どうしようもなく惹きつけられる匂い。
どこか愛おしげに、彼はそれを指でなぞった。乾いた血がざらりと指先に赤くこびりつく。
その瞬間だった。背後に真新しい魔力の気配が生じたのは。
それはこの強大な存在のものでなく。ただ、探していた彼のよりは少しだけ変質していて――
「兄さん……?」
――ああ、この弱々しい声は。
この場所に、まさか。
「おや、ミハイルじゃないか」
振り返ったレオナールの顔には、仄かな愉悦が浮かぶ。
「あまりに白いんで、幽霊かと思ったよ」
白。
その瞬間、脳裏を掠めたのは――あの魔女の比喩。
白く、静かで、綺麗。
……なるほどね。
「犯人は現場に戻る、なんてよく言うけど……お前は被害者だろうな。だとしたら、変わってる」
ミハイルは何も言わない。彼がこの場所に赴いたのは、どこか忘れ難い場所として記憶してしまっていたからだ。
不意に思い出される。ゾラとの日常の中にも、あの契約の夜のことを。
あの屈辱的な姿を彼女に見られてしまった事実を思い出し、一人どうしようもなく苛まれてしまう。
それでも彼にとってここは、大切な場所でもあった。目を背けたくもなり、しかし神聖であって……そんな矛盾を孕んだ場所。
「誰だい? この魔力の持ち主は。お前からも微かにその気配を感じる」
「それは……」
言い淀む。きっと、言ってしまえばそれがニカエラの耳にも届いてしまう。そんな警戒心から、ミハイルの身体は金縛りに遭ったように固まってしまっていた。
「では、俺の推理を聞いてくれはしないか」
彼はまだ探偵ごっこの最中にいるようだった。そして彼の考えたストーリーをミハイルに披露する。
「お前には新しいご主人様が出来た、と。その首輪が目に見えるようだよ……違うかい?」
核心を突かれ、ミハイルは全身から嫌な汗が吹き出すような感覚に襲われる。
「ニカエラが迎えに行ったあの朝の、お前のあの表情……そうだな、女か」
レオナールはこの推理に確信を持っていた。ミハイルのその顔からは、ただでさえ普段から青白いものであるのに、血の気の色が完全に引いたように見えた。
「だとすれば、強く……そして若く、美しい魔女。その血もさぞ甘美なのだろうな」
先程なぞった指先を、レオナールはゆっくりと唇へ運んだ。
指腹にこびりついた、乾いた赤。
口の中でそれを溶かすように転がす。ざらりとした感触が、砂糖のようにゆっくりと甘く溶けていく。
「ん……」
熱を帯びた息が漏れた。陶酔に細められる瞳。
「あぁ、いいな。これは」
レオナールは満足げに笑う。
その光景を目にした瞬間、ミハイルの背筋を怖気が走った。
まるで、そこにはいない彼女の柔肌に唇を押し当て、深く味わうかのような――あまりに濃厚で、冒涜的な“
穢された、と感じた。
彼が舐め取ったのはただの血ではない。ミハイルだけが知る、あの気高く美しい主人の一部だ。
それを兄はあろうことか、情事の真似事のように弄んだのだ。
吐き気を催すほどの生理的な嫌悪。けれど、悲しいかな。ミハイルの喉は凍りついたように声を失っている。
兄の舌が自分の大切なものを犯していく様を、立ち尽くして見ていることしか出来なかった。
「出来損ない君は声の出し方すら忘れてしまったのか」
向けられたのは、どこか憐れむような視線だった。震えながらもミハイルは声を絞り出す。
「このこと……ニカエラ姉さんに、報告するの?」
やっと絞り出されたミハイルの問いに、兄は目を丸くした。しかしそれは一瞬のことで、大仰に肩を竦めて言った。
「さぁねえ。黙っててやっても良いけど。姉上は……知れば、発狂するだろうな。お前は愛されているから、ね」
それは気まぐれで、どこか皮肉を含ませた答えだった。
「ここで会ったのは、黙ってて欲しい。頼む、兄さん……」
「そうさねぇ? ニカエラには黙っててやろう。ニカエラ
ミハイルはその言葉に酷く安堵した。黙っててやろう――ただの口約束でしかないものに。
だがそれで十分だった。今は、それだけが救いだった。レオナールが隠した真意には気づかないでいた。
「まぁ。今日のところは見逃してやろうか。今頃姉上は必死になってお前を探している……時間の問題だぞ」
警告のようにそう言いレオナールは去っていく。
ただ一人残されたミハイルは、膝から崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
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