隔てる壁

 朝、ゾラはいつものように目を覚ました。

 身体を起こし、傍らに置かれた枕に視線を落とす。微かに形が崩れている。昨夜、あの使い魔がやけに強く抱き締めていたせいだろうか。起こした時も、随分と狼狽した様子で謝罪の言葉を口にしていた。

(……何だったのかしら)

 彼は、変な寝姿勢をしていた。だがそれは、枕の使い方が自分と違っただけなのかも知れない。

 枕が少しの湿り気を帯びていたが……夢のせいか、寝汗か。

 あの青年――ミハイルは謝った。必死に、妙にしどろもどろで。

 なぜ? ……ただ枕が濡れたくらいで。

 彼の顔色や声音から、何かしらの羞恥や焦燥を感じ取ることは出来た。けれど、それがどこから来るものなのかは彼女には解らなかった。

 背丈で言えばゾラより遥かに大きく、肩も広い。

 けれど、あの怯えよう。あの狼狽。

 ゾラは眉を寄せる。大の男のくせに、大袈裟なまでに慌てて。

 力も体格も、彼の方が勝っているだろうに。どうしてああも簡単に感情に飲まれるのか。理解出来なかった。

 ゾラにとって、感情というものは理屈の外にある“ノイズ”でしかない。

 なのに、あの大きな身体がそんな無形のものに支配されている――それが不思議で仕方なかった。

 彼女の世界は魔法の法則と、自身の欲求、そして目の前の事象を合理的に処理することで成り立っている。

 ミハイルのあの時のそれも、その“ノイズ”の一つだったが、自分の使い魔とした今では、ただの雑音として片付けるにはほんの少しばかりの引っかかりを残していた。

 ……なぜ、あれほど必死だったのか。

 ふと、その疑問が頭を掠める。だがそれは、彼女にとって理解の外にある熱のようなものだった。

 だからその日の昼も、彼に再びベッドを貸すつもりでいた。

「眠るだけなら、ここで良いでしょう」――と。


 昼を過ぎた頃だろうか。ミハイルが、所在なげな様子でゾラの元へやってきた。

 彼が起きるにはまだ早い時間だった。普段から青白い肌をしているが、それでも少し顔色が悪いように見えるのは、寝不足のせいだろうか。

「あの……ゾラ」

 ミハイルが、おずおずと声をかけた。どこか言い出しにくそうな雰囲気だ。

 ゾラは手元の薬草から視線を上げずに応じる。

「何?」

「その。昨日のベッドの件、なんだけど……」

 ミハイルは言葉を選ぶように、視線を彷徨わせる。ゾラは黙って続きを促す。

「あの。ゾラのベッドで、寝ていい、という話……」

 彼は言葉を切り、ゾラの反応を窺う。ゾラは薬草を刻む手を止めない。

「ええ、そう言ったわ。日中は日の光に弱いあなたが、安全に休める場所として提供する、と」

「はい……ええと、それは。とてもありがたい話では、あるんだけど……」

 ミハイルは更に言い淀む。何か、問題があるのだろうか。

「……休めないんです」

 絞り出すような声だった。ゾラの手が止まる。

 ミハイルはゆっくりと顔を上げる。その瞳には困惑と、そしてどこか苦痛のような色が浮かんでいる。

「休めない? 何故。埃っぽい床より、ずっと快適だろうに」

 ゾラは純粋な疑問を口にした。彼女にとって、ベッドはただ眠る為の道具であり、快適性は重要な要素だ。

 けれどミハイルは首を横に振った。それは“嫌悪”というほどではないものだったが。

「その。……色々な気持ちに、なってしまって」

 ミハイルは必死に言葉を探しているようだった。あのベッドに横たわれば、胸が締め付けられ、身体が熱くなり、罪悪感と悦楽が綯い交ぜになる。

 そんな場所で心穏やかに休むことなど、彼には不可能だった。

「落ち着かない、というか。それで、休まるどころか……余計に疲れてしまって」

 彼は正直に、しかし、ゾラには伝わるはずのない理由を口にした。

「……だから、ゾラに。お願いしたいことがあって……」

 ミハイルは意を決したように、ゾラに向かって頭を下げた。

「ぼっ僕に、自分の部屋を……頂けないでしょうか」

「自分の部屋?」

 ゾラは少しだけ目を瞬いた。そして僅かに首を傾げる。

 使い魔に個室? 彼女にはその概念がなく、全く想定外の要求だった。

「そう。……それもそうか」

 だがゾラは、すぐに納得したように頷いた。

 考えてみれば、使い魔とはいえ彼はペットではない。同じベッドを共有することに、微かではあるが、居心地の悪さを感じていたのも事実だ。監視下に置くという意味では、同じ屋根の下にいることに変わりはない。

 そして何より、彼に個室を与えることはゾラにとって大した手間ではない。

「いいわ。そうしましょう」

 ゾラは部屋の隅にある古びた扉に視線を向けると、ミハイルの頭の後ろで微かに手を動かした。

 空き部屋――いや、物置と化していた部屋の鍵が魔法で軽く解かれる。壊れた家具と積まれた箱が崩れ、蜘蛛の巣が舞う。しかし、それらはゾラの魔力によって霧のように消えていく。

 埃は消え、瓦礫は片付けられ、部屋はがらんどうになる。その全てがものの数秒で完了する。

「掃除と片付けはしておいたわ。ベッドは……そこにあるものを使えばいいでしょう」

 ゾラは、部屋の片隅に置かれた、これもまた簡素なベッドを指差す。

「後は自分でなんとかして」

 まるで彼に興味が無いかのような声でゾラはそう告げ、再び薬草を刻む作業に戻る。

 ミハイルは呆然とした様子で、用意されたばかりの自分の部屋を見つめていたが、ハッと気づいたようにこう言うのだった。

「あ……ありがとう、ございます……ゾラ」

 その声がゾラに届いたのかどうかは定かではない。


(ふぅん、よほど嫌だったのね……)

 彼女の中には、僅かな胸のざらつきがあった。

 それが“拒絶された”という感情なのだと、気付くには少し時間がかかった。

 すりこぎに込める力が、何故か少し強くなっていた。すり潰された薬草からは、緑の汁と青臭い匂いが滲み出る。

 乳鉢の中で、薬草が無残に潰れていく。

 そのリズムに意識を沈めるように、ゾラは心を平らに戻していく。

 一方、真新しい“彼の部屋”では――

(これが僕の部屋か……!)

 広さはない。壁は剥き出しだ。あるのは、古びたベッド一つだけ。

 だが、それは彼自身の部屋だ。ゾラに与えられた彼だけの空間。あのベッドで味わった混乱と欲望から、辛うじて逃れられる場所。

 そして、ゾラという、彼にとっての絶対者から“与えられた”という事実。

 胸に込み上げてくるのは歓喜と、それを与えてくれたゾラへの抗いようのない感謝の念だった。

 あの城でのニカエラという姉による歪んだ支配から、ゾラという別の存在による、これもまた歪んでいるかも知れないが――彼にとっては「救済」に感じられる繋がりへと。

 ミハイルは空白のような部屋の真ん中に立ち尽くし、ゾラへの感謝を噛み締めていた。

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