第4話 平和の誤訳コンビ、国を繋ぐ
最終会議の日が来た。
大広間は、これまでで最も厳粛な雰囲気に包まれていた。天井から吊るされたシャンデリアが、研ぎ澄まされた光を放ち、長いテーブルを照らしている。アイゼルベルド王国と自由都市連盟の全代表が集まり、中庸協定の更新を正式に決定する場だ。
王国側のテーブルには、フィオナ王女を中心に、アルフレッド、そしてバルトロメウス侯爵率いる保守派貴族たちが座っている。連盟側には、グスタフ老人と技術者たち、そしてエリックが控えていた。
だが、その会議には、予期せぬ罠が仕掛けられていた。
バルトロメウス侯爵は、最後の賭けに出たのだ。
◇ ◇ ◇
会議の冒頭。フィオナ王女が立ち上がった。
「それでは、中庸協定の更新を、正式に——」
「お待ちください、殿下」
バルトロメウスが立ち上がった。その動きは優雅で、しかし威圧的だった。
「この協定更新には、まだ未解決の問題があります」
「……未解決の問題?」
王女が、眉をひそめた。
「はい。それは、この翻訳魔法具についてです」
バルトロメウスは、アルフレッドが手にしている翻訳具を指差した。
「この欠陥品が、我が国の威信を傷つけ続けています。この一週間の交渉で、どれほど多くの誤訳が発生したか。記録を取らせていただきました」
バルトロメウスは、部下に合図した。男が、分厚い書類の束を取り出す。
「このまま協定を更新すれば、将来的に重大な誤解を招く可能性があります。いえ、必ず招くでしょう」
「……欠陥品、とは失礼な」
エリックが割り込もうとしたが、バルトロメウスは手を振って制した。
「黙りなさい。所詮は連盟側の技師。これは、王国の威信に関わる問題です」
バルトロメウスの声は、冷たく、しかし力強かった。広間の空気が、一気に張り詰める。
「そこで、私は提案します。この翻訳具を、正式な検査にかけるべきだと」
「検査?」
「はい。王国の言語学者たちによる、厳格な検査です。そして、この翻訳具が『完璧に正確な翻訳』を行えると証明されない限り、協定更新は延期すべきです」
広間が、ざわついた。
連盟側の代表たちが、顔を見合わせる。彼らの表情には、困惑と不安が浮かんでいた。
グスタフ老人が、不安そうな表情を浮かべた。連盟語で何か呟いた。
エリックが、小声で通訳する。
「爺さんが『それは、あまりにも厳しい条件ではないか』って言ってる」
「厳しい? いいえ、当然の条件です」
バルトロメウスは続けた。その声は、広間の隅々まで響き渡る。
「外交において、言葉は最も重要な道具。その道具が不完全では、平和など築けません!我々の祖先は、正確な言葉によって、この国を築き上げてきたのです!」
バルトロメウスは、アルフレッドを見た。その視線には、挑発と、わずかな憐憫が混じっていた。
「アルフレッド殿。あなたも、完璧主義者でしょう? ならば、この提案に賛成してくださるはずだ。あなたほどの方が、不完全な道具に頼り続けるとは、思えませんから」
「……」
アルフレッドは、翻訳具を見つめた。
宝石が、脈打つように明滅している。
不完全な、翻訳。
だが、それは——。
アルフレッドの頭の中で、この一週間の記憶が駆け巡った。
エリックとの出会い。最初の誤訳。グスタフ老人の笑顔。フィオナ王女の微笑み。そして、エリックと手を握り合った、あの瞬間。
彼は、ゆっくりと息を吸った。そして、立ち上がった。
「バルトロメウス侯爵」
アルフレッドは、静かに言った。その声には、今までにはなかった温かみがあった。
「あなたの提案は、理解できます。確かに、言葉は正確でなければならない。それは、私も同じ考えです」
「では——」
「ですが」
アルフレッドは、バルトロメウスを見据えた。その青い瞳には、揺るぎない意志が宿っていた。
「完璧な言葉だけが、平和を築くわけではありません」
「……何?」
バルトロメウスの表情が、わずかに揺れた。
「この一週間、私はエリックの翻訳具を使い続けました。確かに、誤訳は多い。あなたが記録されたように、数え切れないほどの誤訳がありました」
アルフレッドは、翻訳具を手のひらに乗せた。宝石の光が、彼の手を照らす。
「だが、その誤訳が、時には完璧な言葉よりも、人の心を動かすことを知りました。グスタフ様は、私の厳格な挨拶では笑わなかった。だが、この翻訳具の砕けた言葉には、心から笑ってくださった」
アルフレッドは、翻訳具を高く掲げた。シャンデリアの光が、宝石に反射して、広間に虹色の光を散らす。
「この翻訳具は、不完全です。ですが、不完全だからこそ、温かい。そして、その温かさこそが、外交に必要なものだと、私は信じます」
広間が、静まり返った。
バルトロメウスが、顔を真っ赤にした。
「……アルフレッド殿! あなたともあろう方が、そんな——不完全さを肯定するなど! 王国の外交官として、恥ずべき発言です!」
「侯爵」
フィオナ王女が、静かに言った。その声は柔らかいが、有無を言わさぬ力があった。
「アルフレッドの言葉を、最後まで聞いてあげて」
「……殿下」
バルトロメウスは、渋々口を閉じた。だが、その拳は、テーブルの上で震えていた。
アルフレッドは、翻訳具を起動させた。宝石が明滅し、起動音が広間に響く。
「自由都市連盟の皆様。私は、今から、この翻訳具を使って、あなた方に伝えたいことがあります」
翻訳具が光った。
アルフレッドは、深呼吸をした。そして、ゆっくりと王国語で言葉を紡いだ。一語一語、心を込めて。
「私たちは、完璧を求めすぎていました。完璧な言葉、完璧な外交、完璧な平和。ですが、完璧なものなど、この世には存在しません」
翻訳具が、彼の言葉を連盟語に変換した。
エリックが、王国側に向けて、小声で王国語に通訳する。
「『俺たち、ずっと完璧を追い求めてたけど、バカだったよな。完璧な言葉も、完璧な外交も、完璧な平和も、そんなもん、どこにもねえんだよ』って翻訳されてる」
グスタフ老人が、静かにうなずいた。
アルフレッドは続けた。
「だからこそ、私たちは、不完全さを受け入れるべきなのです。互いの欠点を認め、補い合う。それこそが、真の協力です」
エリックの通訳が続く。
「『だからさ、俺たち、お互いの足りないとこ、認めようぜ。そんで、助け合おうぜ。それが本当の仲間ってもんだろ?』」
アルフレッドは、エリックを見た。
「私には、素晴らしい相棒がいます。彼は適当で、不完全で、時には私をイライラさせます」
「『俺には、最高の相棒がいる。そいつは適当で、不完全で、マジでムカつく時もある』」
広間に、小さな笑い声が起こった。
「ですが、彼の不完全さが、私の硬直した心を、解きほぐしてくれました。彼は、私に教えてくれたのです。完璧でなくても、人は手を取り合えると」
「『でもさ、そいつの適当さが、俺のカチコチの心を、やわらかくしてくれたんだ。そいつは、俺に教えてくれた。完璧じゃなくても、
アルフレッドの声が、わずかに震えた。彼は、一度目を閉じ、そして開いた。
「だから、私は信じます。不完全な言葉でも、心は通じると。そして、不完全だからこそ、人は優しくなれると」
「『だから、俺は信じる。不完全な言葉でも、心は通じるって。不完全だからこそ、人は優しくなれるってな』」
翻訳具が、最後の言葉を変換した。
そして、広間が、長い沈黙に包まれた。
その沈黙は、温かく、優しい沈黙だった。
その時、グスタフ老人が立ち上がった。
老人は連盟語で話し始めた。その声は、力強く、そして優しかった。
エリックが、丁寧に王国語に通訳する。
「『アルフレッド殿。あなたの言葉、確かに受け取りました。不完全ですが、温かい。完璧ではないですが、真実です。あなたのような者がいる限り、この世界に希望があると、私は信じます』」
老人は、アルフレッドに向かって、深々と頭を下げた。
エリックが続ける。
「『自由都市連盟は、アイゼルベルド王国との協定更新に、賛成いたします。そして、アルフレッド殿とエリックの、この素晴らしいコンビに、感謝いたします』」
広間が、大きな拍手に包まれた。
王国側も、連盟側も、立ち上がって拍手をしていた。フィオナ王女は、涙を拭いながら、笑顔で拍手をしていた。
バルトロメウスは、呆然と立ち尽くしていた。
「……そんな、馬鹿な。不完全なものが、勝つなど……」
だが、もはや誰も、彼の言葉に耳を傾けなかった。
バルトロメウスは、静かに席を立ち、広間を後にした。
◇ ◇ ◇
会議後。アルフレッドとエリックは、王宮の屋上にいた。
夕陽が、空を真っ赤に染めている。二人の影が、屋上の床に長く伸びていた。
「やったな、アルフレッド!お前、マジでかっこよかったぜ!」
エリックは、手すりに寄りかかって、大きく伸びをした。
「……かっこいい、か」
アルフレッドは、苦笑した。
「私は、ただ本心を述べただけだ」
「それがかっこいいんだって」
エリックは、アルフレッドの方を向いた。夕陽が、彼の顔を赤く照らしている。
「なあ、アルフレッド。お前、変わったよな」
「……変わった?」
「そう。最初に会った時は、決まった文を読み上げるだけの超堅物だったのに。今は、少しだけ、やわらかくなった。自分の言葉で、話せるようになった」
エリックは、アルフレッドの髪を指差した。
「ほら、髪も跳ねてるし。もう何十回も撫でてないだろ?」
「……!」
アルフレッドは、慌てて髪を直そうとした。だが、エリックが手を掴んだ。
「直すなよ。その方が、お前らしい」
「……私らしい?」
「そう。完璧じゃないけど、温かい。それが、お前の新しいスタイルだ」
エリックは、アルフレッドの手を握ったまま、笑った。
「お前、本当にいいスピーチだったぜ。俺、ちょっとウルっときちゃったもん」
「……君が、泣くのか?」
「泣いてねえよ。ジョークだっつの」
エリックは照れくさそうに、アルフレッドの手を離した。
「なあ、アルフレッド。俺たちのコンビ、もうちょっと続けないか?」
「……続ける、とは?」
「そう。世界中の『言葉の壁』を、俺たちで打ち破ろうぜ。完璧主義者と適当な天才の、最強コンビでさ」
アルフレッドは、エリックを見つめた。
茶色い瞳が、夕陽を反射して、きらきらと輝いている。その瞳には、期待と、少しの不安が混じっていた。
「……考えておく」
「マジで?」
「ああ。だが、条件がある」
「また条件かよ。何でも叶えてやるよ」
「君の作業着を、毎日洗え」
「……それ、無理」
「では、却下だ」
二人は、顔を見合わせた。
そして、笑った。
夕陽の中で、二人の笑い声が響いた。
アルフレッドは、ふと気づいた。自分が、こんなにも心から笑ったのは、いつぶりだろうか。
そして、それは、エリックと出会ってからだった。
◇ ◇ ◇
その夜。フィオナ王女は、アルフレッドを執務室に呼んだ。
王女の執務室は、蝋燭の灯りで柔らかく照らされていた。机の上には、一通の手紙が置かれている。
「お疲れ様、アルフレッド。素晴らしいスピーチだったわ」
王女は、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます、殿下」
アルフレッドは、深々と頭を下げた。
「それで——」
王女は、一通の手紙を手渡した。封蝋には、自由都市連盟の紋章が刻まれている。
「これ、グスタフ様からよ。読んでみて」
アルフレッドは、手紙を開いた。
そこには、丁寧な文字で、こう書かれていた。
『アルフレッド殿。
あなたとエリックのコンビを、自由都市連盟は正式に認めます。
あなた方の協力は、言葉の壁を超える、新しい外交の形です。
これから、二人で世界中を旅し、各国の外交を手伝ってくれませんか?
言葉の違いで苦しむ人々を、あなた方の力で救ってください。
報酬は、弾みます。
そして、もう一つ。
エリックに伝えてください。
お前は、本当に立派な技師になったな、と。
グスタフ・ストーン』
アルフレッドは、手紙を読み終え、顔を上げた。
「……これは」
「グスタフ様からの、招待状よ」
王女は微笑んだ。その笑みには、少しの寂しさが伺えた。
「あなたは、もう王国の外交官である必要はないわ。エリックと一緒に、新しい道を歩んでみて」
「……殿下。ですが、私は——」
「あなたは、もう十分に王国に尽くしてくれたわ」
王女は、アルフレッドの手を握った。その手は、温かかった。
「今度は、あなた自身のために生きなさい。エリックと一緒に、世界を見てきなさい」
「……殿下」
アルフレッドの目に、涙が浮かんだ。
「私からの、最後の命令よ」
王女は、そっとアルフレッドの頭を撫でた。
「幸せになりなさい、アルフレッド。そして、エリックを大切にしてあげて。彼は、あなたにとって、かけがえのない存在なのだから」
アルフレッドは、うなずいた。
声が出なかった。
だが、その涙は、悲しみではなかった。
それは、新しい人生の始まりへの、喜びの涙だった。
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