氷の外交官と天才技師の誤訳外交録~相性最悪コンビの和平交渉〜
朔月 滉
第1話 氷の外交官の受難と、天才技師の適当な最高傑作
朝陽が王宮の尖塔に触れる頃、アルフレッド・ヴァインベルクの一日は始まる。
鏡の前に立ち、漆黒の外交官用制服のボタンを、上から順に留めていく。一つ、また一つ。金糸で縁取られた襟元が、寸分の狂いもなく首筋に沿う。白いネクタイは三回巻き、結び目の角度は鏡面に対して垂直。櫛を手に取り、銀色がかった金髪を撫でつける。七十三回。いつもと同じ回数だ。
完璧だ。
アルフレッドは満足げに息を吐き、執務室へと向かった。廊下の大理石は朝の光を反射して、まるで氷の道のようだ。彼の靴音だけが規則正しく響く。カツ、カツ、カツ。この音さえも、計算された速度で刻まれている。
「アイゼルベルド王国首席外交官、アルフレッド・ヴァインベルク」
執務室の扉に刻まれた金色の文字が、誇らしげに輝いていた。彼は扉を開ける。いつものように。
だが、その日の朝は、いつもと違った。
「よう、アルフレッド!待ってたぜ!」
執務室の中央に、見知らぬ男が立っていた。
いや、「立っている」という表現は正確ではない。むしろ「だらしなく寄りかかっている」と言うべきだろう。男が執務机に肘を突くと、アルフレッドが丁寧に積んでおいた高価な羊皮紙が、どしゃりと崩れ落ちた。茶色い髪は無造作に跳ね、作業着には油染みと、何か焦げたような跡がついている。爪の間には黒い汚れが詰まり、袖口はほつれ、ブーツの紐は片方だけ結ばれていない。
アルフレッドの眉間に、小さな皺が刻まれた。
「……君は、誰だ」
不快な表情を隠しもせず、声は氷よりも冷たかった。だが男は、まるで気にした様子もなく、にかっと笑った。
「おー、噂通りの"氷の外交官"って感じだな!俺はエリック。エリック・メレディスだ。自由都市連盟から来た、天才魔道具技師様ってわけ」
エリックは机から身を起こし、アルフレッドに向かって歩いてくる。彼が通り過ぎた後には、床に油の足跡が残されていた。
アルフレッドの左目が、わずかに痙攣した。
「……自由都市連盟の者が、なぜアイゼルベルド語を」
「ん?ああ、俺、商売のために覚えたんだ。両方の言葉が話せないと、魔法具の取引もできないしな」
エリックはあっけらかんと答えた。確かに、自由都市連盟は商業都市の集まりだ。商人たちが近隣諸国の言語を習得するのは、珍しいことではない。
「で、今度の外交交渉で、あんたが使う翻訳魔法具を作ってくれって頼まれてさ。俺、両方の言語を知ってるから、翻訳の仕組みも完璧に組み込めたんだぜ。で、これが俺の最高傑作!」
エリックは懐から、何かを取り出した。
それは、手のひらに収まるほどの小さな金属の箱だった。表面には複雑な魔法陣が刻まれ、中央に青い宝石がはめ込まれている。宝石は脈打つように明滅していた。
「これが、翻訳魔法具……?」
アルフレッドは眉をひそめた。翻訳魔法具と言えば、通常は大型の魔法陣を刻んだ石板や、専用の部屋を必要とするものだ。それがこんな小さな箱に収まるとは。
「そう、"超絶完璧翻訳君"って名付けた。かっこいいだろ?あんたがアイゼルベルド語で話した言葉を、連盟語にリアルタイムで翻訳してくれる優れものだ。しかも携帯可能!革新的だろ?」
エリックは誇らしげに胸を張った。アルフレッドは箱を受け取り、慎重に観察する。確かに、魔法陣の構造は精巧だ。だが……。
「……この油は、何だ」
「ん? ああ、昨日徹夜で調整してたから、飯食いながら作業しててさ。ベーコンの油が飛んだんだわ」
「ベーコンの、油」
アルフレッドの声が、一オクターブ低くなった。彼は翻訳具を、親指と人差し指の先端だけでつまみ上げ、まるで腐った魚でも扱うように、机の端に置いた。そして懐から純白のハンカチを取り出し、翻訳具に触れた指を念入りに拭き始めた。
「おいおい、そんなに嫌がるなよ。ちゃんと動くって」
「君の作業環境の衛生管理について、私は一切の関心を持たない。だが、外交の場で使用する魔法具が、食用油脂で汚染されているという事実は、アイゼルベルド王国の威信に関わる問題だ」
「威信ねえ……」
エリックはアルフレッドの机に腰かけ、足をぶらぶらと揺らした。
「まあまあ、そう硬いこと言うなって。とりあえず、動作確認してみようぜ。今日の午後、予備交渉があるんだろ?」
「……君は、私のスケジュールまで把握しているのか」
「そりゃ、俺が作った魔法具を使うんだから、立ち会わないとな。不具合があったら、その場で直せるし」
アルフレッドは深く、深く息を吸った。そして吐いた。
完璧な外交官は、決して感情を露わにしない。たとえ目の前に、人間の形をした混沌が存在していても。
「……わかった。だが、その前に一つ聞かせてもらおう」
「ん?」
「その翻訳具は、本当に正確に翻訳できるのか。外交の場において、言語とは最も神聖な道具だ。一語一句、正確に伝達されなければ、国家間の誤解を招き、最悪の場合、戦争の引き金にもなりうる」
アルフレッドの青い瞳が、エリックを真っ直ぐに見据えた。その視線には、妥協の余地が一切ない。
エリックは、ふっと笑った。
「安心しろよ、アルフレッド。俺の魔法具は、動けば正義だ。細かいことは気にすんな」
「細かいこと、だと……?」
アルフレッドの額に、青筋が浮かんだ。
◇ ◇ ◇
午後。王宮の大広間は、予備交渉のために整えられていた。
長いテーブルの片側には、アイゼルベルド王国の代表団が座っている。中央にはフィオナ・アイゼルベルド王女が穏やかな微笑みを浮かべ、その横にアルフレッドが直立不動で立っていた。
反対側には、自由都市連盟の代表団。その中心には、白い髭を蓄えた老人、グスタフ・ストーンが座っている。
「では、本日の予備交渉を開始する」
フィオナ王女の声が、広間に響いた。
「アルフレッド、あなたから口火を切ってちょうだい」
「畏まりました、殿下」
アルフレッドは一礼し、懐から翻訳魔法具を取り出した。エリックが事前に「綺麗に拭いといたぜ!」と言っていたが、アルフレッドは念のため、自分でも消毒用の薬液で拭き直していた。
彼は魔法具の宝石部分を軽く叩く。宝石が明滅し、起動音が鳴った。
「自由都市連盟の皆様」
アルフレッドは完璧な発音で、用意していた挨拶文をアイゼルベルド語で読み上げる。
「本日は、お忙しい中、遠路はるばる我が国までお越しいただき、誠にありがとうございます。五十年前に締結された中庸協定は、両国にとって重要な——」
翻訳魔法具が光った。
そして、グスタフ老人の前に置かれた受信用の魔法具から、連盟語の声が流れ出た。
『よう、自由都市の野郎ども!わざわざこんな堅苦しい城まで来てくれて、マジで感謝してるぜ!五十年前のあの協定、あれ超大事だよな!俺たち、ずっと仲良しこよししようぜ!』
広間が、静まり返った。
アルフレッドの顔から、血の気が引いていく。
「……今、何と」
アルフレッドは自分の言葉がどう翻訳されたか、当然理解できない。連盟語は読めても、話すことも聞き取ることもできないからだ。
だが、グスタフ老人の驚いた表情と、連盟の代表たちが顔を見合わせる様子から、何か重大な誤訳が起きたことは明白だった。
広間の隅で、エリックが小声で呟いた。
「お、おう……ちょっと砕けすぎたかな」
「エリック」
アルフレッドは低い声で問いただした。
「今、何が起きた。連盟の言葉で、私の挨拶はどう翻訳された」
「えーと……『よう、野郎ども、マジで感謝してる、仲良しこよししようぜ』って感じ?」
「……」
アルフレッドの手が、翻訳具を握りしめた。
その時、グスタフ老人が、連盟語で話し始めた。もちろん、アルフレッドには意味が分からない。
エリックが慌ててアイゼルベルド語で通訳した。
「爺さんが『その、口調が少々……』って困惑してる」
「当然だろう!」
アルフレッドは翻訳具を掴み、まるで首を絞めるように握りしめた。宝石が悲鳴のような音を立てる。
「エリック……エリック……!」
彼は歯ぎしりをしながら、広間の隅を見た。そこでは、エリックが壁に寄りかかり、両手で口を覆って、肩を震わせていた。
笑いをこらえているのだ。
「あの……」
フィオナ王女が、遠慮がちに声をかけた。
「アルフレッド、落ち着いて。まずは、翻訳具の電源を切ってちょうだい」
「殿下……この、この冒涜的な機械を……!」
アルフレッドの指が、翻訳具の宝石を何度も叩いた。だが、宝石は明滅を続け、電源が切れる気配はない。
「あー、それ、一度起動したら、会話が終わるまで自動で動き続ける設定になってんだわ」
エリックが、のんびりとした口調で言った。
「便利だろ?いちいち電源操作しなくていいから」
「便利、だと……?」
アルフレッドは振り返り、エリックを睨みつけた。その視線は、もはや氷どころか、絶対零度を超えた何かだった。
「君は……君という人間は……!」
翻訳具が、アルフレッドの怒りの言葉を、連盟語に変換した。
エリックが翻訳する。
「おい、アルフレッド!今『お前マジで最高だな!』って翻訳されたぞ!」
「何……!?」
グスタフ老人が、困惑した表情で連盟語で呟いた。エリックが通訳する。
「『アイゼルベルド王国の外交官は、いつからこんなに……フランクに、なられたのでしょうか』だって」
「いえ、これは……これは……!」
フィオナ王女が、必死にフォローしようとする。だが彼女の唇は、わずかに震えていた。笑いをこらえているのだ。
仕方なくエリックが弁明する。
『グスタフ様、誤解です。これは翻訳魔法具の……その……初期不良でして……』
『初期不良……?』
グスタフ老人は、受信用の魔法具を手に取り、まじまじと眺めた。
『だが、声の抑揚や、感情の込め方は、実に自然だったぞ。まるで、心から親しみを込めて話しかけられたようだった』
その時、アルフレッドが翻訳具を床に叩きつけた。
金属の箱が床で跳ね、宝石の光が明滅し——そして、ぴたりと止まった。
「……やっと、静かになった」
アルフレッドは呟き、翻訳具の残骸を見下ろした。彼の手は、わずかに震えていた。
「おいおい、マジで壊しちゃったの?」
エリックが駆け寄り、翻訳具を拾い上げた。箱の角が凹み、宝石にひびが入っている。
「まあ、直せるけどさ。もうちょっと優しく扱ってくれよ、俺の傑作なんだから」
「傑作、だと?」
アルフレッドは、エリックの襟首を掴んだ。
「君の
「おーおー、怒るなって。確かに、ちょっと誤訳の傾向が強すぎたかもな」
「ちょっと、だと……?」
「でもさ、伝わっただろ?俺たちが仲良くしたいって気持ち」
エリックはにこりと笑った。その笑顔には、一切の悪意がない。ただ純粋に、自分の作品が機能したことを喜んでいるだけだ。
アルフレッドは、エリックを解放し、深く深く息を吸った。そして吐いた。
「……私は、君という人間を、生理的に受け付けない」
「おー、そりゃ光栄だ。俺、嫌われるの得意なんだ」
エリックは壊れた翻訳具を懐にしまい、アルフレッドの肩に手を置いた。油染みのついた手だ。
「なあ、アルフレッド。お前、もうちょっと肩の力抜けよ。完璧すぎると、疲れるぜ」
「……手を、離せ」
「はいはい」
エリックは手を離し、ひらひらと手を振りながら、広間を出て行った。
アルフレッドは、自分の肩に残された油の染みを見つめた。そして、ハンカチを取り出し、何度も何度も拭った。
だが、染みは消えなかった。
フィオナ王女が、アルフレッドの隣に立った。
「アルフレッド、大変だったわね」
「……殿下、申し訳ございません。私の不手際で……」
「いいえ」
王女は微笑んだ。
「むしろ、面白かったわ。グスタフ様も、少し笑っていらしたもの」
「殿下……」
「完璧な言葉だけが、外交ではないのかもしれないわね」
王女はそう言い残し、広間を後にした。
アルフレッドは一人、広間に残された。
彼は自分の肩の染みを見つめ、そして呟いた。
「……不完全、だと?」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
◇ ◇ ◇
夜。アルフレッドは自室で、一日の報告書を書いていた。
羽ペンを走らせる音だけが、静かに響く。
だが、彼の頭の中には、エリックの言葉が繰り返し響いていた。
『でもさ、伝わっただろ?』
アルフレッドはペンを置き、窓の外を見た。
月明かりが、王宮の庭を照らしている。
完璧な、静寂の世界。
だが、その静寂は、今日初めて、少しだけ心地悪く感じられた。
「……不完全な、翻訳」
彼は呟き、再びペンを手に取った。
そして報告書に、一行だけ書き加えた。
『翻訳魔法具は、予想外の動作をしたが、結果として、自由都市連盟との関係は良好に推移している』
その文字は、いつもよりも少しだけ、歪んでいた。
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