第22章 SE、シカを狩る。

朝の空気は澄んでいた。

木々の葉の先に、夜露がまだ光っている。

鳥のさえずりが遠くで響き、森がゆっくりと目を覚ましていく。


ジョーは小屋の外で、手際よく弓の弦を張っていた。

「ほら、使ってみな。癖はあるが、悪くねぇ弓だ。」


俺は受け取った弓を確かめる。

木目の走った滑らかな手触り。

ずしりとした重量感と、手に馴染む温かさ。


「……ありがとう。」


「礼はいらねぇ。

 森じゃ、弓を引けるやつが二人いりゃ、

 それだけで生存率が上がる。」


ジョーは笑って、肩の矢筒を背負った。

その姿は、迷いも恐れも感じさせなかった。

森に生かされ、森と共にある人間の顔をしていた。


俺たちは森の奥へと足を踏み入れる。

湿った土を踏みしめ、獣道を進む。

枝の擦れる音、鳥の羽ばたき、獣の気配――

久しぶりに、五感が研ぎ澄まされていくのを感じた。


ジョーの合図で立ち止まる。

彼が指差した先、茂みの向こうに小鹿が二頭。


「行け。」


息を吸う。

弦を引く。

矢が放たれ、空気を裂いた。


――ドスッ。


命中。

小さな衝撃が腕を通して伝わってきた。


「悪くねぇな、マイト。」

ジョーが満足そうに笑う。

「筋がいい。やっぱり、お前……ただの旅人じゃねぇな?」


「かもな。」

そう答えて、苦笑した。


狩りは順調に進んだ。

鹿を一頭、ウサギを二匹。

昼には焚き火を起こし、簡単な昼食を取った。

焼けた肉の香りが、腹の底に落ちていく。


ジョーは狩った獲物のさばき方を丁寧に教えてくれた。

皮を剥ぐ手順、血抜きのコツ、

内臓の扱い方、保存のための燻し方――

一つひとつがまるで“森の教科書”のようだった。


「肉はな、獣に感謝して処理するんだ。

 雑にやると、味も悪くなる。」


ジョーの言葉には、生活の知恵と誇りが混ざっていた。


俺は夢中で見入っていた。

生きるための技術を、直接“生きてきた人間”から教わる感覚。

新鮮で、わくわくした。

まるで学生時代、

初めてプログラムを動かした時のような高揚感だった。


ジョーは楽しそうだった。

笑いながら、次の狩場の話や、獣の癖について語ってくれた。


気づけば俺も笑っていた。

久しぶりに、心から「生きている」と感じた。


――不思議なことに。


元の世界に戻らなければ、という焦りは、

この時ばかりはほとんど感じなかった。


風の匂いも、葉のざわめきも、焚き火の音も、

すべてが懐かしくて、心地よかった。


まるで、ここが“本当の居場所”であるかのように。


三日目の朝。

森の空気にも、すっかり慣れてきた。

霧の向こうから鳥の声が響き、

遠くで鹿の鳴き声がこだまする。

冷たい風が肌をかすめても、もう不安はなかった。


俺とジョーは、今日も弓と罠を手に森へ入った。

陽が昇ると同時に、木々の隙間から光が差し込み、

葉の表面で跳ね返るその輝きが、

まるで生き物の息吹のように見えた。


狩りは順調だった。

昨日教わった通りに動けば、

獲物の足跡や草の折れ方から行動の癖が分かる。

二人で息を合わせ、鹿を一頭仕留めた。

昼には、焚き火のそばでスープを温め、肉を炙った。


煙の香り。

焦げた肉の脂。

遠くで揺れる光の粒。

そんな何気ない風景が、やけに美しく見えた。


その時、ジョーがぽつりと言った。


「……なあ、マイト。

 お前、ずっとここにいてくれねぇか?」


スープをかき混ぜていた手が止まった。


「ここに?」


ジョーは真っ直ぐに俺を見た。

その瞳には、どこか懇願するような色が宿っていた。


「……もう、ひとりは嫌なんだ。」


声が震えていた。

その表情に、孤独の年月がにじんでいた。


俺は何も言えず、しばらく空を見上げた。

枝の隙間からこぼれる陽光が、やけに眩しい。


ジョーは、良いやつだ。この場所も気に入った。


「……それも悪くないかもな。」


そう答えると、ジョーは目を見開いた。

次の瞬間、顔をくしゃくしゃにして笑い、涙をこぼした。


――元の場所のことは、もうほとんど忘れかけていた。


夜。


森の空は、濃い群青に沈んでいた。

虫の声と、薪を割る音だけが響く。


俺は、小屋の前で斧を振り下ろしていた。

乾いた木がぱきんと割れる。

その感触が、妙に心地よかった。

手のひらの熱、木の匂い、夜の冷たさ

――すべてが穏やかだった。


小屋の中から、皿の音と、煮込みの香りが漂ってくる。

ジョーが夕食を作っているのだ。

静かな時間だった。


「マイト、飯の準備できたぞー!」


ジョーがドアから顔を出した。

俺は笑って、斧を置きながら返事をしようとした。


――その瞬間。


「バチィィィィンッ!!」


鼓膜の奥を突き破るような、激しい音。

まるで世界そのものがひしゃげたような衝撃が、

頭の中を貫いた。

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