第12章 冬の部屋

季節は、もう冬になっていた。

吐く息が白く曇るたびに、時間の流れを痛いほど感じる。


今、私は——麻衣子先生のマンションで暮らしている。


兄さんに回復の見込みが立たない中、

未成年の私がひとりで生活を続けることは、

もう難しくなっていた。


学校や福祉の担当者からは

「親元に戻るか」「施設に入るか」

と迫られた。


でも、どちらも選びたくなかった。

もうあの家には帰りたくないし、

知らない場所で暮らすなんて、想像もつかなかった。


そんなとき——麻衣子先生が、静かに言ってくれた。


「もしよければ、しばらくうちに来る?」


その一言で、すべてが救われた気がした。

兄さんの主治医であり、私の支えでもある先生の部屋。

病院のすぐ近くの静かなマンションで、

窓の外には、冬の街の光がちらちらと瞬いている。


兄さんと暮らしたアパートを出るとき、

少しだけ、胸が痛んだ。

ベッドの跡、壁に貼ったメモ、

食卓の上のコーヒーカップ

——どれも兄さんの気配が残っていた。


それでも、私は荷物をまとめた。

そして、麻衣子先生のもとへ向かった。


正直に言えば、罪悪感よりも、

“安心”のほうが大きかった。


先生のそばなら、寂しさを忘れられる。

あの穏やかな声と、温かい笑顔。

そのすべてが、冬の冷たい世界の中で、

私の居場所になっていった。。。


暮らし始めて数週間が経ったころ、

私は麻衣子先生の、

これまで知らなかった一面を少しずつ知るようになった。


病院での先生は、いつも凛としていた。

知性にあふれ、言葉を選ぶたびに無駄がない。

それでいて、患者や家族への気配りも忘れない。

冷静で、誠実で、どこまでも信頼できる人。


けれど、プライベートの麻衣子先生は、

もう少し柔らかかった。

疲れて帰ってきた夜、紅茶を入れてくれたり、

私の好きな音楽をさりげなく再生してくれたり。

その優しさに何度救われたかわからない。


——ただ、ひとつだけ。

一緒に暮らしてみて、驚いたことがある。


先生は、徹底した合理主義者だった。


「生活はね、時間を奪う最大の敵なの」

そう言って、まるで研究発表のように淡々と説明してくれた。


料理はしない。

冷凍の総菜セットを定期購入して、電子レンジで温めるだけ。

「案外、こっちのほうが栄養バランスも良いのよ」と、

どこか誇らしげに言う。


洗濯も、全自動乾燥機にかけたまま。

乾いた服はそのままカゴに入れて終わり。

たたまないし、しまわない。

「だから、そうしなくて済む素材の服しか買わないの」

そう言って、白衣のようなシンプルな服を手に取った。


掃除は、最新式のお掃除ロボットが担当。

「これね、拭き掃除まで自動でやってくれるのよ」と、

目を輝かせながら説明してくれた。

その熱量は、まるで新しい医療機器を語るときのそれだった。


麻衣子先生のもとで暮らすようになって、

少しずつ、私の中で何かが変わっていった。


——私は、医学部に進もうと思う。


兄さんの症状の原因を、少しでも自分の力で掴みたい。

でも、それだけじゃない。

この出来事を通して、私は“脳”というものに強く惹かれるようになった。


人の意識はどこから生まれるのか。

夢を見るとは、どういうことなのか。

あのモニターに映る波形の奥には、

いったい何が広がっているのだろう

——そんな疑問が頭から離れなかった。


そして何より、

私は麻衣子先生のようになりたいと思った。


冷静で、優しくて、強くて、

迷っている人にまっすぐ手を差し伸べられる人。

あの穏やかな声と、確信をもって人の心に触れる姿勢。

見ているだけで、胸の奥が熱くなる。


そして、もうひとつ。

いつか

——先生と一緒に仕事ができたら、どんなに素敵だろうと思った。

研究でも臨床でもいい。

同じ空間で、同じ目的に向かって並んで歩けたら。

その未来を思い描くだけで、心が少し明るくなる気がした。


だから、決めた。

医学の道を歩こう。

兄さんを、そして誰かを救える人になりたい。

そしていつか、あの人の隣に立てるように。


その日から、私は本格的に受験勉強を始めた。

勉強は、麻衣子先生が見てくれた。


先生は驚くほど教え方がうまかった。

説明は簡潔で、

どんな難しい問題でも筋道を立てて話してくれる。

私が首をかしげると、すぐに別の角度から説明してくれる。

まるで、

私の理解の速度に合わせて言葉を選んでいるみたいだった。


「希星ちゃんは飲み込みが早いわね」

そう言って、少しだけ笑う。

その言葉に、私はつい顔が熱くなる。

褒められてうれしいというより、

“先生に認められた”という実感が胸の奥に灯る。



ある晩、勉強を終えて紅茶を飲んでいたとき、

ふと、麻衣子先生が言った。


「脳って、不思議よね」


先生はカップを手にしたまま、

窓の外の街明かりを眺めていた。

その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。


「人が“意識”を持っているのは、脳のごく一部の活動にすぎないの。

 それなのに、私たちはその小さな信号の中で、

 世界を感じ、夢を見て、生きている」


先生の言葉は、ゆっくりとしたテンポで心に染み込んでくる。


「私ね、ずっと考えてるの。

 ——もし、夢の中の世界にも“論理”や“構造”があるとしたら、

 それを医学や科学で説明できる日が来るんじゃないかって」


「夢を……科学で?」

思わず聞き返すと、先生は少し微笑んだ。


「ええ。

 夢も脳の活動なら、きっとどこかに法則があるはずよ。

 それを解き明かせば、“意識の境界”が見えてくるかもしれない」


意識の境界。

その言葉が、静かに胸に残った。


先生は冗談めかして

「受験が終わったら、手伝ってもらおうかしら」

と笑ったけれど、

その瞳の奥には、確かな情熱が宿っていた。


私は、その横顔を見ながら思った。

この人の見ている世界の一端に、

いつか自分も触れたい——と。


「ねぇ、麻衣子先生。」

私はペンを置いて、ふと問いかけた。


「兄さんって……今、どんな夢を見てるんでしょうか。」


静かな部屋に、紅茶の香りが広がる。

先生は少し考え込むように視線を落とし、

やがてゆっくりとカップを持ち上げた。


「……それはね、私たちにも分からないの。」

静かな声で言ってから、少しだけ微笑む。


「でも、

 臨死体験の研究をしている人たちの話、聞いたことある?」


私は首を横に振った。


「人が“死にかけた”とき、脳の活動が一時的に異常な状態になる。

 そのとき、強烈な体験をする人がいるの。

 光に包まれたり、亡くなった人に会ったり、自分を上から見下ろしたり……。

 いわゆる“臨死体験”ね。」


先生は紅茶をひと口飲み、静かに続けた。


「面白いのは、それが文化や宗教によって全然違うの。

 欧米では、“トンネルの向こうに光がある”とか、

 “天使や神に導かれる”という話が多い。

 キリスト教的な“死後の世界”のイメージが強いのね。


 でも、日本人の場合は少し違う。

 “川を渡る”とか、“亡くなった家族に手を引かれる”とか、

 より“現世の延長”として描かれる傾向があるの。

 仏教の影響が大きいから、

 “成仏”とか“極楽浄土”っていう概念に近いのかもしれないわ。」


先生は言葉を選ぶように、指でカップの縁をなぞった。


「つまり、脳が“死にかけた”ときに見る夢の内容って、

 その人の生まれ育った文化、信じてきた価値観、

 そして何より、その人自身の“世界の見方”が反映されているのよ。」


私はじっと先生を見つめていた。

その話は、どこか兄さんの今の状態と重なる気がした。


「私はね、意識が残る限り、人は“自分”の延長にある夢を見ると思ってる。

 つまり、その人のアイデンティティに根ざした世界。

 生きてきた時間、好きだったこと、想っていた誰か——

 そういうものが形を変えて現れるんじゃないかしら。」


先生は窓の外を見つめ、冬の街の明かりを映した瞳を細めた。

その横顔には、静かな情熱が宿っていた。


私は小さくつぶやいた。

「兄さん……何が好きだったっけ。」


その言葉は、湯気の向こうで消えていった。

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