第35章 — 最後の人間の息
夜風は刃のように鋭かった。
リョクは車内でハンドルを握っているが、世界は遠くに感じられる——
まるで高熱の夢の中で運転しているようだった。
向こう側のコースには、
彼が失ったすべてで形作られた「もう一人の存在」——影が、
生きた記念碑のように立っている。
他の走者たちの車が半円を描き、即席のアリーナを作り出す。
誰も近づこうとしない。
誰も深呼吸すらしようとしない。
リョクの車のエンジンが震え始める。
爆発しそうなほどの緊張か——
あるいは恐怖か。
内側の存在が、今までで一番静かに囁く。
「準備はできた。」
リョクは目を閉じた。
そして——
本当に久しぶりに……
……ある記憶が、痛まなかった。
崩れなかった。
奪われなかった。
彼はあの夜を見た。
すべてが失われた夜。
遅れた救急車。
強く降る雨。
絶望の中で生まれた、あの静かな誓い。
だが今回は違うものも見えた。
母が倒れる直前に触れた、頬への小さな温もり。
強がろうとした父の表情。
消えかけていた、しかし確かに残っていた“人間のぬくもり”。
影は、その一瞬の人間性の復活に気づき、不快そうに震える。
その金属光の瞳が鋭く点灯する。
存在がリョクの頭の中で唸る。
「そんなもの……捨てろ。
不要な重りだ。」
だがリョクは、その記憶を離さなかった。
「これが……俺の始まりだった。」
彼は目を開き、低く呟く。
「救うため。
守るため。
二度と時間に奪わせないために。」
存在が嘲る。
「なら、なぜ道中のすべてを壊した?」
リョクは喉を鳴らし、答えた。
それがどこから出た言葉なのか、自分でもわからないまま。
「選択を間違えたからだ。
でも……終わりは間違えたくない。」
彼はヘッドライトを点灯させる。
エンジンが深く唸り返す。
それはもう“存在だけの声”ではなく、
“リョクだけの声”でもなかった。
二人分の鼓動だった。
影が一歩踏み出す。
その黒い足跡が、コース全体を震わせる。
影は空を指差した。
儀式めいた、不可解な仕草。
そして——
月が黒雲に飲まれた。
まるで世界が、この瞬間を見守っているかのように。
リョクは深く息を吸う。
両手でしっかりとハンドルを握りしめ、
かすれるように呟く。
「父さん……母さん……力を貸してくれ。」
その瞬間。
ほんの一秒だけ。
胸の奥に“温もり”が灯った。
光ではない。
浄化でもない。
……人間の力。
存在が不快そうに唸る。
「くだらん。」
リョクはアクセルをわずかに踏む。
車が彼の意志に応えるように身震いする。
彼は影を見据えた。
そしてミクロの転換点が訪れる。
影も同じようにわずかに前傾し、
動きを“コピー”した。
——だが、初めて笑わなかった。
影は気づいたのだ。
リョクは“影には持てないもの”を取り戻した。
理由(りゆう)。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます