胡蝶の夢

文屋治

壱ノ章

 此れは夢である。

 私は一人、海岸に佇んでいた。朧月が天に浮かび、周囲は夜に呑まれ、逢魔おうまときなどとうに越していた。絵に描いた様な闇である。

 靴は履いていなかった。素足には細かく、柔い、砂の感触があった。足の指を動かすとサラサラと乾いた砂が纏わり、離れて征く。はだしであることに嫌悪感は湧かなかった。海の原より響き渡る明瞭な潮騒も、磯の香りと潮を含んだ風も、私の肌と耳を通して届くが、其れ等は何とも摩訶不思議な心地の良さを与えてくれた。しかし、此れはそう長くは続かなかった。

 艶やかな絵画の一点に滲んでいた黒が次第に全てを染め上げた。

 此処に於ける黒とは、其れ即ち闇である。周囲に広がる真っ暗な闇。

 此の闇の暗さには月魄げっぱく様もうんざりされてしまわれることであろう。少なくとも、私はそう思った。併し、何処にも帰路は無い。在るのは唯々暗い闇、其れのみである。其の闇はまるで生きているかの様に生暖かく、私と同じ熱を孕んでいた。此れに気が付いた時、私はいやな思いをした。まるで、鯨に喰われてしまっているかの様であった。

 闇夜へと溶けて、私が無くなって了わぬ様、私は一歩、歩み始めた。

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