成虫から蛹へと

@AsuAsaAshita

昔々、戦争中、私は看護師だった。

次々と運び込まれる患者に、仮設病院は常にせわしなかった。


包帯の匂いが廊下を満たしていた。

どの部屋にも呻き声と金属音が響いていた。

コーヒーを一口飲むたびに、鉄の味がした。

眠ることが、眠ってしまって良いのか分からなかった。


そんなある朝の巡回で、私は一人の患者と出会った。

その男には両手も両足も、目も口もなかった。

包帯でぐるぐる巻きにされ、呼吸器と心臓の動きから、生きていることだけはわかった。



医師は言った。

「意識はある。声は出せないが、喉の振動を機械が拾えば意思は読める」


私はうなずき、ただ彼の傍に座った。

何かを話しかける勇気がなかった。


最初の数日、彼は「寒い」と「痛い」しか言わなかった。

機械の光が淡く文字を映すたび、私はそれを見つめていた。


ある夜、彼はこう言った。

「外はどうですか」


私は「戦争はまだ終わっていません」と答えた。


「そうですか、やはりそうですか」と彼は言い

やがてこう言った。


「こうなった甲斐があった」


「どういうことですか」


「私は今、地獄とは無縁の場所にいるということです」


「いま現在、あなたの状況は地獄ではないと?」


「そうです。ここでは何も考えなくてもいい。痛いし苦しいけれど、与えられるだけの存在でいられる。だから、私は望んだのです」


「望んだ? この姿を?」


そう聞くと、彼はうなずくように喉を震わせた。


「そうです。私はもう何も見たくなかった。やりたくなかった。だから、爆弾が飛んできても逃げなかった」


その話を聞いて、私は手が震え、冷や汗が垂れた。

この人は地獄から、戦場から逃れるために、この姿になったのだろうか。

わからなかった。


しかし彼はこう言った。

「この現実で生きることと、私の姿で生きること、どちらが地獄だと思いますか?」


「……私はわかりません。いまのこの状況では、どちらも地獄かもしれません」


彼はもうすぐに死ぬ。終わりが来る。

だが彼はとうにその事実を受け入れていた。


「この姿には終わりがある。だから、いいんですよ」


数日後、彼は息を引き取った。


最期の夜、外では小さな雨が降っていた。

看護師たちが眠る頃、私は一人で病室の前に立っていた。

機械の音がいつの間にか途切れていた。

彼の身体は冷たくなった。


だが最期まで、彼は穏やかだった。


まるで、生涯を円満に過ごせたかのように。


そしてまた、病院には次々と患者がなだれ込んでくる。

彼らも、私たちも、地獄に生きている。




そして時が経ち、戦争が終わった今でも、ふと彼のことを思い出す。

そしてあの言葉を反芻する。


――「この現実で生きることと、この姿で生きること、どちらが地獄か?」


もし私があの世に行ったとき、

彼にその答えを持っていけるだろうか。

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