第2話
それからおよそ四十分ほど経過した頃、漸くヴェルナーが帰宅した。手を洗ってからリビングにやって来た彼は、実にくたびれた様子で鞄を置き、ジャケットを脱いで所定の位置にかけた。
待っている間に洗濯物を片付け終え、シャワーも浴び、リビングでテレビを見ながらのんびりしていた十真は、ヴェルナーの姿を目にするとゆっくりと立ち上がる。
「おかえり、ヴェルナー」
「ただいまぁ……あぁ、今日も疲れたよ。道もちょっと混んでたし」
「お疲れさん。そういうこともあるよ」
「ありがと……ハグして。あとキスも」
「はいはい、もちろん」
自然な流れでハグやキスをしてから、ご飯にしようかと、十真はキッチンに向かう。ヴェルナーはそれについて行きながら、くんくんと匂いを嗅ぐような仕草をして、ぽつりと口にする。
「今日はご飯何? なんか、トマっぽい香りがする」
「おっ、トマト正解。今日はポトフ風トマト鍋だよ。……この前も鍋だったけど、そこは、ごめんな」
「何言ってるの、気にしないでよ。作ってもらってるのに文句なんか言うわけないし、鍋が続いてもそれはそれで俺はいいんだから! あ、じゃあ俺テーブルとかお皿とか準備するね」
「うん、ありがと」
何でもないようなヴェルナーの返答に、内心ありがたく思いつつ、十真は仕上げに取りかかる。その一方では、口にしたように、台拭きを片手にヴェルナーがテーブルを拭いていた。
コンロの前に立った十真は、鍋の蓋を取った。同時に湯気のせいで眼鏡が一気に曇ってしまったので、反射的に離れた。曇りが収まってから、改めて中身を確認し、火をつけて中火で温めていく。お玉を手に、火加減と沸騰具合を確認しつつ、思い出したように十真はぽつりと呟いた。
「そういえば、今日は本当はパスタにするつもりだったんだよね。トマトと挽肉のパスタ。……でもさ、乾麺あると思って帰って来たら、すっかりなくなってたんだよ。もうびっくりしちゃって。僕も物忘れが出てきたのかなぁ、なんて」
その話を、十真は何気ない気持ちで口にした。ヴェルナーも『そんなことがあったんだ』と笑ってくれるだろうと思って。しかし、ヴェルナーが見せた反応は、想定と違っていた。
「……あ、」
「……ん? どうした? そんなびっくりして……」
短く聞こえた声に、つい顔を上げると、箸やスプーン、フォークをテーブルに並べていたヴェルナーが、分かりやすく焦っていた。目線を逸らして青ざめているその顔は、どう見ても平常には見えない。何かあったのかと一旦火を止め、慌てて問いかける。
どうしたのだろうか――そう思っていると、手にしていた食器をテーブルに置いたヴェルナーは、十真の近くにやってきたかと思うと、まるで日本人のように、顔の前で手を合わせて力強く言葉を発した。
「ごめん! ほんっとにごめん! パスタがなかったのは俺のせいです!」
「……え、どういうこと?」
突然の衝撃告白に、十真は目を瞬かせ理由を聞いた。ヴェルナー曰く、こんなことがあったらしい……。
数日前のこと。その日は平日だったのだが、ヴェルナーは諸事情で一日家で研究データを纏めたり、書類作成をしたりするためにパソコンに向き合う予定だった。朝に出勤する十真を見送って、コーヒーを片手に仕事を始め、ある程度捗っていた頃。とある友人が『近くに寄ったから』という理由で家に遊びに来たのだという。
事前連絡もない突然の訪問に実に驚いたが、久々に顔を合わせた相手だったこともあり、快く招き入れ、懐かしい話等に花を咲かせていたという。
友人の訪問から一時間ほど経ち、丁度昼前になった頃。ヴェルナーから昼食もどうかと声をかけると、友人は『じゃあ、お言葉に甘えて!』と嬉しそうに笑った。
二人でキッチンに移動して、何があるのか確認する中、パスタが三束残っているのを見つけると、その友人は『もし良かったら、俺作るよ!』と言い出したという。ヴェルナーとしては、昼食に誘ったのは自分なのに、作ってもらうなんてどうなのかと少々躊躇った。しかし、ヴェルナーより相手の方が料理が得意であったため、まあいいかと頷いたのだった。
そして友人はその後、卵や粉チーズ、ニンニクチューブを活用し、見事パスタを二人分作り、ヴェルナーが淹れたコーヒーとともに食事を堪能したのだった。
帰り際、友人は言っていたという。
『乾麺も卵も結構使っちゃったから、ちゃんとトーマさんにも言っといてよ? 特にパスタなんて全部使ったから、言っとかないと後々困るかも!』
『もちろん! ちゃんとトーマに伝えておくよ!』
友人に笑顔で返し、帰宅する友人を見送った。しかし、その日はその後の仕事も忙しく、すっかり十真に伝えることを忘れていたという……。
事情を全部話してから、ヴェルナーは何度目か分からなくなってきた謝罪をする。最初は手を合わせていただけだったのに、いつの間にか頭を下げるような形になっていた。そこまでされると十真も申し訳なくなってくるため、体は起こしてもらうことにした。
それでも彼は申し訳なさそうに眉を下げてごめん、と口にしている。
「ごめん……本当に、ごめん……! ちゃんと言わなきゃいけなかったのに……すっかり忘れて……本当に申し訳ないよ……! トーマの夕飯作りの予定乱しちゃったね……」
しおしおと萎れていくかのように気落ちしているヴェルナーを見ていると、なんだか心が痛む。確かにそれは言っておいてほしかったが、悪意があったわけでもないし、そういうこともあるだろうと思うと、特に責められない。それに十真は、怒りやショックよりも、別の感情が先にきていた。
十真は、安心させるようにヴェルナーの背中を撫でてから、静かに口にする。
「……正直に言ってくれてありがとう。僕は怒ってないし、いいよ。それに……卵が一気に減っていた理由や、フライパンの位置が変わってた理由が分かったから、スッキリしたよ」
「え、あ……そっか、気づいてたんだ……」
「うん、流石にね。だって卵四つ減ってるのはおかしいし……」
「あ、それはそうか……」
相変わらず、悲壮感漂う顔つきで十真を見上げるヴェルナーをよしよしと撫でてから、十真もあの日のことを思い出す。
ヴェルナーの友人が家にやってきたというその日、夕飯自体は『カルテスエッセン』と呼ばれる簡易的なものにしたものの、それの準備をしている時に気づいたのだ。冷蔵庫の中にある卵が、明らかに減っていると。見たところ、四つほど減っているように見えた。
これに、十真は首を傾げた。卵が減っていること自体はいい。片してある位置が変わっているフライパンと合わせて、昼食に何かを作ったのだろうと推測できるからだ。しかし、四つはおかしいだろう。一人分の昼食に使う卵なんて、一つか二つだろう。卵を落としてしまったのか? という可能性も考えたが、だったらヴェルナーは何かしらの形で伝えてくれるのでは? ――こんなことを、あれやこれや考えていた。
そこまで考えるなら、直接ヴェルナーに聞けば良かったのだが……部屋にこもって仕事に打ち込んでいたため、声をかけづらかったのだ。
とはいえ、事情が判明したならなにも文句はない。寧ろ、友人が来ていたというなら納得だ。
「――ということで、そこまで気にしなくていいよ! というか、今からでも言ってくれて良かったよ。ありがとうな」
「トーマ……ありがとうね、ごめんね」
彼の背中をポンポンと軽く叩いて礼を伝えると、ヴェルナーは漸くほっと安心したような表情になった。
中断していた仕上げ作業を終え、漸く完成した鍋を写真に収めてから、ダイニングテーブルに持って行く。その間に湯気のせいで少し曇ってしまったが、まあ、気にしないでおこう。
「ということで、今日はポトフ風トマト鍋でーす」
「やったぁ、美味しそう!」
テーブルに置かれた鍋は、ほかほかと湯気を立てている。トマト色の濃厚なスープに、しっかり煮込まれたたくさんの野菜に、添えられた肉団子とソーセージ。そして、最後に軽く載せられたレタスが彩りを添える。
いただきます、と小さく口にした向かい側で、ヴェルナーは目を閉じて無言で手を合わせる。ヴェルナーが『いただきます』と口にすることは滅多にないが、異なる宗教の人物なのだから、特に気にしていない。見よう見まねでも手を合わせてくれるだけでもうれしい。
十真は、手元の器に野菜や肉団子を盛って口に運ぶ。あたたかく優しい味に、我ながらホッとする。その向かいでは、ヴェルナーが、箸でキャベツや玉ねぎといった野菜を口に運んで、はぁ、と小さく息を零す。
「おいしいねぇ、トーマ。すごくあったかいし、野菜も甘くて食べやすいよ」
「そりゃよかった。長いこと味染みこませたからな」
「ふふ、そりゃ美味しいわけだ。……この肉団子は、トーマが作ったの?」
「そうだよ、よく分かったな」
「最初は、トマトと挽肉でパスタ作るつもりだったんでしょ。だったらその挽肉を肉団子にしたのかなって」
「その通り。よく分かってるじゃん。……ちなみに、お味は?」
「とっても美味しいよ」
「そりゃ良かった」
その言葉に、十真も嬉しくなる。やはり、こうして喜んでもらえるのは良いものだ。
温かい気持ちで食事を進めつつ、そういえば、と十真はあることを思い出す。『あのさ』と声をかけると、肉団子を食べていたヴェルナーは、視線で『何?』と反応した。
「さっき、友人がパスタ作ってくれた話したよね? そのパスタどんなのか覚えてる?」
「え? えーっと……目玉焼きが載ったやつだったよ。麺にも卵が絡まってた」
「あー……もしかして『貧乏人のパスタ』って奴?」
「あぁ、それそれ! 変わった名前だよね~。とっても美味しかったんだよね。名前だけ聞くとびっくりするけど、ニンニクもきいてて、チーズもいっぱいかかってて、目玉焼きも載ってて、なんか、よかったなぁ」
「……そっか」
ニコニコと笑うヴェルナーの反応を見て、卵が多く使われていた理由に改めて納得がいった。イタリアでよく食べられているこのパスタは、名前に反して実によさげな見た目をしている。材料はシンプルながら、一人分を作るのに卵を二つも使うのだ。だから四つも減っていたということになる。
それはいい。しかし、どことなく複雑な気持ちがあった。勝手に材料を使われたことに――ではない。ヴェルナーが、夫である自分が知らないところで、自分が作ったもの以外を食べて『美味しかった』といっているのが少々もやもやするのだ。
別に、自分の手料理以外を食べるなと言うわけではない。ヴェルナーも外食はするし、友人の家で食事をいただくこともある。だが、今回は、十真は何も知らなかったし、後か事情を伝えられたとか写真を見せてもらったとかそういうわけでもない。なのに、『美味しかった』と言っている。まあ、平たく言えば嫉妬である。
――こんなおっさんになって、みっともないなぁ……。
とはいえ、何もずっと黙っていることはない。口にしていたソーセージを咀嚼して飲み込んだ十真は、改めてヴェルナーに言い切った。
「じゃあ今度、僕がそれより美味しい『貧乏人のパスタ』を作るから。楽しみにしてて」
「……っ、うん、楽しみにしてるよ!」
十真の宣言に少々驚いていたヴェルナーだったが、十真の言いたいことを察したのだろうか、笑顔でそう言ってくれた。
後日、乾麺を購入し調理した『貧乏人のパスタ』は、ヴェルナーにも非常に好評となった。
そうして二人で雑談をしながら食べていき、いつの間にか鍋もほぼカラになっていた。
スープのみが残った鍋を、ヴェルナーがじっと見つめている。
「ヴェルナー、もうちょっと食べたい?」
「あ、うーん、実は、そう……。まだ少し余裕あって……」
「わかった。じゃあシメで雑炊準備するから待ってて。いや、この場合はリゾットかな」
「うん」
やはり鍋の後と言えばシメだろう。この前は麺を入れたが、今回は冷ご飯を使う。
冷蔵庫で保存している冷ご飯を一旦ザルに入れて、粘り気を取るために流水で軽く洗う。続けて、鍋に残ったスープを煮立てて、顆粒ブイヨンと水を加えて沸騰させ、ご飯を入れていく。
暫く温めていると、少しずつ煮立ってきたため、器に割り入れた溶き卵をゆっくり流し入れる。少しして卵がある程度固まってきたら火を止め、ミックスチーズと自家製のドライパセリを載せたら完成だ。
具はあまり残っていないが、シンプルで良いだろう。
「お待たせ。シメの雑炊だよ」
「おお、チーズ載ってるのいいね! 美味しそう!」
「熱いから気をつけて」
「うん、ありがと」
シンプルな雑炊にも目を輝かせるヴェルナーを見ていると、なんだか本当に心があったかくなるし、好きだなぁと実感する。十真は料理を作るのも好きだが、食べてもらうのも好きなのだと再認識した。
器に雑炊を盛って、箸で少しずつ食べていく。トマトの味わいとチーズが絡んでちょうどいい。バジルの香りもいいアクセントになっている。
向かいでは、ヴェルナーが『美味しいねぇ』と言いながらゆっくり雑炊を食べており、ふと口にした。
「いやぁしかしこうして作ってもらってばっかで悪いなあ。大変だろうに」
「別にいいよ。僕、ご飯作るの好きだし、日本にいた時は甥っ子姪っ子のご飯とか作ってたし」
「あぁ言ってたね。人数も多いんだっけ」
思い出すような素振りをしつつ言葉を返したヴェルナーに、うんと短く頷く。
「そうそう。特に一番近い距離にいた子達なんて、六人きょうだいだったからね。しかも男の子五人で、女の子も含めてみんな運動部。みんなよく食べる子達だったよ」
「それは……大変そうだね」
「うん。でも、なんでも食べてくれるから楽しかったな。ストレス発散で考え無しに作った揚げ物とかも、みんな食べてくれるから」
「それは……そりゃ、みんな食べるよねぇ」
そう、それこそ肉や魚をひたすら揚げまくっても、六人に渡せば一気に食べてくれた。あれはあれで非常に嬉しいものだった。
「今とは違って、あれもあれで良かったよ。……まぁ、今はこうしてヴェルナーに食べて貰えるし、週末パーティもあるし、楽しんでるけどさ」
「そっか、それなら良かった」
ふと微笑んだヴェルナーを見て、今のほんのりとした静かな幸せもいいものだと実感した十真だった。
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