第6話 川べりのベンチで

約束の日の十一時が近づくにつれて、時計の針を見る回数が増えていった。

 朝の図書館は、ふだんと同じように始まった。

 返却本を受け取り、貸し出し手続きをして、調べものの人にレファレンスコーナーを案内する。

 ただ、その合間ごとに、胸の奥で「十一時」という数字が、何度も小さく点滅していた。

 何の本を持って行くかを決めたのは、開館から一時間ほどたったころだ。

 カウンターの前に、いつも来る小学生の男の子が立っていた。

 恐竜図鑑と、パンづくりの本を両腕で抱えている。

「これかりたいです」

「はい、貸し出しますね」

 カードを受け取りながら、わたしはパンの本の表紙を見た。

 ふかふかした丸いパンの写真が、きれいに並んでいる。

 イーストの使い方や、こね方の図解が載った、ごくふつうの実用書だ。

「パン、好きなんだね」

「うん。お母さんがパン屋で働いてて、おうちでも作るから」

 男の子は少しだけ誇らしげに言った。

 わたしは笑って本を返し、貸出処理を終えた。

 その背中を見送りながら、ふと思った。

 ――どの本でも構いません。

 手紙には、そう書いてあった。

 だったら、内容に意味はなくてもいいのかもしれない。

 むしろ、意味を持たせすぎないほうがいいのかもしれない。

 わたしはカウンターを離れ、一般書の棚に向かった。

 文学でも、哲学でもない棚に、わざと足を向ける。

 料理、手芸、園芸、暮らしの本。

 その中から、一冊のパンの本を選んだ。さっきの男の子が借りていった本とは別の、もっと小さくて写真の少ない入門書だ。

 背表紙のラベルを確認し、貸し出し処理をして、自分の名前を入れる。

 職員が業務のために本を借りることは、ときどきある。

 資料として読むこともある。

 きょうのこれは、資料とも習い事とも言えないけれど、用途欄にそんな項目はないので「自宅閲覧」とだけ記録された。

「少し外に行ってきます。十分くらいで戻ります」

 館長にそう告げると、「はいよ」と短い返事が返ってきた。

 窓の外の川べりを見て、「天気がもつといいね」と付け足す。

 曇り空は相変わらず薄く広がっているが、雨の気配はまだない。

 パンの本をトートバッグに入れ、名札を上着の内ポケットに差し込む。

 図書館の玄関を出ると、川からの風がひとつ、大きく頬を撫でた。

 川べりの遊歩道に出る。

 木製のベンチは、図書館の少し手前、橋には行かない側の河川敷にある。

 いつか誰かが寄贈したらしい、小さなプレートが側面に打ち付けられている。

 そこには、消えかけた文字で「みんなの休憩所」とだけ書かれていた。

 十一時ちょうどより、ほんの少し手前だった。

 ベンチには誰も座っていない。

 わたしはトートバッグから本を取り出し、そっと腰を下ろした。

 木の表面は、過去のいろいろな人の体温を吸い込んだあとで、すっかり冷めてしまった机のようにひんやりしている。

 川の音を背中で受ける形になって、わたしは本を膝の上に置いた。

 腕時計の秒針が、十一時に近づいていく。

 五、四、三、二、一。

 ぴたり、と長針と短針が重なった瞬間、わたしは表紙を開いた。

 中身は、予想どおりのパンの説明だった。

 強力粉と薄力粉の違い。

 ドライイーストと天然酵母。

 こね時間の目安と、発酵の見極め方。

 文字を目で追いながらも、頭の半分は川の音に向いている。

 ページの端が、風で少しふくらむ。

 ふと、対岸が気になって顔を上げた。

 川の向こう側にも、遊歩道がある。

 そこにも同じようなベンチがひとつだけあるのを、わたしは知っていた。

 ただ、これまであまり注意して見たことはなかった。

 そのベンチに、きょうは誰かが座っていた。

 遠くて顔までは見えない。

コートの色は、こちらからだと灰色にも紺色にも見える。

 膝の上に、本らしきものが開かれている。

 ページをめくる手の動きだけが、ときどき光を受けてわかる。

 わたしは自分の本に視線を戻した。

 パン生地を丸める写真の横に、小さな手書きのメモが印刷されている。

 ――ここまで来たら、あとは待つこと。

 パンづくりのコツとしては、当たり前のことが書かれているだけだ。

 でも、きょうのわたしには、それが別の意味を持っているように思えた。

 ページをもう一枚めくる。

 レシピの途中に、ふいに違和感のあるスペースがあった。

 材料の一覧と作り方のあいだに、少し広い余白。

 目を凝らすと、そこに非常に薄いインクで小さな文字が印刷されているのが見えた。

 ――おはようございます。

 「おはようございます」の五文字は、細くて、紙にしみこんでいる。

 最初からそこにあったのか、それとも今しがた浮かび上がったのか、判別がつかない。

 わたしは思わず、その部分に指先を当てた。

 触っても、インクはにじまない。

 ただ、紙の少しだけ冷たい感触があるだけだ。

 顔を上げると、向こう岸のベンチの人が、ちょうどこちらを見たような気がした。

 ほんの一瞬、視線がぶつかる。

 遠すぎて表情までは見えない。

 でも、ベンチから立ち上がる気配はなく、逃げるような素振りもない。

 わたしは、小さく頭を下げてみた。

 挨拶というには、少し照れた角度だった。

 向こう側の人も、同じくらいの角度で頭を動かしたように見えた。

 こちらからはそれが頷きなのか、ただの風のせいなのか、分からない。

 でも、それで十分な気がした。

 視線を本に戻す。

 さっきの「おはようございます」の下に、文字が一行増えていた。

 ――パンの本、いいですね。

 ごく普通の感想のようでいて、ここに書かれるには少し不釣り合いな一文だった。

 パンづくりの手順と手順のあいだに、誰かの声が挟まれているみたいだ。

 わたしはボールペンを取り出し、余白のいちばん端に、細い字で返事を書いた。

 ――そちらは、どんな本ですか。

 一行だけ書いて、ペン先を離す。

 インクが紙に食い込むように沈んでいく。

 顔を上げる。

 向こう岸のベンチの人は、まだ本を開いたままだ。

 風がページを少しふくらませ、すぐに落ち着かせる。

 再び視線を紙に戻すと、わたしの一行のすぐ下に、別の筆跡が現れていた。

 ――川の本です。

 その下の行が、すこし間を置いて増える。

 ――川べり図書館のことが、少しだけ出てきます。

 「川べり図書館」という文字を見た瞬間、胸のあたりが熱くなった。

 わたしが毎日鍵を開けている建物の名前が、パン生地の温度の隣に、当たり前のように並んでいる。

 ボールペンのインクが、ほんの少しだけかすれた。

 ――いつか、それも借りてみたいです。

 そう書き足すと、また紙から目を離す。

 今度はこちらから、先に向こう岸を見た。

 ベンチの人は、立ち上がってはいなかった。

 ただ、軽く本を持ち直す仕草をして、こちらに向かって片手を上げたように見えた。

 わたしも、本を持っていないほうの手で、小さく振り返す。

 それは、見ようによっては、川の向こうにいる見知らぬ人に手を振っているだけの光景だ。

 でも、わたしにとっては、それ以上のことでもあった。

 もう一度本に目を落とす。

 ページの下の端に、小さな一文が添えられていた。

 ――きょうの「唯一」が、おたがいに良い日でありますように。

 パンづくりの本に、そんな文言が印刷されているはずがない。

 でも、その一文は、この本の中で浮いているようには見えなかった。

 むしろ、粉や水や塩と同じくらい、必要な材料のひとつみたいに思えた。

 腕時計を見ると、十一時十分になっていた。

 約束は、たぶんこれで十分だろう。

 わたしはページを静かに閉じ、膝の上で本を両手で包んだ。

 向こう岸のベンチの人も、ほぼ同じタイミングで本を閉じたようだった。

 立ち上がる影が、川の向こうにひとつ揺れる。

 歩き出せば、すぐに見えなくなる距離だ。

 わたしはそれ以上じっと見つめることはせず、本をバッグにしまって立ち上がった。

 ベンチに残るのは、わたしの体温と、木のきしむ音だけだ。

 川の音は、さっきと変わらない。

 それでも、さっきまでの十分間だけは、向こう側とこちら側の音が、少しだけ混ざり合っていたような気がした。

 図書館に戻る道を歩きながら、わたしはパンの本の重さを確かめた。

 レシピは、おそらく昨日までと何ひとつ変わっていない。

 変わったのは、紙の余白の一部と、それを読んだわたしのほうだ。

 きょうの「唯一」は、川べりのベンチの上にあった。

 そう思うだけで、図書館までの道が、いつもより少しだけ短く感じられた。

第七章 唯一な日々の続き

 図書館に戻ると、館長が新聞に目を通しながら、「いい散歩になりましたか」と聞いてきた。

「はい、川を見てきました」

「それは何より」

 館長はそれ以上追及してこなかった。

 パンの本の背表紙をちらりと見て、「おいしいものでも作るんですか」とは言わなかった。

 その沈黙に、わたしは少し救われた気がした。

 カウンターの裏に回り、さっきの本をワゴンの上に置く。

 背表紙のラベルは、普段の本たちと同じ顔をしている。

 どの本が「唯一」を知っていて、どの本がまだ知らないのかは、外から見ただけでは分からない。

 午前中の残りの時間は、ふだんよりも早く過ぎていった。

 パンの本のことを考えながらも、目の前にいる人たちの本をきちんと扱わなければならない。

 返却される本、借りられていく本。

 そのどれにも、小さな「唯一」が潜んでいるのかもしれないと考えると、背表紙に触れる指先が、いつもより少しだけ丁寧になった。

 昼休み、職員用の休憩室でおにぎりを食べながら、わたしは引き出しにしまっておいた封筒を取り出した。

 川向市立図書室からの手紙は、読み返すたびに紙の色が少しずつ濃くなっていくような気がする。

 ――「唯一」であることを求めてくる本を見つけたときには、どうか、そちら側の判断で残すべき場所を選んでください。

 責任重大なお願いのようにも読めるし、ただのお願い事のようにも読める。

 どちらにしても、「選ぶ」ということからは逃げられないらしい。

 パンの本は、昼の光の中では、ただの実用書の顔をしていた。

 余白に書き込まれた文字も、今はもう見えない。

 もともとそこにあったのか、きょうの十一時だけに浮かび上がったのか。

 たぶん、どちらも正しいのだろう。

 ふと、別の棚のことを思い出した。

 二階の窓際、913の棚。

 『川の向こうで読む本』が、今は一冊だけ並んでいるはずの場所。

 午後の合間に、少しだけ階段を上った。

 見回りという名目は、こういうときに便利だ。

 例の棚の前に立つと、そこにはたしかに一冊だけ、淡い青い本がいた。

 背表紙に触れる。

 ラベルの番号は、きちんとひとつぶんしかない。

 そっと取り出し、奥付を開いてみる。

 ――印刷・製本:町立川べり図書館

 あの夜と同じ表示だった。

 最後のページの余白に、薄いインクで一行だけ、目を凝らさないと見えないほどの文字があった。

 ――返却済み。

 図書館の本にしては、ずいぶん簡潔なメモだ。

 でも、それ以上の説明はいらないのかもしれない。

 ページをそっと閉じ、棚に戻す。

 青い背表紙は、他の本と同じように、何事もなかった顔をして列に収まった。

 二階の窓から川を見下ろすと、橋が小さく見えた。

 きのうと、きょうと、その間に沈んでいった一冊の本。

 そして、向こう側の図書室から届いた一通の手紙。

 もし、この先も「唯一な日」が続いていくなら、きっとああいうことが、ときどき起こるのだろう。

 返却ポストの中から、本じゃないものが出てくる日。

 棚の隙間に、知らないしおりが挟まっている日。

 貸出記録にはないはずの名前が、奥付の余白にだけ書かれている日。

 そういう日を、そのたびに不思議がっていればいい。

 すぐに「ただのミスだ」と片づけてしまわず、少しだけ考えてみればいい。

 それが、川べり図書館の司書になったわたしの仕事のひとつなら、悪くない。

 夕方、窓の外がオレンジ色に傾きはじめたころ、カウンターの前に一人の小学生が立った。

 きょうの午前中にパンの本を借りていった男の子だ。

「これ、返します」

 差し出されたのは、恐竜図鑑のほうだけだった。

 パンの本は、まだ家にあるらしい。

「どうだった?」

「きょうりゅうの名前、ぜんぶおぼえるのはむりだと思いました」

 男の子は真剣な顔で言った。

 わたしは笑って頷く。

「そうだね。きょうりゅうは、覚えようとするより、好きなのだけ覚えればいいと思うよ」

「うん。ぼく、トリケラトプスだけ覚えます」

 それでじゅうぶんだと思った。

 世界中の本のタイトルを全部覚える必要がないように、恐竜の名前も、パンの種類も、全部知る必要はない。

 大事なのは、きょう一日、自分がどのページを開いたかだ。

 それがその人にとっての、「唯一な日」の一部になる。

 図書館を閉める時間になって、館長が「きょうもお疲れさま」と言って帰っていった。

 カウンターにひとり残ったわたしは、照明を少し落としながら、ふと思い立って引き出しを開けた。

 川向市立図書室からの手紙。

 厚手の紙を取り出し、もう一度だけ読み返す。

 ――川のこちらとそちらは、いくつかの「唯一な日」で、ゆっくりとつながっていきます。

 「いくつか」という言葉が、妙に具体的で、妙にあいまいだ。

 それが三つなのか、十なのか、百なのかは分からない。

 でも、少なくともきょうまでのところで、わたしにはもう、二つか三つ心当たりがあった。

 返却ポストから出てきた、見知らぬ本。

 橋の上で手を離した、一冊の青い本。

 川べりのベンチで、パンの本の余白に浮かんだ文字。

 それらをまとめて、一つの棚に入れてしまうこともできる。

 でも、わたしはあえて、そうしないでおくことにした。

 それぞれの日の「唯一」は、それぞれの場所に置いておきたい。

 返却ポストには返却ポストの。

 橋には橋の。

 ベンチにはベンチの「唯一」がある。

 わたしの仕事は、それらを全部集めて目録を作ることではない。

 ただ、気づいたときに、そっと覚えておくことだけだ。

 電気を消し、ガラス扉に鍵をかける。

 図書館の外に出ると、川からの風が、きょうは少しあたたかく感じられた。

 橋のほうを見ても、きょうはもう行かない。

 きょうの「唯一」は、もうさっき閉館前に、ちゃんと終わっている。

 あとは、明日のぶんを空けておくだけだ。

 家に向かう道を歩きながら、わたしはふと、パンの本のページを思い出した。

 そこに書かれていた、小さな文言。

 ――ここまで来たら、あとは待つこと。

 たぶん、あれはパンだけの話ではない。

 川べり図書館の仕事にも、川向市立図書室との間にも、そして井辺杉花蓮のこれからの日々にも、同じことが言えるのだろう。

 きょうの「唯一な日」は、静かに本を閉じる音で終わった。

 明日はどんな一行が、その日のどこかに書き足されるのか。

 それを少しだけ楽しみにしながら、わたしは自分の家のドアノブに手をかけた。

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