第2話 1 眠りの国へ。保養所とカフス
穴に落ちた日を境に、ケンジはまったく夢を見なくなった。だが熟睡しない日も多く、以前より睡眠の質もよくはない。
それでも悪い知らせばかりではない。ケンジが受験した中学校から合格の連絡が入ったのだ。
「光が丘中学校への入学が決まったんだってね。おめでとう。もう、変な夢をみていないの?」
久しぶりの心療内科では、開口一番に医者がそう尋ねてくる。
「見ていません」
「そうか、頑張ったね。もう来なくていいよ。お薬は必要な時に取りに来なさい」と医者は言い、あっさりと通院は終了となった。
帰りぎわ医者は「うちの子も同じ中学校なんですよ。ケンジ君よりも一つ上だ。いや、本当にいい学校ですよ」と嬉しそうだったので、母は仕方なく苦笑いをする。
病院を出るとケンジと母は並んで歩道を歩いた。
「よかったね。でもゲームは慎重にね」
母の言葉に、珍しくケンジは素直にうなずく。
「さあ、悪夢終了と合格祝い」
母はそう言い、ケンジと一緒に近くのスーパーに入った。今夜は手巻きすしにするよと言いながら、海鮮売り場へと足を運ぶ。その嬉しそうな様子を見ながら、彼は夢で落下した話は内緒にしておこうと決めた。
ケンジのお祝いをした数日後、ユウの担任から母に連絡が入った。どうやらユウの具合が悪いらしい。
体調を崩すのは珍しいと言いながら、母は会社を早退して学校へ向かった。
ユウは「大丈夫なんだけど」と母にほほ笑んだが、家に入ったとたん、すぐにベッドに潜りこみぐうぐうと寝てしまった。
それから三日が過ぎ、一週間が過ぎた。だがユウは一向に回復の兆しはない。母はとうとう会社に長い休みを申請した。
「ああ、これでのんびりできるわ」
そう母は疲れた顔で笑った。ケンジとしても母が毎日家にいるのは嬉しいが、その横でユウが寝ていると思うと気分がふさいだ。
ユウが病気になってから、ケンジは夕食を運ぶ役割になる。今夜も夕飯のスープをユウに届けた。妹は読書が好きだ。だがアンデルセンはもちろん、漫画でさえ読んだ形跡がない。ただ静かに目を閉じていて、その姿はまるで死人のようにみえた。
ケンジがスープをそっと机に置くと、気配を察したのかユウが目を開いた。
「あーよく寝た」
ユウはそう言いながらベッドから上半身を起こす。ふっくらしていた体はほっそりして、顔色が悪い。
「何か飲む? サイダーとか」
「ううん、大丈夫」
ユウは少しだけ咳をし、ベッドの上にひょいと上がって窓を開けた。そして運んできたスープを口にしながら「ねえケンジ、最近夢は見ている? 」と聞いてくる。
「もう見ていないよ」
「そうなんだ。ユウ、最近夢が妙にリアルになってきたの。前は砂あらしみたいだったんだけど、いまは海岸にいる」
「海岸に?」
「うん、でもきっとケンジのとは違うと思うよ」
そう言うとユウははスープを飲み干し「ごちそうさま」と言った。
もうすぐ春がくるーー。そんな予感をさせる夜風だ。しばらくすると時計がピピッと鳴った。
「もう八時かぁ」
「本当だ」
ユウがこんなに長い時間を起きているのは珍しい。ちょうどその時、母が二人のいる部屋に顔をのぞかせた。
「あら、ユウ。起きてるのね。ちょうどいいからシーツを取りかえさせて」<
「はーい」
母親がきたので、ケンジは立ちあがった。ユウも海岸の夢を見るとは。奇妙な一致にケンジの心は落ち着かなくなった。
急に母に急かされ、ケンジは掃除を手伝わされる。どうやらユウの担任が家庭教師を買って出てくれたらしいのだ。正直、ケンジも母親もこれほどユウが長く病気にかかるとは思っていなかった。掃除というのはいい訳で、二人とも何か気分転換をしたかった。
「これからは週に二回くらい家に通ってくださるの。悪いけど」
そう言われたので、ケンジは洗面所から食器棚、そして窓にいたるまでを雑巾で拭いた。
「母さんさあ、こき使いすぎ」
「何いってんのよ。あんた最近、パズルとマンガを見てるだけじゃない。運動不足を解消するにはいいでしょう」
ケンジはなんだよと言いながらも、母の指示通りにする。
「あとはテレビね。ふきんで磨いておいて」そう言うと母はユウの部屋へと去っていく。やれやれと思った矢先、ケンジの額を小さな光が飛んでくる。
あのインコだ!
インコは嬉しそうにケンジの頭の上にチョコンと乗る。しばらくケンジの頭をクルクルと回ると、やがてテレビの裏へと旋回した。
よく考えるとテレビの周りばかりを気にしている。そこでケンジは、テレビ画面を横に動かしてみた。すると電源が外れて、なにか小さな貝殻のような箱が見える。
「終わった? なにしてんの」
ケンジの様子をみて母がそう尋ねる。
「いや、オレもわからないんだけど……。なんだろうコレ」
見つけたものを取り出すと、母は急に「やだ、懐かしい」と言う。貝殻でできた宝石箱で、なんとなくユウが気に入りそうなデザインではある。
「これ、お父さんのカフスが入ってた箱」
「カフスって?」
「カフスってのはスーツを着るときに腕の部分につける装飾品よ。こんなトコにあったんだぁ」
そういいながら母は貝殻のケースを開くと、カフスが一個入っていた。ケンジが振り返ると、インコはもう消えていた。
「カフスって腕につけるんでしょ?二つあるんじゃない?」
「それもそうね」と言いながら、母とケンジはもう一度テレビの裏を探してみる。だが片方のカフスは見つからなかった。
「いつか出てくるわよ。オッケー、じゃあリビングは完璧。お昼にしよう、なにがいい? 」
「チャーハンを」
そこで母は冷蔵庫から卵とネギ、エビとマッシュルームを取りだし中華鍋に火を点けた。チャーハンは母が得意とするレシピのひとつだ。
中華皿にチャーハンを盛りつけると、二人で向かいあって食べる。
「掃除の後で悪いんだけど、次の土曜日も空けといてくれない?」
「出かけるの?」
「うん、案内したい場所があってさ」
母は笑顔を見せると「ユウのことは、おばあちゃんにも一応伝えてあるから」と言い、ケンジよりも先にチャーハンをたいらげた。
* * *
舟の支度をしていると、遠くから歩いてくるものがいた。女は目を凝らしてイメージを読む。
「あの玉と関係がある子だ、えらく悲しんでるね」
「お父さんを探しているんです」そうインコが言う。
強い波動を感じる。どうやら空もソレをキャッチしているようだった。
(はよ、あの娘を連れて漁に出よ)
生きている娘を漁に連れていけだと? この間の若いカップルも海に飲みこまれたばかりだというのに!
「夢の中でお父上を探しているようです」
女は困って空を見る。さっきから頭の中には同じメッセージばかりが届く。(娘と一緒に海に行け)と。
「賢い鳥よ、ここで主の姿を見かけたことは?」
「一瞬ですが……」
それを聞いて女は浜辺に急いだ。案の定、すでに少女は舟のある場所にいた。不安げな表情をしている。
「ねえ、ここでなにしているの?」
「あなたは……」
「この世界の住人だよ」
「そう……。私はどうしてココにいるの?」
「わからないの?」
「うん、いいえ。わかってる。お父さんに会いたくて探してるんだわ」そういうとユウは沖をみる。空では雷雲がゴロゴロと鳴った。
(おいで、娘。漁に出ようーー)
まやかしだ。どうやらこの子に父親の幻想を見せているようだ。
「あそこに舟がある」
「そう、漁をしているからね」
「お父さんが沖へいく舟に乗れって――。乗れるもの?」
「さあ」
(早く沖を目指せ!) 稲妻と共に強烈なメッセージが脳裏を再び貫いた。女は思わずかがみこむ。
「大丈夫? ええと、あなたの名は――」
「今度教えるよ。ここは危険だ。帰り道はわかる?」
少女は悲しそうに首を横にふる。女は腰の脇にある袋から貝殻の細工の装具を娘にみせた。ユウは不思議そうにそれを見る。
「あんたのお父さんが持っていた。しばらくは私が守るから大丈夫。さあ目を開けなさい」そう言って額に手を当てると、ユウはするりと空の中に消えていった。女はインコをふり返った。
「これだけ近づいてくるって、何かあるね」
(沖をみてください)
インコが言う方向を見た。たしかに沖がざわめいている。
「少女の波動に引きよせられているんだろう。玉が波打ち際で踊っている。あんなのに触れたら舟ごとこっぱみじんだ」
「それでも、渦はあの玉を欲しがっているのでしょうか」
「たぶんね。わかっちゃいない。(処理場)に放りこめるのは、誰にも見とがめられなかった弱い魂だけなのに」
「どうやらあの子たちは、かなり気に入られているようです」
「ちょい危険だが――、あの子たちをココへ呼んでみようか。体ごとね」
「ここへ、ですか?」
「うん。父親の魂が浄化を拒むなら、元に戻そう。正直、あの父親がいるからみんな騒ぎ出すんだ」
「でも……。もし失敗したら」
「一か八かだね。このままだとどっちの世界も落ち着かない。さまよってる父親の玉も路頭に迷うだろう。あの子も体調がよくなさそうだ」
「私はーー。何をすればいいのでしょう」
「この細工を拾った場所に結界がある。そこまで兄妹を呼びたいんだけど。できる?」
インコはしばらく考えこんでいる。
「あの親子の魂は――。その、それだけの力があるのでしょうか。あの方たちと時間を共有していた間、ご家族は慎ましい生活でした。この世界が欲しがるパワーがあるとは、とても考えられません」
「穏やかで幸せな家族だったんじゃない? その愛が欲しくてたまらない連中はうじゃうじゃいる」
インコはハッとしたようだ。急に離れると空に飛び立ち、やがて消えていった。
「どうも鳥の奴らってのは、急に思いたつと飛んでっちゃうんだよなぁ。だから翼があるのかね」そういうと、女は雷雲が轟く海辺へと去っていった。
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