アヴェリア物語 〜これは、一人の青年の復讐から始まる、星の運命に抗う物語〜
卓上の語り部
第1話 『平穏な日々と、古の噂』
太陽が豊穣のレムリア平野に琥珀色の光を投げかけ、一日の終わりが近いことを告げている。 辺境の村ウィスパーウッドは、夕餉の支度の匂いと、家路につく人々の穏やかな喧騒に満ちていた。
遠くの鍛冶場から聞こえるドワーフの規則正しい槌の音。
村の広場では、子供たちが泥だらけになって最後の追いかけっこに興じ、その突き抜けるような笑い声が、焼きたてのパンの甘い香りと混じり合って風に乗る。
この村の誰もが、明日も同じ日が来ることを疑っていなかった。
「よし、今日はここまでだ! みんな、ちゃんと剣の手入れを怠るなよ」
広場の片隅で、リオスは木剣を振っていた子供たちの頭をわしわしと撫でた。
子供たちは元気よく返事をすると、母親の待つ家へと駆けていく。
その背中を見送るリオスの口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
彼にとって、この何でもない日常こそが、守るべき宝物だった。
ふと視線を上げると、広場に面した一軒の家の窓辺に、見慣れた姿があった。 幼馴染のリーナだ。 彼女は、窓から差し込む夕日も意に介さず、山と積まれた古文書と、奇妙な輝きを放つ観測器に没頭している。
(またあの石ころと睨めっこか)
リオスは苦笑し、彼女の元へ向かうと歩き出した。
そのリオスの姿を、広場の大きな樫の木に背を預けたまま、一人の男が静かに見ていた。
獣人族の戦士、ゼノスだ。
彼は一見、気だるげに村の風景を眺めているだけに見える。 だが、その鋭い瞳は、今日村を訪れた見慣れない行商人の荷馬車と、その男が支払いに使った妙に光沢のある銀貨を、見逃してはいなかった。
(『星晶銀』……。こんな辺境の村にまで流れてきているとはな。厄介な匂いがする)
ゼノスは舌打ちを一つすると、友人たちのいる家へと、影のように音もなく歩き出した。
リーナの家の扉は開け放たれていた。
薬品と古い紙の匂いが混じった空気が、彼女の仕事場であることを物語っている。
リオスは足音を忍ばせて中に入り、熱中するあまり栗色の髪に絡みついた埃を、そっと、ためらいがちに指で払った。
「……ん」
リーナは小さく声を漏らし、やっと顔を上げた。 その大きな瞳は少し赤いが、奥には探求者の熱が燃えている。
「リオス……。いつの間に」
「お前が集中しすぎなんだ。もう日が暮れるぞ。たまには外の空気を吸わないと、その綺麗な髪がカビだらけになる」
軽口を叩きながらも、リオスの声には優しさが滲んでいた。 リーナは少し頬を赤らめ、慌てて話題を変える。
「そ、それどころじゃないのよ! 見て、これ!」
彼女が指差す観測器の内部では、エーテル結晶が今までになく強い紫の光を放っていた。
「天蓋山脈からの『律動』が、この三日で急激に強くなってる。古文書にある『厄災の律動』と完全に一致するのよ! ねえ、リオス、もしこれが本当に、世界を一度滅ぼしかけたっていう『大いなる仕掛け』の目覚めの予兆だとしたら……」
早口で語る彼女の声には、興奮だけでなく、未知への微かな恐怖が混じっていた。
「……古代のことは、古代の学者に任せておけ」
リオスは観測器をそっと古文書の横に戻し、リーナの肩に手を置いた。
「俺は、難しいことは分からない。ただ、お前がそんな顔をしてるのは、見たくない。腹、減ってないか? 今日はシチューらしいぞ」
その不用な慰めに、リーナの表情が少しだけ和らぐ。
「……お取り込み中か?」
入口に、いつの間にかゼノスが立っていた。
「邪魔するなよ、ゼノス」
「別に。お前たちの痴話喧嘩なぞ、興味はない」
軽口を叩き合う二人を見て、リーナは小さく笑った。 リオスがいて、ゼノスがいる。 この時間が、彼女にとってもかけがえのないものだった。
しかし、ゼノスの心は晴れなかった。 彼は、リーナが指した観測器の紫の光と、昼間に見た行商人の銀貨の輝きが、頭の中で不吉に結びつくのを感じていた。
(リーナが追っている『古代文明』の謎と、『闇の一族』が血眼で探す『星晶銀』。これがもし繋がっているとしたら……この村の平穏は、もう――)
その思考を、彼は決して口には出さない。 この平和な友人たちに、自分が生きる裏世界の臭いを嗅がせるわけにはいかなかった。
夕闇が村を包み込み、家々の窓に温かい光が灯り始める。 リオスとリーナの淡い想い。 ゼノスが胸に秘めた友情と孤独。 三人の若者の日常は、確かにこの瞬間、ここに存在していた。
――この、焼きたてのパンの匂いと子供たちの笑い声が満ちた平穏な光景が、翌朝には、炎と絶望の叫びに包まれることになるとは、彼らはまだ、知る由もなかった。
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