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    レールへの応援コメント

    環境は個人の集合であることを見落としてませんか?この結論だと死を選ぶ主体は常に影響の余地のない不変の環境に死を選ばされていることになります。

    でも死を選ぶ主体もその環境の一部ですよね?環境の範囲にもよりますが5人家族であれば20%、学校の30人クラスであれば3%ちょい、1億2000万人の国でもすっごい小さい%の能動性はあるのでは?容易に排除すべきではないくらいの、けっこう頑張る余地ありません?

    たしかに範囲によっては無視して構わない小さなものかもしれませんが、それを無視していいなら環境のほうを無視して死は能動的だと言い切ってしまってもよくなるかもです。

    なのでもしこの論調のまま閉じるなら、環境を大きな範囲にした方がいいかも。「自然科学的な環境において」など大きな範囲の前提を付け加えるべきかなと思いました。淘汰圧的な感じ?それでも人間は介入しつつある気はするけど、個人としての影響は極めて低くなるのである程度納得できます。

    もしくは環境と個人についてきちんと論じてその上で結論を出すべきかもです。

    私も読んだ感覚で疑問に感じたことを書いてるので、きちんと論じれば環境と個人を考えた上でもあなたの論調は正しいかもしれません。

    構造がしっかりしていてすごいです。なのでぜひもっと深めてみてください。哲学を楽しんで。

    追記
    昨日までの環境の100%には、昨日の主体の20%が含まれていますよね?もしくはそもそも個々の時間における主体は独立していて連続的と考えないということですかね?

    前者であるなら主体の選択は昨日の主体自身の20%の自由意志を含んでいませんか?

    後者であるならそもそも自由とか能動、受動とか主体とか、継続性が前提にある枠組みの話をする必要がないのでは?時間を点で捉えて主体は別個の存在でいいならそもそも考える必要のない範囲であり、いっそエポケーしたらよくないですかね?そうして点においての他のことを考えるべきでは?

    とりあえずあなたの論調を守るために前提となる語句や範囲について、最初に共有はした方がいいのかもと感じました。特に環境については改めて書いてみてほしいです。

    『原論文で言ってる「環境」って、もうすでにかなり包括的』これを正確にしておくと多分より分かり易いです。でないと私は元々関心があってこうしてコメントしてあなたの解釈を確認できていますが、多くの人はそれぞれに環境の範囲を設定して解釈がまったく一致しないと思います。

    あなたは優れているので、前提をもっと大切にした方がよいのかなと思います。

    作者からの返信

    意見ありがとうございます。
    まず「環境は個人の集合」というご指摘についてなんですが、
    「環境は個人の集合なんだから、個人にも能動性があるはずだ」と言いたいのかな?と思ったんですけど、これは違うんじゃないかなと思います。
    何かを構成してることと、そこから独立してることって全然別の話で、例えば、観客は劇場を構成しています。でも個々の観客は劇場の音響や照明に影響されているわけです。構成要素であることは、その影響から自由であることを意味してないと思います。
    次にパーセンテージの話なんですが、
    「5人家族なら20%の能動性がある」と数字出されてますけど、これカテゴリーエラーだと思います。
    環境への寄与度と、決定論的影響からの自由度って、まったく別次元の概念だと私は考えてて、たとえ貴方が環境の20%を占めてたとしても、貴方の今の選択は100%、昨日までの環境条件(昨日までの貴方自身も含めて)に決定されています。
    ここで重要なのは時間軸なんです。今の貴方は全部、過去の環境(過去の貴方を含む)が作り出したものじゃないでしょうか。だから「環境の一部である」ということは「環境から独立してる」ということにはならないはずです。
    それから「個人の影響が小さいなら無視していい。じゃあ環境も無視して死は能動的だって言えるんじゃない?」という論理なんですが、これ対称的じゃないと思います。
    というのも、環境→個人の因果関係は、物理学、生物学、心理学で実証されてるはずなんですけど、個人→環境への影響は確かにありますが、それは独立性の証明じゃなくて、因果の連鎖の一部でしかないはずです。「影響が小さい」ことと「因果的に独立してる」ことは全く違う話なので、どっちも小さいから同じでしょ、っていう相対主義は通用しないはずです。
    「環境の範囲を明示すべき」というご指摘については、
    原論文で言ってる「環境」って、もうすでにかなり包括的で、遺伝、脳の状態、人間関係、文化、個人の歴史、思考パターンの形成過程、全部含んでいます。「淘汰圧的な」って仰ってる大規模環境を想定すればするほど、個人の選択を決定する要因は増えていきます。範囲を広げれば広げるほど、「環境から独立した能動性」の入る余地は減っていくんじゃないでしょうか。
    「けっこう頑張る余地ありません?」っていう点については、主観的な努力の経験と、形而上学的な自由を混同されてるんじゃないかなと思うんです。
    「頑張る」って感覚自体が、過去の条件に決定されてるんですよね。頑張ってるって感じることと、環境から独立して選択できることは別物で、私は後者について論じています。
    結論としては、「個人は環境の一部」っていう事実は、能動的死が存在する証拠にはならないと思います。むしろ逆で、個人が環境に完全に組み込まれてるっていう事実こそが、決定論的な因果の連鎖から逃れられないことの証明になってるんじゃないでしょうか。
    長い文読んでいただきありがとうございました。疑問に答えれていたら幸いです。

    追記

    ご指摘ありがとうございます。非常に鋭い問題提起だと思います。特に前提の明示が不十分だったという点は、その通りだと思います。まず前提を整理した上で、ご質問に答えさせてください。
    前提の明確化:「環境」の定義
    原論文における「環境」とは、以下を指します:
    ある時点における主体の選択に影響を与える、それ以前のすべての条件のことです。またこの環境についても書けるかもしれませんね。

    物理的条件(遺伝情報、脳神経系の状態、身体状態)
    認知的条件(過去の経験によって形成された思考パターン、価値観、信念体系)
    社会的条件(人間関係、文化、社会規範、言語)
    歴史的条件(個人史、時代背景)
    そして重要なのは、過去の時点における主体自身の状態もこれに含まれるということです。

    つまり「環境」は主体の外部だけでなく、主体の過去の状態すべてを包含する概念です。

    ここからは質問への応答です。

    昨日までの環境の100%には、昨日の主体の20%が含まれていますよね?という質問です。

    昨日の主体は確かに今日の環境の一部です。しかし、その昨日の主体自身が、一昨日の環境によって決定されているんです。
    具体的に言えば
    今日の私は、昨日の環境(昨日の私を含む)によって決定されています
    でも昨日の私は、一昨日の環境(一昨日の私を含む)によって決定されています。
    一昨日の私は、その前日の環境によって決定されています
    この連鎖を遡っても、どこにも「環境から独立した自由意志」の起点は見つからないんです。


    前者であるなら主体の選択は昨日の主体自身の20%の自由意志を含んでいませんか?

    ここが核心だと思います。「昨日の主体の20%」が今日の選択に含まれていることは認めます。しかし問題は、その「昨日の主体」自体に自由意志があったかどうかなんですよね。
    もし昨日の私が一昨日の環境に完全に決定されているなら、今日の選択に「昨日の私の20%」が含まれていても、それは自由意志の継承ではなく、決定論の継承なんです。
    たとえ話をすると、ドミノ倒しのようなものです。10番目のドミノが9番目のドミノに倒されたとき、確かに9番目のドミノの影響は大きいです。でも9番目のドミノ自身が8番目のドミノに倒されていて、8番目も7番目に倒されていて...という連鎖がある。この連鎖のどこかに「自分で倒れることを選んだドミノ」がいないなら、10番目のドミノも自由意志で倒れたとは言えないんですよね。
    「昨日の私」の影響が大きくても、その「昨日の私」に自由がなければ、自由は継承されないんです。ゼロに何をかけてもゼロになるように、決定された存在から決定された存在が生まれ続けるだけなんです。

    後者であるならそもそも自由とか能動、受動とか主体とか、継続性が前提にある枠組みの話をする必要がないのでは?

    これも鋭いご指摘です。ただ、私は主体の継続性を否定しているわけではないんです。
    主体は時間的に連続していますが、その連続性自体が因果的決定の連鎖であるというのが私の立場です。川の流れのように、今の状態は過去の状態から連続的に流れ出ていますが、その流れの方向は過去の条件に決定されています。川は連続して流れていますが、水分子一つ一つは重力と地形に従っているだけです。
    エポケーすべきというご提案も理解できますが、原論文の目的は「能動的死という概念が成立するか」という問いに答えることなので、主体の継続性を前提とした上で、その継続性の中に自由意志が入り込む余地があるかを検討する必要があるんです。
    より正確な論述をするなら
    貴方のご指摘を受けて、より正確に表現するなら
    今の私の状態は、昨日の私と昨日の外部環境によって決定されます。しかし昨日の私の状態もまた、一昨日の私と一昨日の外部環境によって決定されています。この連鎖をどこまで遡っても、「環境から独立した自由意志」の起点は見つかりません。したがって、主体が環境の一部であることは、主体が自由意志を持つことを意味しないんです。
    これは入れ子構造になっていて、どの箱を開いても、その中にさらに箱があって、どの箱にも自由意志は入っていないんです。

    結論
    「昨日の主体の20%」が今日の選択に含まれることは事実です。しかしその20%自体が、さらに過去に完全に決定されています。
    パーセンテージの足し算や掛け算ではなく、決定論の連鎖なんですよね。各時点で主体がどれだけの割合を占めていても、その主体自身が過去に決定されている限り、自由意志は生まれません。
    前提を明確にする重要性をご指摘いただき、ありがとうございました。

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