暗算

はらほろひろし

暗算

新宿三丁目の雑居ビル三階、階段を上がると息が切れるようなウェブデザイン会社で、田中健一は今日もパソコンに向かっている。三十二歳。フォロワー数、二百三十七人。


問題は、この二百三十七という数字である。微妙なのだ。「SNSやってません」と言い切れるほど少なくもなく、かといって「ちょっとやってます」と謙遜できるほど多くもない。中途半端の極致である。


同期の佐藤は三万人だ。「いやー、最近伸び悩んでてさ」などと言う。後輩の鈴木は八千人で「まだまだっすよー」と笑う。健一は、笑顔で頷きながら、心の中で電卓を叩いている。三万引く二百三十七。八千引く二百三十七。暗算が得意になった。


健一の夜は長い。歌舞伎町のワンルーム、六畳、風呂トイレ別、家賃八万五千円。ここで健一は、スマホと格闘する。


カフェラテの写真。ハッシュタグ十個。投稿。いいね、十三個。ハッシュタグ一個あたり一・三いいね。


夜景の写真。ハッシュタグ十五個。投稿。いいね、十八個。ハッシュタグ一個あたり一・二いいね。ハッシュタグ一個あたりのいいね効率が下がった。


自撮り。勇気を出して投稿。いいね、九個。ハッシュタグは四個だったので、ハッシュタグ一個当たりのいいねが二・二五個になって効率的になったが、意味がないことに気が付いた。健一は布団をかぶった。


深夜、目が覚めて、またスマホを見る。佐藤の最新投稿、いいね三千二百。健一の最新投稿、いいね九個。三千二百引く九。健一は暗算した。暗算しなければよかった。


ある日、新宿駅東口で、運命の看板を見た。


「フォロワー爆増!あなたもインフルエンサーに!」


健一は、この手の広告を今まで百回は無視してきた。百一回目、ついにクリックした。人間、弱るものである。


代々木のタワーマンション二十三階。眺望最高、家賃推定三十万円。ここがSNSコンサルの事務所だった。


健一は窓の外を見た。二十三階かける三十万円。六百九十万円の眺め。なかなかである。


「あー、なるほどなるほど」


担当者の女性は二十代半ば、フォロワー推定十万人の顔をしている。健一のスマホを三分見て、診断を下した。


「プロフ写真、ダメですね。投稿、統一感ゼロ。ペルソナ設定、皆無」


「ペルソナ…」


「要するに、誰に向けて何を発信したいか、分かってないってことです」


健一は黙って頷いた。確かに分かっていなかった。さすが十万人である。


契約金、三ヶ月で三十万円。一か月あたり十万円。一日当たり三千三百円ほどか。日々のランチの予算と比較すると随分な額ではある。しかし、効果は恐ろしいほど出た。


プロカメラマン撮影。投稿代行。最適化されたハッシュタグ。カメラマンは三十代、フォロワー推定五万人。健一は撮影されながら、五万人の重みを感じた。


フォロワーは、まるで株価のように上昇した。一ヶ月で三千人、二ヶ月で一万人。


健一の朝は、スマホを開くことから始まるようになった。フォロワー、一万二千三百人。昨日より百五十人増えている。通知が止まらない。


「田中さん、インスタすごいじゃないですか!」


後輩の鈴木(八千人)が、驚いたように言った。健一は謙遜した。「いやいや、たまたまだよ」。心の中で快哉を叫んでいる。


ただ、通勤電車の中で、健一はまだ暗算していた。佐藤の三万人引く自分の一万二千三百人。差は縮まっている。このまま行けばあと何日で逆転するだろうかと指折り数えていた。


ところが、である。


一万五千人を超えたあたりから、風向きが変わった。


「田中さん、最近ガチですね」


鈴木(八千百人)の言い方が、微妙に変わった。「ガチ」という言葉には、どこか揶揄が混じっている。


「その投稿、コンサル使ってるでしょ」


同期の佐藤(三万千人)が、笑いながら言った。以前なら「頑張ってるね」だったはずだ。


新宿のカフェで撮影していると、隣の女子大生グループ(平均推定フォローワー二万二千人)がひそひそ話している。


「あの人、絶対インスタのために来てる」

「きもー」


健一(一万七千百人)は聞こえないふりをして、カフェラテを三十度傾けた。映える角度である。


理不尽だ、と健一(一万七千百人)は思った。フォロワーが少ないときは「頑張れば?」と言われ、増やしたら「必死」と笑われる。どうすればいいのだ。


新宿御苑で桜を撮影していたとき、中年女性(推定フォローワー八十人)に「邪魔」と言われた。


歌舞伎町のラーメン屋では「食べないなら出てって」と店主に怒られた。なんて言い方だ、と思い店のアカウントを開く。フォローワー、十三万三千人。桁が違うではないか。健一(一万八千四百人)は箸を置いた。


夜、ベッドでスマホを見る。コメント欄に「いいね稼ぎ乙」「フォロバ目的じゃん」と書かれている。フォロワーは二万人になった。健一(二万人)は、全然嬉しくなかった。


そして、ある朝。


「アカウントが規約違反により凍結されました」


目の前が真っ白になった。理由は「スパム行為の疑い」。コンサルの自動投稿ツールが引っかかったのだ。


異議申し立て、却下。アカウント、削除。


二万人のフォロワーが、消えた。


健一は、新しいアカウントを作った。フォロワー、ゼロ。プロフィール写真は、新宿御苑で適当に撮った桜。投稿は、しなかった。


不思議なことに、気が楽になった。


会社の昼休み、誰もSNSの話をしない。ラーメンの話、天気の話、上司の愚痴。健一も普通に笑っている。


「田中さん、最近いい感じっすね」


鈴木が、親しみを込めて言った。「いい感じ」。この曖昧な言葉が、今は心地よい。


佐藤が「新しいラーメン屋、めちゃくちゃ美味かったよ」と言った。健一は「今度行ってみる」と答えた。フォロワー数の話は出なかった。健一は、誰のフォロワー数も確認しなかった。


帰り道、歌舞伎町のネオンを見上げる。スマホはポケットの中。通知は、鳴らない。


誰も健一を見ていない。それでいい、と健一は思った。


見られないほうが、ずっと楽だった。


新宿の雑踏に消えていく健一は、何も撮影しなかった。フォロワーはゼロだったが、健一の足取りは軽かった。暗算する必要もなかった。

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