長い呼吸の夜 ーー 40歳、強がりを脱いだ私と「焦らない愛」
ひらめ
第一話 仮面の笑顔
歯科医院の窓ガラス越しに、夕暮れの朱色が沈んでいく。滅菌器の音が止まり、私はゆっくりマスクを外した。頬にかかる髪を耳にかけると、指先が少し冷たかった。働き詰めの一日を終えると、いつも指先だけが現実に戻る。
「美月さんって、いつも元気ですよね」
若い助手の子が言う。私は笑った。
「そんなことないよ」
今日、何度この言葉を口にしただろう。笑うたびに、心のどこかを切り取られていく気がする。それでも笑う。自分の弱さを見せてはいけないから。
沈黙よりも、笑顔の方が世の中をうまく渡れる。
39歳。歯科衛生士。離婚して5年。元夫に最後に言われた言葉を、今でも覚えている。
――お前は、強すぎるんだよ。
強すぎる。その言葉が、胸の奥でずっと
私は泣かなかった。愚痴も言わなかった。完璧な妻であろうとし、完璧な母でいようとした。でも、それが彼を遠ざけた。
「俺、お前に甘えられないんだよ」
その一言で、何かが終わった。言い返せなかった。本当のことだったから。
私は誰にも甘えられなかった。甘えることは、弱さだと思っていた。弱さは、女の武器になる。涙を流し、守られたがる。そんな自分には、なりたくなかった。
だから私は、自立という名の
誰にも頼らず、一人で立つ。その代償は大きかった。夫を失い、息子まで離れていった。
ロッカーでスマートフォンを確認する。息子からの連絡は、今日もない。
高校生になった彼は、元夫と暮らしている。月に一度会う約束だったけれど、「部活がある」と断られることが増えた。
あの子が小学生の頃、言われた言葉がある。
「ママは泣かないよね。強いから」
そのとき私は笑った。でも胸の奥では痛かった。誉め言葉には聞こえなかった。私は息子にさえ、心の扉を閉ざしていた。
強い母。頼れる母。でも、抱きしめたくなる母ではなかったのだろう。
離婚のあと、息子は父親を選んだ。当然のことだと思った。父親のほうが、弱さを見せられる人だったから。
それでも私は、笑う。笑っていれば大丈夫。笑っていれば誰も心配しない。笑っていれば、また明日も働ける……。
そうしているうちに、笑顔は顔の一部になった。
仮面のように。
――そして今、その仮面はもう外せない。
外したら、その下に何があるのか、自分でもわからないから。
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