第18話 空気
ひゅーるるる、と高い音が空に響き渡っている。
見上げれば、遥か上空で翼を広げた影が旋回している。とんびが高らかに鳴き声を上げながら、月の宮の空を飛び回っていた。望遥は自由な鳥の姿をぼんやりと眺め、庭に立ち尽くしていた。
兵部省へ行けば慌ただしい朝の空気を感じられるだろうが、望遥は庭に出たまま仕事もせずに呆けていた。夜影に見つかればまた冷たい目を向けられるのだろうが、今は何かをしようという気分になれない。
妙な気分だった。原因は、昨日の朔との言い争いである。
朔の言葉にはっきりと失望を感じてはいるものの、それをどこかで予見していた自分もいる。民を害することはあってはならないと憤慨しながらも、皇帝として朔の判断は間違っていないとも思えた。その相反する二つの思いが胸の中に焼けつき、喉を狭める。息が苦しかった。
望遥はどうしても、何かを踏み台にして何かを得るということに抵抗を覚えてしまう。だからこそ、地位を盤石なものにするために郷中を切り捨てた朔に苛立ちを覚えた。そんなことをする男だったとは、と落ち込みもした。政治の世界で生きていく以上、それらは仕方のないことだ。そう分かってはいても、心の奥底から湧き出す違和感を消すことはできなかった。その時と同じ感情が、再び望遥を襲っているのだ。
(朔と共に歩むのであれば、それを受け入れなくては)
自分に言い聞かせても、すぐには納得できない。望遥はとりとめのない思考に流されながら、空を見ていた。
「望遥様?」
背後から声をかけられ、望遥ははっと振り向いた。話しかけてきた相手の声を、望遥は十分に知っていた。
「満」
「どうかなさいましたか、このようなところで」
回廊に立つ満が、不思議そうに望遥を見つめている。何をするでもなく立っている望遥が気がかりだったのだろう。そんな彼女へ向けて、肩を竦めてみせる。
「どうもこうも、仕事が嫌になったんだ。だからこうして空を眺めているというわけだ」
「まあ」
満がくすりと笑った。その拍子にかんざしの飾りが揺れて、望遥の心をくすぐった。つられて望遥も笑みを零す。
満と望遥は、良き友人であった。回廊の角でぶつかって以来、二人はこうして姿を見かけては話をする仲になっていた。当初は立場を気にして硬くなっていた満も、年月が経つごとに望遥に心を許し、今では月の宮で最も親しい友人と言える存在にまでなった。そのため、巷では「満は望遥様のお手付き」などと言われいるらしいが、そのような関係を持ったことは一度もない。それは二人がどうこうというよりも、朔に禁じられているからだ。
──お前があの女官と結ばれれば、貴族との繋がりが生まれてしまう。お前に力を持たせたくない。それに、子が生まれでもしたら厄介だ。
朔に釘を刺され、内心面白くないと思いながらもそれに従った。朔のつくる国の邪魔をしたくはなかったからだ。そのため、満とは時折話をする程度で、長く共にいたことはなかった。
だが、今の望遥は朔に腹を立てている。少しばかり朔の肝を冷やしてやろうと思い立ち、口の端をにっと持ち上げた。
「満、お前も降りてこい。少し話そう」
そう持ちかけると、初めての誘いに満は目を瞬いた。彼女は一瞬だけ戸惑った顔を見せたが、すぐに頷いて回廊から降りてきた。そして望遥の隣に立ち、おかしそうに笑う。
「私も仕事を放り出してしまいました」
「良い。私のせいということにしておけ」
庭先で二人、息をひそめて笑う。満は微笑んだまま、望遥の顔を見つめた。
「なにか、お悩みですか?」
「……なぜそう思う?」
「目に影が落ちておいででしたので。私の杞憂でしたら申し訳ございません」
満が頭を下げようとするのを手で制する。それから一つため息をついて「兄弟喧嘩かな」と苦く笑った。
「陛下と……?」
「ああ。少し、方針に違いがあってな。共に生まれた存在であっても、全てを理解し合うなどできないのだな」
上空を見上げると、やはり飛び回るとんびが鳴いていた。静かな庭に、高く澄んだ声が響き渡る。あの鳥にも、兄弟はいるのだろうか。今は一匹で飛んでいるあの孤高の鳥にも。
黙り込んだ望遥に、満が視線を注ぐ。ややあって、彼女は口を開いた。
「私は思うのです。人と人が本当の意味で分かり合うのは、とても難しいことだと」
満へ目を向けると、彼女はやはり静かに微笑みを浮かべていた。穏やかな彼女の表情を見ていると、ささくれ立った心が凪いでいくような気がする。望遥は頷いて話の先を促した。
「ですが、私たちには言葉があります。寄り添うこともできます。そうして相手と言葉を交わして、同じ時間を過ごし、初めて見えてくるものもあるのではないかと、そう思うのです」
「朔と話をしろと?」
「それも大事ですが……他の方の意見も聞いてみるというのはいかがですか?」
満の提案に、望遥はぽかんと口を開けた。
それは確かに盲点だった。朔が都へ戻って以来、望遥は彼の不利益となるような相手と話すことは禁じられてきた。時にはそれを破り好きに行動することもあったが、朔を脅かすであろう相手──巽や陽善などとは顔を合わせないよう注意していた。そのため、朔と異なる他人の意見を聞くという発想に思い至らなかった。
「道司の頼束様などは、陛下のご相談もよく聞いていらっしゃいますし……そう言った方からお話を伺うのも良いかと」
「そうか……そうだな」
ぼそぼそと呟く望遥を前に、満は小さな笑みを浮かべていた。それから望遥の背を押すように頷く。
「望遥様の思うようになさいませ。望遥様には、正しい道を歩むお力がございます」
「ああ、ありがとう」
望遥は笑みを返した。満と二人顔を見合わせ、穏やかな笑顔を交わす。
そこで望遥はふと、呼吸が楽になっていることに気が付いた。あれだけ苦しかった胸のうちがすっと軽くなるような感覚を覚え、望遥はもう一度笑った。
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