第5話 武

 ついてくる夜影をそのままに、張忠の詰める兵部省の一室を訪ねると、そこには先客がいた。入室した望遥に気が付き、大きな体躯の男が振り向く。


陸正りくまさ殿」


 陸正と呼ばれた男は、高い身長とがっしりとした体格を持っていた。太い眉はきりと吊り上がり、黒い顎髭をたくわえている。彼の背丈は望遥より頭一つ高く、手足の太さもまるで違っていた。


 彼は望遥に気が付くと分かりやすく顔をしかめた。


「なんだ、お坊ちゃまか」


 こちらを軽んじる口調に、思わず眉をひそめる。陸正の影にいる張忠が青い顔で右往左往としているが、仲介してくれる気はなさそうだ。


 望遥は気を取り直し、にっと笑みを浮かべて手を差し出した。


「直接の挨拶はまだだったな。張忠殿の補佐を務めることとなった望遥だ」


「夜影殿、見張りはどうしたのだ。こんなところをうろつかれては困るぞ」


 陸正は握手には応えず、望遥の背後に立つ夜影に声をかけた。話しかけられた夜影は礼をしたものの言葉を返さない。望遥の勝手をどう説明したものか悩んでいるのだろうか。


 望遥は陸正に向き直り、顔をあげて彼を見据えた。


「陸正殿。私は少なくとも上官だ。礼を欠く行為が貴方の流儀なのか?」


 すると、彼はようやく望遥の顔を見た。それからふんと鼻を鳴らし、嘲笑を浮かべる。


「ケツの青いガキを上官だと認めた覚えはないね。双子の弟なんかに玉座を渡しちまう情けない奴だ」


「なに?」


 望遥は思わず眉をしかめた。


「私のみならず朔のことまで貶めるのは許さない。彼は立派な王だ」


 望遥は陸正を睨むが、それに動じることなく不敵に笑った。そして彼はそのまま部屋から出て行ってしまう。


 後には、所在なく差し出されたままの手だけが残される。緊張からか、張忠の上擦った引き笑いが響いた。望遥は空振りした手をぶらりと揺らすと、「そう簡単にはいかないか」と一人ごちた。


 陸正は、巽派の兵の筆頭とも言える男である。朔が起こした反乱で、ギルジャ族に負けず劣らずの活躍を見せた腕の立つ戦士であり将であった。


 だが、巽に心酔しているわけでもない。朔曰く、彼は元々北原に暮らしていた一人の民であり、北方民族から町を守るために剣を取った人間だそうだ。結果的に巽に手を貸す形となったが、ギルジャ族と癒着し彼らの横暴を許している巽に心を預けているとは思えない。あくまでも巽ではなく朔がどう出るか、それを待っているようだ。

 彼を懐柔できれば話は早かったのだが、そううまくはいかない。


 朔から「望遥に従うように」と命じてもらえばとも思うが、陸正もまた双子というものを軽んじている。聞き入れはしないだろう。


 それに、朔に従うよう告げておいた烏戸たちが聞かなかったように、兵というものは基本的に頑固だ。自らの力を示し、彼らに認めてもらう他なさそうだった。


 望遥は張忠を振り向いた。ぎこちない笑みを浮かべる彼は、それだけでぎくっと肩を揺らした。


「兵たちは外か?」


「え、ええ。訓練中かと」


 望遥は頷き、部屋を後にする。そのまま兵部省を出、一度自室に戻る。その間、夜影はその名の通り影のごとくぴったりと貼りついて離れなかったが、気にしないことにした。


 望遥は自室にある下級兵士の衣を出すと、それに着替えた。以前から月の宮の隠し通路をうろつく際に着用していたもので、大分くたびれてきている。


 取り出した衣は深い緑をしており、その色は九ノ兵──最も等級の低い兵であることを表している。先ほどまで着ていた衣は上級武官であることを示す緋色をしていたことを考えると、随分降格したものだ。


 だが、これでいい。


「夜影、しばらく離れていろ。監視は構わないが、遠くからにしてくれ」


「なにをなさるおつもりです」


「少し試したいことがあるだけだ。一介の兵にお前がひっついていてはおかしいだろう」


 夜影は納得できない様子だったが、「頼む」ともう一押しすると渋々頷いた。怪しい動きがあればすぐに斬るつもりなのだろう。それを思うと少しばかり背筋が冷えた。


 薄汚れた衣を見下ろして満足げに頷くと、望遥は再び兵部省へ戻った。


 兵部省の前の開けた場所では、兵たちが訓練をしていた。列になった男たちが、木製の槍を合図に合わせて振るっている。その向こうには仁王立ちした陸正が腕を組んで見守っており、真剣な空気が伝わってくる。


 一方その隣では、人の群れが声をあげて集まっていた。どうやら二人一組になって木の槍で打ち合いをする兵士がおり、見守る兵らがその周りを囲って盛り上がっているらしい。こちらは槍を振るう訓練とは違い、遊びのような空気で行われているようだった。


 陸正が監督しているところを見るに、彼らは巽派の兵のようだ。ちょうどよい。


 望遥はひっそりと忍び寄り、打ち合いを見守る人垣に紛れた。後ろを見ても、そこに夜影の姿はない。望遥の言った通り、離れての監視に切り替えてくれたらしい。胸の内で感謝を述べつつ、人をかきわけてなるべく前へ出る。


 すると、打ち合いをしていた男の一人が槍を弾かれ尻もちをつく。審判役が「そこまで!」と声をかけると、勝負の行く末を見守っていた男たちがわっと声をあげる。


 勝利した男は、六ノ兵である青色の衣を着ている。槍を掲げて歓声に応えると、額に浮き出た汗を拭った。


「さあ、他に挑戦する者はいないか? 今日の勝者もこの道行ということになるが」


 道行と名乗りを上げた男の煽りに、周囲がどよめく。どうやら彼は連勝中のようで、新たに挑戦しようという相手はすぐに現れない。お前行けよ、いや、俺はいいよ、と互いに牽制しあうような空気が広がった。


 そこで、すっと手を上げる者がある。


「私が出る」


 望遥は人波をこえ、道行の前に歩み出た。目を丸くする道行に向かって、不敵に笑いかけて見せる。


 一瞬静まり返った観衆は、うわっと盛り上がりを見せた。突然名乗りを上げた最下級の兵士に、兵たちは驚きを隠さない。所々で「あれは誰だ?」と疑問を抱く声が聞こえ肝が冷えたが、皇帝の兄がこんな場所に来ていると思う者などいない。望遥は、所属の分からぬ闖入者としてこの場を大いに盛り上げた。


「九ノ兵か……勇敢か、無謀か」


「さあ、どちらだろうな」


 道行の言葉に肩をすくめた。審判から槍を受け取ると、軽く数回振り、重さと間合いを確かめる。それから肩の力を抜いて、自然に構えた。


 気負った様子のない望遥に道行は眉をひそめたが、彼も同じく構えの姿勢をとる。


「それでは……始めッ」


 審判の合図と共に、道行が地面を蹴った。そのまま槍の穂先を振り上げ、望遥の手元めがけて振り降ろしてくる。


 なるほど、連勝するだけあってかなりの早さがある。望遥は手首を捻って槍を持ち上げ、道行の槍を受けた。


 ──だが軽い。


 かつて打ち合った烏戸の一撃はもっと重かった。道行が更に打ち込んでくる前に一歩踏み出し、彼の槍を弾く。予想外の力で跳ねのけられた道行の顔に焦りが浮かんだ瞬間、望遥は素早く槍を返し肩を突いた。


 骨の隙間に入ってしまったのか、道行は槍を取り落とし蹲る。


 辺りは水をうったように静まり返った。


 勝負は一瞬だった。道行の槍を受け、それを突きで返したところで彼は武器を離した。蹲る道行の唸り声だけが聞こえてきていた。


 遅れて、審判が「そこまで」と叫ぶ。


 そこでようやく音が戻ってきた。


 兵たちがわっと歓声を上げる。最下級の兵が、連勝中の上官を下した。これは彼らにとってちょっとした事件だった。望遥は駆け寄ってきた周りの兵らによって瞬時にもみくちゃにされた。


「お前なかなかやるな! 道行殿に膝をつかせるとは!」


 あちらこちらから引っ張られ、体が左右に振られる。望遥は苦笑しながらその渦に翻弄されていた。


 どこの出身か、名前は、と投げられる問いをなんとか誤魔化していると、肩を突かれた道行がやっと立ち上がる。それにより、望遥を取り囲んでいた兵たちも自然と道を開けた。


「いやはや、見事にやられた。素早い突きだった」


「すまない。少し強く突いてしまった。痛みはどうだ?」


「多少響くが、敗北の痛みだ。甘んじて受け入れよう」


 道行は肩に手を当てて顔をしかめた。それから苦笑を浮かべて、突かれた肩と反対の手を差し出す。望遥は迷わずその握手に応じた。土に塗れた手のひらが重なる。


 下級兵のふりを始めた当初は目下の者と握手を交わすことに抵抗もあったが、今はそれも薄れてしまった。ここでふんぞり返って握手を拒めばすぐに正体が割れてしまうという理由もあるが、望遥にとって彼ら部下との関わりは、新鮮で心躍るものだった。


 用意された部屋で椅子に座っているだけでは知り得ない彼らの思いや力を目にするたびに、不思議な気分になる。彼ら民の存在によって自分たちの地位や暮らしがあるのだと思うと、ただ偉ぶっているだけというのは居心地が悪い。自分たちを支えてくれる彼らに報いなければならないと、いつからか望遥はそう感じるようになっていた。


 だからこそ望遥は、彼らが脅かされることなく暮らせる安定した国を欲した。朔との交渉で国の安定を求めた。


「次は俺と相手してくれや!」


 道行との握手を見守っていた者から声があがる。俺も、いやこちらも、と次々に手が上がり、望遥は声を張って言った。


「いいだろう。全員の相手をしよう。順番に出てきてくれ」


 九ノ兵にしては尊大な態度だったが、それを咎める者はいなかった。皆、どこからともなく現れた望遥に興味津々なのだ。順番について多少揉めながらも次の相手が前に進み出てきて、緊張と期待をみなぎらせた眼差しで望遥を見た。


 距離を取って向かい合う。


 打ち合いが始まる寸前の、高まった空気が満ちる。ぴんと張りつめた糸を断ち切るように、審判が始めの合図を出した。

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