第3話 鏡
その場はそれにて解散となった。都を乗っ取った今、話し合うべきことは山積みだったが、場の空気がそれを許さなかった。
巽は気分を害したと言わんばかりに荒い鼻息をついており、そんな態度の巽と朔の間に板挟みになった郷中が青い顔をしていた。不敬と捉えて始末してもよかったが、今はまだいい。巽にも仕事がある。
朔は護衛の兵を連れ、護老殿へ向かった。
護老殿は、太后の住まいとして使われていた宮殿だ。今は望遥を軟禁している。部屋から出ることは許していないが、死なれては困るため食事はきちんと与えている。
朔は護老殿に着くと、さっと頭を垂れた兵らに声をかけた。
「望遥と話したい。良いな」
「は……」
兵はそう答えたものの、どうしていいか迷っているようだった。恐らく巽から誰も通すなと指示が出ているのだろう。頭を下げたまま動こうとしない。そこで彼らの背を押す一言を言ってやる。
「巽からなんと言われたか知らないが、お前たちが仕えるのは私だ。仕える相手が誰か、分かっているであろう」
凄んだつもりはないが、彼らにとっては十分だったらしい。すぐさま道を開け、小さくなってしまう。怯える小動物のようになってしまった兵に顔を上げるよう命じ、護老殿の扉を開けさせた。
扉がわずかに軋み、開く。
中は太后の住まいにふさわしく、豪華絢爛であった。漆喰の壁に水墨画がかけられ、蝋燭の明かりに揺らめいている。大きな円形の窓は朱に塗られた木枠に囲まれているが、その上から無造作に木の板が打ち付けられている。ここから逃走することを防ぐためらしい。整えられた室内に対し異物感が強いが、仕方がない。生かしているとはいえ、逃げられたら困る。
朔が入室すると、奥にいた人影が音もなく立ち上がる。そして歩み寄り、朔の前で止まった。
「朔」
望遥は短く名を呼んだ。
以前見た時から変わらず、髪も服も乱れ放題で、長い艶やかな髪が背を流れている。皇帝の前へ出るにあたってこの恰好はそれだけで不敬だが、今は虜囚の身なのだと許す。それに、これだけふざけた恰好をしていても、望遥の魅力が損なわれることはなかった。
爛々と輝く瞳は、兵司から蹴落とされ処刑を待つ者とは思えず、生の力強さに溢れていた。肌ははりを失わず、背筋も伸びている。乱れた髪と相まって、どこか妖しい雰囲気を醸し出している。冠も供もなくしても、望遥の輝きは失われない。同じ顔をしていても、朔と望遥は全く違う雰囲気を持っていた。
(そうだ。この人は、いつでも満月のような人だ)
心臓の上を、ちりっと電流が走る。その違和感に今は蓋をして、朔は手で兵に下がるよう合図をした。二人きりにしろという指示に、護衛たちがぎょっとする。
「へ、陛下。護衛を伴わないなど……」
「良い。下がれ。二度は言わせるな」
朔の強い口調に、兵たちはそれ以上何も言わなかった。ぎこちない仕草で部屋から出ていき、扉を閉める。
ぱたん、と扉から生じた風が朔の首筋を撫でた。
しばし、沈黙が下りる。
朔は静かに兄を見ていた。そして、望遥もまた大きな目で朔を見つめ返す。
二人の間に、十二年の年月が横たわっていた。
十二年前、朔がまだ月の宮にいた頃から、二人は特別仲がいいというわけではなかった。忌み子の朔はほとんど軟禁のような形で月の宮に一画に隔離されていたし、皇子として扱われ教育を施される望遥とは居を別にしていた。二人の思い出などない。望遥を羨む気持ちがないとは言わないが、それを理由に彼を処刑するほど朔は短絡的でもなかった。
しかし、思わずにはいられない。この世に生を受けた日──もし、望遥よりも先に朔が生まれていたら。そうなっていたら、今望遥と呼ばれているのは朔であり、朔と呼ばれるのは望遥だったはずだ。十二年も都を離れて暮らすのは望遥のはずだった。
考えても詮無いことだ。直士からも、過去に縋ってはならぬと教えを受けてはいる。だが、可能性を考えないということは酷く難しかった。あの日、もし立場が逆であったのなら、と。
「久しいな」
口火を切ったのは望遥だった。当たり障りのない世間話のような始まりに、朔は皮肉げに笑った。
「まさかお前が覚えているとは。私など幽霊とでも思っていたのではないのか?」
「幽霊?」
「そうだろう。幼少の頃は母上から疎まれ、私は紗子殿から出たことがなかった。都を出てからは十二年……北原にいたからな」
北原は、津ノ国の北西に位置する都市だ。巽の一族が代々主を務めている土地であり、位置的に北方民族との戦いの要所となる。それ故に、彼らとも手を組みやすい。津ノ国は昔から北方民族と争っているが、特に巽が力を持つようになってからの北原はギルジャ族との癒着が激しく、彼らの横暴に目を瞑ることも多かった。更にギルジャ族以外の部族からは侵略行為を受け続けているため、治安や民の暮らしぶりは決していいものとは言えなかった。
朔はそんな北原で育った。流経直士と呼ばれる直道の士に師事し、彼から読み書きや道徳を学んだ。流経直士がいなければ、朔は巽の囁く言葉を真実と信じ、彼の傀儡となっていたに違いない──望遥のように。
「お前のことは聞き及んでいる。自ら動くことは許されず、母上と月永の思うがままに操られていたと」
月永が望遥を兵司に任命したのは、彼が十五の時だ。しかし元服を済ませたばかりの皇子に、現場の指揮を行うことなどできるはずもない。そこで月永は、望遥をお飾りとして据えて兵部を手中に置きながら、実質的な指示は自ら行っていた。
「お飾りの将はどうだった、兄上」
嫌味のように告げるが、望遥は激高も落胆もしなかった。ただゆっくりと瞬きをし、落ち着いた口調で返してくる。
「お前の言う通り、私にはなんの権限もなかった。全ては陛下……月永兄上の思うがままだ。巽派との分裂で国が荒れているのは知っていたが、何もできなかった。私は無力だ」
その言葉に、朔は一瞬驚きと戸惑いを覚える。どうやら、望遥は自らの境遇について正しく理解していたようだ。
「では、私が蜂起したことも早くから知っていたのか」
「ああ。兵を動かすよう、月永兄上が言ってきたからな」
太后は、巽の離反により疑心暗鬼になり、決定権が皇帝に集中するよう国を作り変えた。内政に関わる各省を皇帝直轄とし、なにか動きを取る際には必ず皇帝の許可が必要な形とした。兵の召集などもそこに含まれるため、朔の挙兵に対し月永軍の動きが鈍かった理由はここにあるだろう。緊急性が高い場合には皇帝の許可がなくとも各省の長の命で動いてもよいという抜け穴はあるが、大規模な動きはできない。この皇帝への権力集中は至る所に歪を生み、結果的に都を明け渡すことに繋がったと言える。
「驚いた。お飾りの望遥は、何も知らず私を迎えたのかと思っていた」
朔の言い様に、望遥は肩をすくめた。そして、透き通るような黒い瞳をこちらに向ける。
「不思議なもので、何故だかお前が来ると確信があったのだ。そしてそれから逃れることはできないと……双子の直感かな」
「今更双子などと」
朔は鼻で笑って近くの椅子に腰掛けた。深く座って足を組むと、顎で正面の椅子に座るよう望遥に示した。彼は言われるがまま、素直に椅子に座る。
「そのお飾りの兵司が、なぜ兵からあれほど慕われている? お前、何をした」
ようやく本題に切り込む。朔は望遥の一挙手一投足を見逃すまいと鋭い目を向けた。どんな些細な仕草も動揺も見逃さない。
しかし、そんな朔の思いとは裏腹に、望遥は目を瞬いた。それから、驚いたような口調で呟く。
「烏戸たちを処刑しないのか」
「奴の力は手放すには惜しい。使えるものなら使いたい」
朔の言葉に、望遥は一瞬ほっとしたような顔を見せた。しかしそれからすぐに表情を引き締める。
「まさか烏戸のやつ、朔には従わぬなどと言っているのではあるまいな」
「そのまさかだ。望遥以外の命は聞かぬ、気に入らねば切り捨てよと言っている」
「なんてことだ。あれだけ言い含めておいたというのに」
望遥が頭を抱える。その反応はいささか予想外で、朔は眉間に皺を寄せて問うた。
「どういうことだ」
「もし朔が兵部の者たちを処刑せず取り立ててくれるようであれば素直に従うようにと言っておいたのだ」
その発言に、朔は目を剥いた。
「私に従うよう言ったのか」
「ああ」
「なぜ」
「彼らは幸運にも私を慕ってくれていたが、飾りに過ぎない私に尽くし、命を使う必要などない。それに、朔であれば彼らをうまく使ってくれると思ったからだ」
望遥の目には一切の翳りがなかった。覗き込んでみても、そこに嘘や誤魔化しの色は見えない。彼はため息をついてから、呆れたような笑みを浮かべた。
「まあ、烏戸が聞くはずもないか。あいつはだいぶ頑固者だからな」
そう話す声は親しげで、彼らの間にある信頼関係を感じさせた。目の前で部下について語る望遥を見ながら、朔は奇妙な感覚に囚われていた。
望遥は至って自然体で、まるで朔と昔から共に育った兄弟のように振る舞った。これから自分を処刑するかもしれない人間を相手にした態度とはとても思えない。朔を忌み子と軽蔑するでも、力を持つ皇帝として恐れるでもない。彼は、朔と平等に話をした。そしてそれを不愉快だと感じさせない何かが、望遥にはあった。
朔は呆然として、双子の兄を見た。
自分と同じ顔をしているが、全く似ていない。母からは疎まれ、巽からは利用され、都を奪い取ってからは兵から恐れを抱かれるようになった朔とは違う。望遥は自然な態度で相手の心を開く。今朔に対して取ったような態度を、きっと烏戸たちにも見せたのだ。そして、兵部の者たちは望遥を信じた。
(殺してしまおうか)
朔の胸のうちに、暗い影が落ちた。
その影は一瞬で膨れ上がり、強烈な衝動となって朔を圧倒した。湧き上がった強い思いに朔自身困惑し、けれどどこか冷静に受け止めてもいた。
この男の求心力は危険だ。本人からは野心など感じないが、周りが放っておかないだろう。太后派に担ぎ上げられでもしたら、簡単に玉座を取り返されるかもしれない。その恐怖が、実感を伴って朔の背筋を這い上がる。
望遥を生かしているのは、巽に説明した通り、太后派の兵を動かすためだ。烏戸たちを引き込まねば、北に憂いを残すこととなる。それに月永政権の一部になっていたものの、望遥自身が太后派というわけでもない。月永に代わり、今度は朔が望遥を操ればよいと考えていた。
だが、その考えは甘いかもしれない。望遥は危険だ。巽の忠告通りここで始末しておくべきか。望遥の求心力を危険視する後ろに、朔の本音が隠れる。
(なぜこの男は私にないものを持つのか)
何に脅かされることもなく都で暮らし、心のままに振る舞えば周囲から信頼を勝ち取る。計略と打算に塗れた朔にはないものだ。
殺せ。殺すな。殺すべきだ。殺さない方がいい。
胃の底から煮え滾るような殺意が湧く。朔は底光りする瞳で望遥を睨んだ。
──いいや、殺してはならない。
最終的に朔の中で打ち勝ったのは理性だった。
望遥は危険だが、逆に利用する手もある。巽を抑えておくためには太后派もある程度残しておかなければならないが、その時、望遥の価値が光る。望遥を手元に置くだけで太后派を制御できるとなればかなり美味しい話だ。
朔は額に浮かんだ汗を手で振り払った。深く息をつき、背もたれに体を預ける。朔の葛藤を知ってか知らずか、望遥は変わらず飾り気のない笑みを見せていた。
そう、利用すればいいのだ。
その時、朔の脳裏に一つのひらめきが落ちた。
「……望遥。お前、私に協力する気はないか」
突然の提案に、望遥の眉間に皺が寄った。朔は冷静でいるよう努めながら静かに続ける。
「私がなぜ都に戻ってきたと思う?」
「それは、巽と結託して玉座を奪うために」
「違う。それは手段だ。目的はその先にある」
朔は、やはり望遥は危険な男だと改めて感じた。これまで誰にも、流経直士にすら話したことのない計画を話してしまおうとしている。それは、望遥の持つ独特の雰囲気のせいか、久方ぶりに兄弟と再会した興奮のせいか、朔には判断がつかなかった。
「双子というものは忌み嫌われてきた。凶兆とされ、その片割れは殺すようにと昔から言い伝えられてきた……私は幸運にも生き延びたわけだが」
朔がくっと皮肉げに笑うが、望遥からの反応はない。彼は真面目な顔つきで話に聞き入っていた。
「だがそこに何の根拠がある? 弟を殺め、なかったことにするだけの理由はなんだ」
「そういう慣習だからだ。双子は不吉なものと昔から決まっている」
「そうだ。皆がそれを信じているから、双子の弟は殺さねばならぬと思い込んでいるからだ」
だが、そこに論理的な理由はない。ただ感情のままに、不吉だから嫌だと避け、殺すべきという慣習が存在するからそれに従う。彼らは何も考えていない。
「父上が私を生かしたのは天導士の予言あってのことだ。それは知っているな?」
「ああ。生まれる双子はこの国を変えると……」
「なに、難しいことはない。私はその予言の通りにしてやろうというだけなのだ」
朔は唇を引き上げた。
「双子の弟は殺すべきだ。では、運よく生き延びた双子の弟が王となり国を治めたら……国に安定をもたらせば? その時、双子は不吉なものだという慣習はどうなる?」
望遥は口をつぐんだ。言葉を失っているようにも、黙って話に聞き入っているようにも思える。朔は不思議な高揚を感じながら続けた。
朔を皇帝として担ぎ上げた巽でさえ、表面上は朔に従っているものの、こちらを見下すような目つきをしていた。所詮は双子として生まれた子だ。殺されるべきところを自分が利用してやっているのだ、そんな思いが透けて見えていた。巽派の者は多かれ少なかれ皆そのような態度であり、朔を一人の人間として見てくれたのは、流経直士だけであった。
だからこそ、朔は常に憤っていた。この世の中の全て、自分を取り巻く環境に。
「無知蒙昧で、天導士や皇帝の言うことに唯々諾々と従う民を、今度は私が操る。双子に対する考えを変え、私を利用しようとした巽さえ屈服させ、私が頂点に立つ。皆が忌避した双子の弟がだ。私の前にひれ伏す臣下たちを見て、初めて私の復讐は終わるのだ」
「それが朔の目的……都へ戻った理由か」
朔は自らの頬がわずかに紅潮していることを感じ取った。そして我を忘れて心中を吐露してしまったことを恥じ、椅子に座ったままわずかに身じろぎをした。
本来なら、こんなことまで話すつもりではなかった。
甘い言葉で望遥を騙し、太后派の軍を借りるだけのつもりであった。しかし、望遥と対峙し言葉を交わすうちに、自らを忌み子として扱った者たちへの怒りが湧き上がり、つい全てを話してしまった。それはきっと、望遥の持つ独特の雰囲気故だろう。
彼の前に立つと、全てが丸裸にされたような奇妙な心地がする。そうして、気が付くと全てを喋ってしまっているのだ。烏戸なども、この術中にはまったに違いない。
朔は一度深呼吸を挟み、調子を取り戻した。そして冷静な声音で告げる。
「私ほどではないにせよ、望遥も双子として不平等な扱いをされたのではないか。悔しくはないか。太后派はこれからも、お前を利用し再び権力を得ようと画策するだろう。やつらの道具のように扱われ満足か?」
一度、沈黙が落ちる。ややあって、望遥はゆっくりと口を開いた。
「朔。お前が名実ともに皇帝となった暁には、この国に安定がもたらされるのか?」
朔の問いかけと違う角度で質問を返され、一瞬戸惑う。だが、朔はそれに対して深く頷いた。
「太后派と巽派で国が割れている今、中枢は政権争いに忙しく、国が荒れている。だがそれらをまとめあげることができれば、民の暮らしもよくしていくことができるだろう。巽を抑えられれば、北の防衛線も引き直せる」
朔が北原で流経直士から教えを受けている頃から、この国の荒廃ぶりは目にしてきた。北原が北方民族の高原と隣接していることもあっただろうが、彼らから襲撃を受け兵たちは疲弊し、時折国境を超えてきた彼らによって、民がかどわかされることもあった。巽と繋がりのあるギルジャ族は我が物顔で領内を歩き回り、民に暴行を働いた。
大衆は無知で扇動されやすく愚かだが、それでも守るべきものである。流経直士からは、王とは民を守り育むものだと教えられた。朔もその教えに従い、皇帝となったからには津ノ国を守っていく所存である。
望遥はしばし朔を見つめていたが、やがてふらりと立ち上がると、ぐんと伸びをした。何を、と見守っていると、彼は悠々と部屋の中を歩き回り始めた。
「この月の宮には多くの隠れた通路がある。誰にも見つからない、秘密の道だ。知っている者もそう多くはない。母上や月永兄上もいくつかは知っていただろうが、それだってほんの一握りだ。この城には、無数の通路が隠れている」
朔は肘掛けに肘を乗せ、じっと望遥を観察した。彼は緊張感もなく部屋をうろついているだけで、こちらに襲いかかってくる兆しはない。だが警戒を強めたまま望遥の話を聞く。
「私はその通路を見つけるのが得意でな。昔から隠された道を見つけては通って、どこに繋がっているのか確かめていた。その多くが地下道であったから、わざわざ兵の衣を盗み着ていたよ。官服など泥まみれにしては、外に出たとすぐに見つかってしまうからな」
望遥がくすくすと笑う。その無邪気な様子に、わずかに苛立ちが募る。朔が北原に押し込められて必死で直道を学んでいる間、彼は隠し通路を通って遊んでいたというわけだ。だがここで怒りを露わにしても仕方がない。顎を下げて話を促す。
「それである時、見回りをしていた兵と出くわしてな。その時の私は兵の衣を着ていたから同僚だと勘違いされたのだが……そこで、彼らと話をして、この国の実情を知った」
望遥の表情がさっと冷める。
「東部では日照り、南部では河川の氾濫、北部は異民族による襲撃……民たちは飢餓に喘ぎ、日々死に絶えていく。流民が生まれ、この都にも多くの民が流れてきていると」
彼は棚の上に飾られた花瓶を手に取る。花は差さっていないが、細かな装飾の施されたその花瓶は美しい流線形をしていた。恐らく高価な品だろうが、彼は軽い手つきでそれを扱った。まるで花瓶などに価値を感じていないようである。
「民たちは苦しんでいる。だが、月の宮はどうだ? 母上は巽殿を目の上のたんこぶと思い、彼の息のかかった官僚を探し出すことばかり。月永兄上も母上の言いなりで、玉座が脅かされるのではないかと怯えていた。誰も民の暮らしなど見てはいなかったのだ……私も含めてな」
望遥は紙の束でも置くような気軽さで、花瓶を棚に戻した。ごとりと重たい音を立てると、花瓶は元の美しい沈黙を取り戻した。
「私は王などという器ではない。頭もいいほうではないしな。だが、お前なら……北原で民の暮らしを見てきた朔なら、変えられるのか? 権力の欲に塗れたこの汚れた月の都を、お前なら……」
「それがお前が協力する条件か? 私が民のため、善政を敷くことが?」
望遥は頷いた。まっすぐにこちらへ向かって歩いてきて、ひたと見下ろしてくる。黒く澄んだ、動物のような瞳だった。
「先ほども言ったが、私は、双子の弟を忌避することは間違いだったのだと皆に認めさせることが目的だ。そして、そのためには、朔という皇帝が優れた王であったと皆に思わせる必要がある。つまり、民からの支持は必要不可欠」
朔は立ち上がり、自らと同じ顔の男を見つめた。身長は、望遥の方がわずかに高い。体つきに関しても、仮とはいえ兵司をしていた望遥の方が筋肉がついているように思える。だが、顔立ちだけはそっくりだった。
「私は民からも認められる王となる。そのために全力を尽くすと約束しよう。だからお前も手を貸せ。太后派を抑えるために、お前の力がいる」
朔の宣言を受け、望遥は頷いた。
「もし朔が道を外れることがあれば、その時は私がお前を斬る。月永兄上の時はできなかったが……今度こそ迷わない。約束を違えた時には、お前に終わりをもたらそう」
望遥はそう告げると、右手をこちらへ差し出してくる。握手を求めているのだ。皇帝と対等に手を結ぼうとする兄の傲慢さと無邪気さに呆れ、朔は短く息を吐いて笑った。
朔もまた手を伸ばす。そうして二人の手は結ばれ、しっかりと繋がった。
双子の密約はここに交わされた。
弟は自らの生まれを世に認めさせるため。
兄は乱れきった国を変えるため。
この約束の顛末がどこへ向かうのか、知る者は誰もいない。そして、二人が交わした言葉を知る者もまた、二人以外にどこにもいない。
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