メビウスの人魚

相川倫里

序章 沈む




──あの夏のことを、國春くにはるはもう、よく思い出せない。

海に面した村は、夜更けになるにつれ潮の匂いが濃くなる。その匂いの奥に、あの時嗅いだ血の香りだけが、強く刻み込まれている。



 


國春が17歳になった年の夏。

来年は村の井戸を浚う年だと、皆が口を揃えて言った。

兄が10の頃に果たした“務め”を、今度は國春が継ぐのだと。


「いよいよ次はぼっちゃまの番やねえ」


そう言った女中の顔を思い出すたび、國春の胸の奥がざらつく。

兄はとうに死に、井戸の底には、仄暗い水面が覗くばかりだ。


忌々しい分家のせがれは、今年その大役を先に済ませた。

村中が手を叩いて笑っていた。


國一くにかずぼっちゃんみたいにやらにゃなぁ」


囃す声が、國春の耳の奥にこびりついている。


──もう、あの井戸なんか、どうなってもいい。


そう思った夜だった。

真名子まなこを見つけたのは。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る