31.とおりゃんせ 祷と深見シリーズ
山奥深く苔むした鳥居を潜ると、そこは全く人の気配のない廃村だった。民俗学教授の深見は、手にした古地図を頼りに、村の敷地へと足を踏み入れる。
目的は、この村に伝わる奇妙な吊り橋だ。言い伝えによると、この橋は渡ると神隠しに遭い、二度と戻れなくなるという。そんな、非科学的な話に興味を惹かれ、調査にやってきたのだ。
「せんせ……」
村の記録を読み解いてみると、数十年前にこの村では、子供たちが集団で失踪する有名な事件があったらしい。
さらに直近では、十年ほど前にも、規模は小さいが数名がやはり失踪しているという。
それらの失踪事件と、神隠しの言い伝えとの関連を直感した深見は、その手がかりを求めて、今ではもう朽ち落ちているかもしれない橋を探し求め、誰もいなくなった廃村を歩き回っている。
「ね、せんせったら……」
霧に包まれた谷間に、古びた吊り橋が架かっているのを、ようやく見つけたのは、予定よりかなり遅い時間だった。古地図とはかなり地形が変わっているようで、それが調査が難航した原因だった。
「ね、ちょっと待って、せんせ……もう、疲れちゃった……おなか空いたし」
橋のたもとに、風雨にさらされた石碑が建っている。『とおりゃんせ』と彫られた文字の下に、かすれた墨でこう書かれていた。
『行きはよいよい 帰りはこわい』と、よく知られた童唄の歌詞の一節である。
「ね、せんせ、今日はもう帰ろ。あ! ダメだったら! 橋渡っちゃ、ダメです!」
深見は、胸の高鳴りを抑えながら橋を渡り始めた。底板は軋み、吹き抜ける風が橋を揺らして、不気味な音を立てる。
「ね、待ってったら。引き返すのなら今のうちです。このまま渡ったら、ちょっと面倒なことになるかも……」
果たして、ふたりが橋の中央を過ぎた辺りで、景色が一変した。いや、景色そのものは変わってはいない。
空気の匂いが、光の色が、まるで別世界のように感じられた瞬間が確かにあったのだが、深見はそれには気付いていない。
「あー、遅かったかぁ。もう、何で言うこと聞いてくれないんですか! 帰ろうって言いましたよね!」
「祷(いのり)うるさい、黙れ! 車を降りてから、文句ばっかりじゃないか。そんなのいちいち聞いてられるか」
「わたしの指示には、絶対に従うっていうのが、仕事を受けた時の条件でしたよね」
「帰るのは、フィールドワークを終えてからだ。行くぞ」
「待ってください。もう、いっつも強引なんだから。やってらんない」
開襟シャツにくたびれたジャケットを羽織り、ダメージ加工のデニムを合わせた、冴えない中年男の後ろを、制服姿の女子高生があわてて追いかけるが、言葉のわりには彼女の表情は楽しげだった。
「せんせ、深見せんせ。もうちょっと、ゆっくり歩いてください……と!」
橋から、まだそれほど離れていない場所で、不意に深見が立ち止まった。祷は深見の背中に、鼻先から突っ込んでしまう。
「ったあ! もう、いきなり立ち止まってどうしたんですか?」
「静かにしろ、聞こえるか?」
祷が耳を澄ますと、遠くから子供たちの小さな声が聞こえてきた。『とおりゃんせ』の唄声だ。しかも、こちらに徐々に近付いてきている。
とおりゃんせ、とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちっと通してくだしゃんせ
ご用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めにまいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
とおりゃんせ、とおりゃんせ
「ふうん、これはちょっと不味いかもしれませんねぇ」
艶のある長い黒髪を、手櫛で梳きながら祷が言う。
「不味いのか? 何とかしてくれ、そのために高い金払ってるんだ。仕事しろ」
「とりあえず、せんせはこれ持っててください。わたしと一緒にいることによって、逆に狙われてしまうこともありますから」
深見は、祷が差し出したものを訝しげに見つめた。
「いいですね? 絶対に、肌身離さず持っててください」
「わ、わかった。相変わらずこういう時は妙に迫力あるな、おまえ」
「霊媒師ですから。こういう面もないとやってけないんですよ」
「見た目は、ただの女子高生なのにな」
深見の言葉に、祷はにっこり笑って見せる。非常に嬉しそうだ。
「そうです。ただの女子高生なんです、わたし」
「知ってるか? ただの女子高生は、霊を祓ったりしないんだ」
「まあ、今や実力派の有名霊媒師ですから。半年先まで予約で埋まってます」
「実力派か──。前は呼んだら、いつでも来てくれたのにな」
「せんせが、わたしが同行したフィールドワークの調査結果を、本にして出版してくださったおかげです」
祷がにこやかにそう言うと、逆に深見は苦々しげな表情を浮かべる。
「祷を出した方が版が伸びるからな。背に腹はかえられん。学界ではあざとい等と、言いたい放題言われるが」
「せんせのためなら、なるべく最優先でスケジュールやりくりしますから、安心してください」
のんびりしたやり取りだが、実は事態は逼迫していた。『とおりゃんせ』の唄声は間近に迫ってきていたのである。
その時突然に、深見と祷の前へ、唄声に追われたらしい男女三人組のグループが息を切らし、顔を蒼白にして逃げ込んできた。
「た、助けてくれ! 頼む!」
男は叫び、恐怖に目が泳いでいる。
「もうダメ、追い付かれる……!」
「やだ、もうやだあ!」
男は膝に手をつき喘いで、女ふたりはしゃがみ込んで、嗚咽を漏らしている。
深見は持っていた古地図を懐にしまいながら、三人に尋ねた。
「きみたち、どうしたんだ。こんな場所で──」
男は震える声で答える。
「おれたち、大学のサークル仲間で肝試しに来たんです。来た時は九人で、それで……」
男は言葉を詰まらせると、不安げに辺りを見回した。
「いつの間にか、バラバラになって、スマホも全然つながらなくなるし。そしたら、急に子供たちの唄声が……」
祷と深見は顔を見合わせる。やはり、先ほどの唄声は彼らも聞いていたのだ。
男が、再び口を開く。
「あんたたちは、生きてる人間なんだよな? 霊とかじゃないよな? だったら早く逃げるんだ、じきにあの唄声に追い付かれるぞ!」
どうやら、深見たちの反応を見て、たいした助けにはならないと判断されたらしい。男は、完全に浮き足立っている。
祷は、三人の様子を冷静に観察しながら、問いかけた。
「ちょっと待って、その前に今日は何年の何月何日か教えて」
「え? そんなこと、後でいいだろ……」
「いいから、早く!」
祷の強い口調に気圧されながら、男は答える。
「……2015年の、8月14日だけど、それがどうしたっていうんだ?」
男の答えに、祷と深見は一瞬固まってしまい、お互いの顔に視線を走らせる。
「い、言えない! 今が令和だなんて! どうりでメイクが古いと思った」
祷が思わず、囁くように呟いた。
「バカ、問題はそこじゃないだろう。我々ふたりが、元の時代に帰れるかどうかだ」
深見は焦りを隠せない。当然だ、下手をしたら教授の座を失うこともあり得るからだ。
「その前に、渡ってきた橋を見つけなければなりませんねぇ」
相変わらず、緩い口調で祷が言う。
「何を言ってる? 橋ならそこにあるだろう? とりあえず逃げるぞ。まだ、それほど離れてないから余裕だろ」
深見が振り返ると、さっき渡ってきたはずの吊り橋が、跡形もなく消え失せていた。
「橋は、渡りきった瞬間から消えてましたよ。せんせ、どんどん先に行っちゃうから言えなくて」
「いや、言えよ。そんな大事なこと」
あくまで、のんびりしている祷に、心底あきれる深見。
「いや。まあ、元からおまえは、そういうやつだったな」
「そうそう、元からなんです。今さら治らないので、いい加減慣れてください」
ぎゃあぎゃあ騒いでいる大学生三人を尻目に、小声で会話を重ねていた祷と深見だったが、事態は急変する。
「待って! 何か別の唄が聞こえる!」
女のひとりが、開いた両手を耳に当てながら言った。だが、耳を澄ますまでもなく、まるで救いのように『かえりゃんせ』との唄声が、別の方向から聞こえてくる。
「こっちだ! 帰れるぞ!」
男が、女ふたりに向かって叫ぶ。
「かえりゃんせって、何? どういう意味なの? 戻れるってこと?」
女のひとりが、涙を拭いながら立ち上がるが、思わず弱音を吐いてしまう。
「やだ、足痛いんだけど」
もうひとりの女も、少しふらつきながら立ち上がる。
「わたしも、走るのきついな」
深見はそんなふたりを見て、小さく毒づいた。
「こんな場所に、ヒール履いてくるのが悪い」
祷は、さっきまで文句たらたらだった自分を棚に上げて、深見の言葉に思わず頷いていた。初めて、深見のフィールドワークに同行した時の記憶が、否応もなく彼女の頭をよぎったからだ。
それでも大学サークルの三人は、一縷の希望にすがるしかないのか、唄声のする方向へと走り出す。
三人は恐怖で限界以上の力が出ていたのか、驚くほど速く走り去っていく。祷たちと合流するまでに、よほど恐ろしい目にあったらしい。
「あ! ダメだったら! 戻ってきて! わたしのそばから離れないで!」
祷の制止は虚しく響いた。
三人はそのまま、『かえりゃんせ』の唄声のする方向に逃げていく。そこには、深い渓谷と吊り橋があった。三人は喚き散らしながら、振り向きもせずに橋を渡り始める。
「待って! その橋を渡ったらダメだって! こんなの都合よすぎるって、わからないの!」
三人の背を追いながら、祷は叫ぶ。
「罠だ! 渡るなみんな!」
祷の言葉を信じた、深見も叫んだ。
それでも、ふたりの言葉は届かないようだった。
「もうやだ、はやく帰りたい」
「よかった、本当によかった……」
「急ぐんだ! 追いつかれるぞ!」
三人は、祷と深見の必死の制止も聞かずに橋を渡り切ってしまうと、そのまま姿を消した。続いて、橋と渓谷も蜃気楼のように消えてしまった。
呆然と立ち尽くす、祷と深見。
「あれは──? 帰れたってことでいいのか?」
「そんなはず、ある訳ないです。ミエミエじゃないですか」
「だよな、そもそも『かえりゃんせ』って、お帰りくださいって意味じゃないしな。どうやら、パニクっていたせいで錯覚したらしいが。無知は怖い」
そう、『かえりゃんせ』とは主に東北や関東の一部地域で使われる方言で、『おいでなさい』や『お越しください』といった意味を持つ言葉なのである。
あの三人がどこに『招かれて』しまったのか、考えるのも恐ろしい。サークルの残りのメンバーも、おそらく似たような境遇なのだろう。
「それより祷、元の時間、元の場所に、戻れるのか?」
「そうですねぇ、五分五分ってとこですか」
「五分五分って……祷、おまえ」
「ふふっ、わたしはせんせと一緒なら、どんな時でも、どんな場所でも、きっと楽しく暮らせると思いますよ」
深見は、あきれた表情になった。状況が状況である。冗談にしては質が悪いと思ったようだ。
「大人をからかうのは、やめろ。それより、この耳障りな唄はどうにかならないか」
「そうですねぇ、すっかり回りを囲まれちゃってますねぇ。『行きはよいよい 帰りは怖い』、ですか。これから、何されちゃうんでしょうねぇ?」
「考えたくもないな。何とかしろ、祷」
「任されました」
祷の雰囲気が一変する。
「オン! アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」
と、宇宙の全てを照らすと言われている神のマントラを三回唱え、同時に九字を切る。印を結び終えると、空中に『四縦五横』の線を素早く引いた──。
「ぱんッ!」と、風船が破裂したかのような、炸裂音がした。
唄声が虚空に消え、辺りは静けさを取り戻している。
そして、いつの間にか祷の身体の回りに、水辺でもないのに一匹の蛍がまとわりついていることに、深見は気づいた。
祷が右手の人差し指を立てると、蛍はその指先に止まり、ゆっくりと明滅を繰り返す。辺りは薄暗くなりつつある。
「お願い致します。どうか、お導きください」
祷が丁寧な言葉でそう願うと、蛍はふわりと浮いて、ふらふらと飛んでいく。
「頼りないな、大丈夫なのか?」
深見が思わず言葉を漏らす。
「シッ! 黙っててください。怒りを買うと、どうなっても知りませんよ」
「…………!」
それから、どれだけ歩いただろう。辺りがすっかり暗くなってから、もうかなりの時間が経っている。そもそも沈む太陽自体がある世界だったのかどうかさえ、深見にはわからなかった。
明滅する、蛍の灯りだけを頼りに進む。
祷には聞きたいことが山ほどあるが、黙っていろときつく言われてしまったので、あれからずっと静かにしている。
聞こえるのは、お互いの呼吸音と足音だけだ。
息が詰まりそうだが、深見は耐えた。
「せんせ」
「…………」
「もう、大丈夫ですよ。ほら、あれ」
祷が深見を振り返りながら、前方を指差す。
「……おお、あれは元の吊り橋か? 無事、辿り着いたんだな」
「ええ、もう大丈夫です」
祷は深見を先行させると、見覚えのある吊り橋を渡り始める。橋の中央を過ぎた辺りで景色が一変し、空気の匂いと、光の色が、元の世界のものへと戻るのを、ふたりは感じた。
そこでは太陽の位置はまだ高く、かなりの眩しさだったので、深見にもその違いは容易にわかった。
日没までには余裕があり、また廃村の景色にも何の違和感もない。
体感的に言えば、元の時間、元の場所に、無事戻って来れたようだと、深見は安堵した。
何より、いつだって祷の言葉に嘘はない。緩そうに見えるが、仕事に対しては祷なりに真摯に向き合ってくれている。
「せんせ、無事に帰ってこれてよかったです。わたしがいなかったら、何回か死んでてもおかしくなかったですよ」
「そこまでか? 大げさだな、祷は」
祷は、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「せんせ。行きに渡したもの、出してもらえますか?」
「おお、あれか? どこだ? ちょっと待ってくれ、確かこのポケットに……」
取り出したものを見て、深見は息を呑んだ。
行きがけに祷に渡されたのは、深紅の折り紙で折られた『奴(やっこ)』で、それとは別に折られている同色の『袴(はかま)』を履かされたものだった。
「身代わりの『形代(かたしろ)』です。わたし流のやり方なんですけど──」
それが、どす黒く変色し刃物でズタズタに切り裂かれたように、無惨な姿になっていた。
「ね? わたしの言ったとおりでしょ。これからもフィールドワークの時には、声かけてくださいね、せんせ」
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