28.鋼と妖(ハガネとアヤカシ)

 新宿の闇を縦横無尽に走る、鋼と妖。 


 高層ビル群が一晩中黒い影を落とす新宿の一角に、そのスラム街はある。治安の悪化によって、人通りの途絶えた路地裏で、アスファルトに散乱する瓦礫と、そこかしこに穿たれた無数の穴が、激戦を物語っていた。

 ガレン・ブラックウッド、彼が身にまとう黒衣のコートは砂塵に汚れ、右頬には一条の切り傷が走っている。しかし、彼の瞳に宿る冷徹な光は、わずかな揺らぎすらも見せることはない。

 ガレンがコートの裾を大きく払うと、鈍く光る無数の鋼糸が、まるでそれぞれが意志を持っているかのように、地面と平行に一直線にと延びていく。絶対硬度を誇る一本一本の鋼糸が、触れるもの全てを断ち切る鋭利な刃と化していた。

 迎え撃つは、白き和装のリリン・シラユキ。着物の袖や裾はとうに裂け、腕からは鮮血が滴り落ちている。彼女の腰まである黒髪は夜風に妖しくなびき、ウゾウゾと蠢いている。そんな、彼女の澄み切った瞳の奥には鬼気迫る覚悟が宿り、身体中からは静かなる波動が放たれていた。


「…………!」


 勝利を確信していた、ガレンの瞳が驚愕に見開かれた。コンクリート片をチーズのようにスライスし、穴を穿つことすらできる、金属加工業界最高傑作であるガレンの鋼糸が、リリンの身体に到達する直前、一瞬のうちにズタズタに寸断されてしまったからだ。


「髪に妖力を通したか。だが、それがいつまで続けられる?」


 淡々とした、ガレンの低い声。そこに焦りはない。彼が右腕を掲げると、コートに仕込んである無数の鋼糸が、弾丸のごとくリリンめがけて射出された。闇を切り裂いて、コンクリートの壁をも瞬時に抉り取る驚異的な威力だ。


「動揺ひとつせぬか……、全く、甘く見てくれるよのぅ!」


 リリンは、崩れ落ちたビルの残骸へと跳躍をする。髪に妖力を通し、妖糸として思念を以て自在に操り、さらには両手を使い、細やかで繊細な操作をするのが彼女の基本的な技だ。

 妖糸はどこまでも延びていき、壁面に設置された空調機の室外機に絡みつく。 

 そこを支点に、リリンは妖糸の長さを巧みにコントロールして、高位置エネルギーを確保する。 

 振り子運動よろしく、宙を舞ったリリンの妖糸は、直前までガレンがいた場所の地面を深く抉り取ると、アスファルト舗装に巨大な亀裂を走らせた。その衝撃波が、周囲の瓦礫をさらに宙へと跳ね上げる。


「所詮、虚飾の舞……!」


 ガレンは嘲笑うかのように呟くと、残りの鋼糸を広範囲に展開する。数百本にも及ぶ鋼糸が、路地裏の雑居ビルの裏手壁面を這い上がり、一本一本がレーザーのように夜空を縦横に走る。

 それは、リリンの逃走経路を全て封じ込める、鋼鉄の網の目となった。

 リリンは、ワイヤー状に編み込んだ妖糸を使って、ビルからビルへと次々に飛び移り、鋼糸の網をかい潜っていく。だが、鋼糸は彼女の動きを先読みするかのように、常にその一歩先を塞ぎ、退路を断ち続ける。そのうち一本の鋼糸が、彼女の頭頂部をほんのコンマ数ミリ掠めると、数本の黒髪が宙に舞っていた。わずかな遅滞が命取りになるのは間違いない。


「物理的な硬度だけを誇る……それが貴様の限界やもしれぬなぁ?」


 リリンの瞳が妖しく光り、紅く染まった。彼女はワイヤー状に編んでいた妖糸を解除すると、地面に降り立ち、両手を大きく広げた。 

 その瞬間、彼女の黒髪一本一本に新たな妖力が通された。一段ギアの上がった練りに練られた妖力である。

 妖糸のそれぞれ一本までが、意志を持った蛇のように蠢き出し、鎌首をもたげた。

 リリンの妖糸は、路地裏に散乱する瓦礫や、折れ曲がった鉄骨に絡みつき、重力などないかのように自在に操作し始める。

 瓦礫がガレンめがけて猛スピードで飛来する。

 鉄骨が、振り子のように勢いよく振り下ろされる。

 それでもガレンは眉一つ動かさず、それらを鋼糸で迎撃、余すことなく粉砕していく。


「愚かな……」


 ガレンは冷徹な声で呟く。鋼糸は、飛来する瓦礫や鉄骨を、音もなく切り裂いていく。

 だが、リリンの真の狙いはそこにはない。これらの攻撃は全てデコイだ。破壊された瓦礫の隙間を縫うように、妖糸をアスファルト舗装の下へ、深く静かに潜行させる。


「特殊繊維で編み込まれた、そのコートによる装甲は確かに固かろうがの、足元はがら空きだと知れ!」


 リリンが叫ぶと同時に、ガレンの足元のアスファルトが爆発したかのように激しく隆起した。地下に潜り込ませた妖糸が、アスファルトの層を真円状に根こそぎ抉り取ったのだ。

 ガレンの巨躯が、激しく宙に吹き飛ばされる。

 その隙を逃さず、リリンはビルの壁面を這う配管類に妖糸を絡ませ、それを支点に自らの身体を射出する。まるで弾丸のように、空中にいるガレンの死角となる足元から肉薄した。

 ガレンは瞬時に対応する。宙に浮いた身体から幾状もの鋼糸を放ち、リリンの突進を受け止めようとする。

 だが、リリンの妖糸はガレンの鋼糸に迎撃される寸前で、まるで意志を持っているかのように、その動きを変化させた。それでも、まだ逃げ切れない。鋼糸もまた、まるでホーミングミサイルのように、妖糸の動きに合わせてその軌道を随時変えていく。


「ふふっ、細やかさが足りぬなぁ! 筋肉ばかりに頼っておるからじゃ」


 追尾する鋼糸を全て躱しきって、妖糸がガレンの身体へと迫る。


「ぬっ……!」


 ガレンの胸元に、数本の妖糸が突き刺さった。

 それは、肉体を直接的に傷つけるものではなかった。妖糸は、ガレンの身体の深奥へと潜り込んでいき、彼の精神を直接揺さぶり始めた。

 幻覚が、ガレンの視界を歪ませる。

 失速したガレンは、アスファルトにそのまま落下して、自重と重力加速度によってかなりのダメージを負った。

 新宿の摩天楼が、彼の故郷の焼け野原へと姿を変える。路地裏に散乱する瓦礫が、彼の家族たちの亡骸へと変化する。

 ガレンの両手が震え出し、鋼糸がその力を失っていく。


「その孤独、わらわにはよくわかる……」


 リリンの囁きが、幻覚の中でこだまする。ガレンの脳裏に、捨て去ったはずの過去が鮮やかに蘇る。

 忌み嫌われた一族の歴史、孤独な少年時代、それらの記憶が、彼の鋼の意志を蝕んでいく。


「うるさい! 貴様など……!」


 ガレンは苦悶の表情を浮かべ、自らの身体を抱きかかえる。だが、いまや妖糸は彼の中枢神経に根深く食い込み、容易には離れない。その隙を逃さず、リリンは残された妖糸で、ガレンの身体を拘束する。彼の鋼の意志が、幻覚と現実の狭間でグラグラと揺らいでいる。

 だが、ガレンのくすんだ瞳の奥には、まだ消えぬ輝きがあった。それは、彼が守りたかった一族の誇り。屈辱と絶望のスパイラルの中で、彼が唯一掴み取った希望の光。


「わたしの技は……、これだけは……幻などではない……!」


 ガレンは震える身体で、コートの両袖口から最後の鋼糸を展開させた。

 極限までの細さとしなやかさ、そして最高の強度を追求した、金属加工技術の極致。ステルス攻撃専用の、肉眼では見ることのできない鋼糸だった。ただし耐久性の問題で、戦場においては使い捨てである。失敗すれば、二度目はない。


「精神攻撃の際には、注意力が散漫になるようだな。足元が疎かなのは貴様の方だったと認めろ」


 リリンは目を見開く。ガレンの不屈とも言える精神力は、彼女の想像をはるかに超えていた。彼の鋼の意志は、もはや精神と肉体の境界すら曖昧にするほどの絶対的な硬度を誇っていたのだ。


「終わりだ、リリン・シラユキ」


 リリンが気づいた時には、全てが終わった後だった。

 ガレンの鋼糸が、たった一瞬でリリンの妖糸全てを無効化してしまったのだ。


 糸使いは糸使いの弱点を知る。


 リリンの両手首から先が切断されていた。ガレンのステルス鋼糸は、扇に例えるなら要の部分である、リリンの両手を狙い撃ちにしたのだ。


「勝ったと思うには、まだ早すぎるがのぅ、ガレン。妖糸使いを舐めるでない」


 リリンの言葉に嘘はなかった。

 ざわりと音を立て、髪先にまでたっぷりと妖力を通す。

 彼女の髪は伸縮自在であるばかりでなく、強度も自在である。攻撃のバリエーションは予想外に多く、まだガレンに見せていない技はいくらでもある。


 だが──、リリンは膝から崩れ落ちていた。


 限界を超えた戦闘の果てに、妖力の喪失と大量の失血が重なったため、リリンは身動きできない状況に陥ってしまったのである。

 だが、リリンは諦めなかった。


「……たとえ、この命が尽きようとも!」


 リリンは気力を振り絞り、自身の髪をニードル化して、ガレンに向かって射出した。

 無数の黒髪が新宿の夜気を切り裂く。

 その中にたった一本。彼女に残された妖力全てを凝縮した、万物を破壊する、必殺の『カルマ・ブレイク』が紛れている。


 それは、彼女の命を削る、最後の賭けだった。


 ガレンがコートの裾を払う。それで終わりのはずだった。リリン、最後の抵抗である妖糸を、それで全て払い落とせるはずだった。

 確かに払い落とせた──『カルマ・ブレイク』以外は──。


「何っ……!?」


 ガレンが気づいた時には、時すでに遅かった。『カルマ・ブレイク』が、彼の心臓を貫くのは、回避不能の確定された未来だった。

 その時である──。


「この死闘、わたしが預かろう!」


 新宿の路地裏に、場の空気を一変させる声が響いた。ガレンとリリン、相討ちは免れそうになかったが、この瞬間に神は別ルートを用意した。


「二人共、待たれい!」


 二人の間に割って入ったその男は、古びた修道服を身につけ、顔は深く被ったフードの影に隠れて見えない。

 しかし、その手には、まるで何百年もの時を刻んだかのような、無骨な鉄槌が握られていた。一瞬にも満たないわずかな時間で、ガレンの鋼糸はその鉄槌に絡め取られ、『カルマ・ブレイク』もまた同じ鉄槌によって地面に叩き落とされていた。

 男の立つ場所だけ、時間の流れから切り離されたかのような静謐さがあった。


「……何者だ!?」


 ガレンが低く唸る。鋼糸はまだわずかに残されている。使い方次第で戦闘は充分に可能だ。新宿の路地裏に張り詰めた緊張感が、さらに高まる。


「ただの仲裁者だ」


 男の声は、驚くほど穏やかだった。

 その声には、一切の感情が込められていないにも関わらず、聞く者の魂を揺さぶるような、深遠なる響きがあった。


「その力、どちらかが消滅すれば、この世界は均衡を失う。それだけは、避けねばならないのだ」


 それを聞いたリリンが、息も絶え絶えに何かを言おうとする。

 いつの間にか、彼女の両手首は妖糸で縫い付けられていて、元通りに繋がっている。油断ならないのは、さすがである。


「なるほど、のぅ。主の正体……調和者(バランサー)で、あろ?』


『調和者(バランサー)』、彼らは歴史の節目に現れ、強大すぎる力が暴走するのを未然に防ぐ存在だった。

 そして、この男は、その中でも特に古くから存在し、幾多の戦いを沈静化させてきた最古の調和者、『ハザン』であった。彼の目的は、ガレンとリリンの能力を一時的に封印し、その力を正しく制御できるよう、導くことである。

 二人の能力は、破壊にも創造にも転じうる、あまりにも大きな可能性を秘めていたからだ。

 ハザンは、静かに鉄槌を新宿のアスファルトに打ち付ける。その形状と重量感からは想像もできない程の、澄んだ金属音が辺りに響き渡る。

 ガレンとリリン、二人の間に張り詰めていた、殺意の嵐のような緊張感が、まるで水面の波紋のように消えていく。

 アスファルトに穿たれた亀裂が、まるで逆再生されているかのように修復し、瓦礫も静かに元の場所へと戻っていく。


「さて、二人共、我慢比べは終わりだ」


 ハザンはそう言って、フードの奥からわずかに微笑んだかのように見えた。

 新宿の夜は、再び静寂を取り戻した。  

 そして今、新たな物語が、静かに紡がれ始めようとしていた──。

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