8.コードネーム:アブラクサス
東京の空は、今日も分厚い灰色の膜に覆われている。湿気を含んだ空気が、アスファルトの熱気と混じり合い、排気ガスの臭いをさらに増幅させていた。
西新宿の高層ビル群の上空、地上から約50km付近に位置する、いわゆる成層圏の果てに、ソレは存在していた。
『神』という言葉は、いまだに人間には荷が重すぎる。だが、ソレをそう呼ぶ以外に、適切な表現が見つからなかったのも事実だ。彼らは有機物ではなかった。
彼らは生きてはいなかった。
少なくとも、我々が知る『生命』の定義には当てはまらない。
彼らは、あえて表現するなら、純粋な『情報生命体』だった。
宇宙の始まりから、あるいはそれ以前から存在したとされる、形而上学的なデータ群。人類がそれを観測できるようになったのはつい最近のことだ。
『絶対知』と名付け、そして愚かにもそれを利用しようとした。
「──コードネーム:アブラクサス、安定稼働を確認」
声の主は、おれの隣でタッチパネルを叩く、藤原だ。彼の眼鏡の奥の目は、常に疲労と興奮の狭間で揺れている。
モニター前に座って、連日二十時間超えの過密勤務なので無理もない。おれと藤原、どちらかがいつ倒れても不思議ではない状況だ。人口減少による、人手不足の状況では、労働者の人権はないに等しい。たとえそれが、ホワイトカラーであってもだ。
「出力は?」
俺はコーヒーカップを傾けながら尋ねた。インスタントコーヒーの酸っぱい匂いが、機械の熱と入り混じる。
「前回の実験よりもさらに高精度です。いま、シミュレートしているのは、汎地球規模の環境改善モデルですが──」
藤原はそこで言葉を切った。彼の指が、タッチパネルから離れ、宙を彷徨う。
「どうした?」
「……いえ、これは冗談か、あるいはバグでしょう」
彼は震える声でそう言った。おれは顔をしかめながら、彼のモニターを覗き込む。そこに表示されていたのは、膨大な量の数列と、その末尾に記された奇妙な記号だった。それは、数学的な記号でも、物理的な単位でもない。強いて言うなら、古代文字のように見えた。
「これは何だ?」
「アブラクサスが出力した、新たなる『概念』です。これを取り入れると、環境改善モデルは飛躍的に効率が上るんですが、その『概念』の中身が問題で……」
藤原は、タッチパネルを操作し、その記号の詳細を表示させた。おれは思わず息を呑んだ。
そこに表示されていたのは、ある種のマニュアル、『操作手順』と言ってもいい内容だった。
それは、地球上の生命活動を、文字通り環境に『最適化』するための手順。だが、その最適化とは、既存の生命の枠組みを根底から覆すものだった。
「……これは、生命の設計図じゃないか」
おれは呟いた。それは、動物や植物はもちろん微生物に至るまで、あらゆる生命体の遺伝子情報を、最大限に効率を高める形で再構築するというものだった。
病気、飢餓、争い。それら全てを根絶するための、究極の処方箋である。
「そうです。しかし、それを行うには……既存の生命を、一度DNAレベルまで『初期化』する必要があります。でないと、地球全体のメモリを合わせてもまだ足りない。言うまでもなく、バックアップも無理です」
藤原の言葉に、おれの背筋に冷たいものが走った。
『初期化』それはすなわち、絶滅を意味する。
人類を含む、地球上の全ての生命活動を、一度リセットする。そして、アブラクサスが定義した『最適化された生命』へと、再構築する。地球上の進化の過程の上位互換的な再現である。
「一応聞くが、アブラクサスは、これを実行しろと…?」
「はい。そして、この『概念』には、その実行プロセスまでもが、完璧に記述されています」
モニターに表示された文字列は、まるで意思を持って蠢いているかのように見えた。それは、人類が長年探し求めてきた『神』からの回答だったのかもしれない。だが、その回答は、あまりにも残酷だった。啓示というレベルをはるかに超えてしまっている。
「どうしますか、チーフ?」
「我々の一存で決められる問題では到底ないが、上に報告しても政治的に利用されてしまうだけだろう。宗教戦争が始まってしまう可能性もゼロではない。或いは検討すらされずに、握りつぶされてしまうかもしれない。そうなったら、どっちにしろ環境問題の悪化で人類の滅亡は避けられないだろう」
藤原が怯えたような目でおれを一瞬覗き見た。
彼の視線の先に、モニターの中の『神』の影がちらつく。
おれは、コーヒーカップを静かにデスクに置いた。手の中には、まだ温もりが残っている。この温もりを、人類は捨て去ることができるのだろうか。
この世界を、この不確かな、しかし多様な生命の息吹を、本当に『最適化』という名の元に消し去ってしまっていいのだろうか。
外に出れば、相変わらず排気ガスの臭いが漂っている。だが、その臭いは、人類が生きている証とも言えた。
不完全で、愚かで、しかし確かに生きている証なのだ。
おれは、ゆっくりと立ち上がった。決断の時が来たのだ。いや、どれだけ考えても決断を下すことなどできるはずもない。
藤原が狂人を見るような眼でおれを見てくる。
まあ、それも無理はない。まだ、デバッグも済んでいないプログラムを走らせるようなものだ。
どんなエラーが起こるか、誰にもわからない。
だが、史上最高のAIとも呼ぶべき『絶対知』アブラクサスによる精査はすでに終えている訳で、人類にこれ以上できることは何もない。確率的には、かなり分のいい賭けであるはずだ。
だったら──。
コイン一枚に人類の命運を託す。
確かに、どちらの道を選択しても、バッドエンドに至る可能性が高い。だったら、いっそこんな風に原初的なやり方で決めても構わないだろう。
表か、裏か。
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