雨の花嫁
わか
雨の花嫁
山の奥深く、霧の底にひっそりと横たわる湖があった。
その名を「
風が止まれば水面は空を映し、夜は星を抱く。
けれど村人たちは決してその水を汲まなかった。
そこには古くから言い伝えがあったのだ——湖には龍が棲む、と。
◻︎◻︎◻︎◻︎
山のふもとの村に、ひとりの娘がいた。名を
雪は母の形見である薬草屋をひとりで守っていた。
けれど
ある夜、疲れ果てた雪は夢を見た。
白銀の鱗を纏った龍が、静かな湖の中で彼女を見つめている夢を。
目を覚ますと、胸の奥に不思議な温かさが残っていた。
翌朝、雪は山へと足を向けた。
霧が流れ、木々が湿り、鳥の声も遠い。
迷うように進むうち、目の前に鏡のような水面が広がった。
風も音もない。湖はまるで息を潜めているようだった。
雪は水面に映る自分を覗き込み、そっと手を伸ばした。
その瞬間、水が弾け、光が爆ぜた。
眩しさの中から現れたのは、一人の青年だった。
濡れた黒髪が頬に貼りつき、瞳は深い青。
だがその背には、光を反射する鱗がまだ残っていた。
「……あなた、龍なの?」
雪の声は震えた。
「怖がらなくていい」
青年は穏やかに微笑んだ。
「名を
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弥月は、古の時代から鏡湖を守り続けてきた水龍だった。
かつては村に恵みの雨をもたらしたが、人々は欲に溺れ、祈りを忘れた日から湖に姿を隠したという。
雪は弥月の言葉を信じがたかった。
だが、その瞳に映る孤独が、人ではない真実を語っていた。
それから、薬草を探す名目で湖へ通うようになった。
弥月は雪を拒まなかった。
日が傾く頃、二人はよく、湖畔の石に腰を下ろし、話をした。
雪は村のことを、母のことを語った。
弥月は遠い昔の湖や、人々との思い出話をした。
その声は静かで深く、雪はいつしかその響きに心を奪われていった。
「あなたは、孤独じゃないの?」
ある夕暮れ時、雪が問うと弥月は微笑んだ。
「孤独には慣れた。だが、今は……少し違う」
その言葉に、雪の頬が熱くなった。
湖面には紅い夕日が滲み、ふたりの影を優しく包み込んだ。
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季節が巡るごとに、雪の心は弥月への想いで満ちていった。
けれど、龍と人。決して交わることのない存在。
それでも——たったひとときでも、寄り添っていたかった。
「弥月……」
夜、月明かりの下で、雪は彼の名を呼んだ。
弥月は水の上へ歩み寄り、雪の頬に手を添えた。
「人の命は短い。だからこそ、美しい」
「そんなこと、言わないで」
雪の目から涙がこぼれた。
「私……あなたと生きたいの」
弥月はその涙を指先で受け止め、静かに唇を寄せた。
「この世界が許すなら、私もそう願おう」
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だが、幸福の時は長く続かなかった。
村に大旱が襲ったのだ。
川は干上がり、田は裂け、子供たちは喉をからして泣いていた。
村人たちは噂を信じた。「龍が怒っている」と。
そして、鏡湖へ向かった。
松明を掲げ、恐れと怒りを抱えながら。
雪は止めようとした。
「弥月は悪くない!」
だが誰も聞かなかった。
その夜、雷鳴が轟き、嵐のような風が吹き荒れた。
湖のほとりに弥月が現れる。
白銀の水龍が空を覆い、雨を呼ぶ。
だが村人たちはそれを怒りの兆と勘違いした。
槍を構え、弓を引いた。
雪は叫びながら駆け出した。
「やめて! お願い!」
そして、放たれた槍が雪の肩を貫いた。
赤い血が湖へと滴る。
その瞬間、空が裂け、光が奔った。
雨が、降った。何年ぶりかの、本物の雨だった。
弥月は人の姿に戻り、雪を抱きしめた。
彼女の体は冷たく、けれど微笑んでいた。
「弥月……やっと、雨が降ったね」
「君の命を代償にした雨など……望まぬ」
「でも、これで……村のみんな、生きられる」
雪の声はかすれ、目の光が薄れていく。
「ねえ、約束して。次に生まれ変わっても、私を見つけてくれるって」
「必ず」
弥月の涙が、雨に溶けて落ちた。
そして、雪は静かに息を引き取った。
弥月は唇をそっと触れさせ、彼女の体を湖へと沈めた。
白い衣が水の中で揺れ、まるで花びらのように散った。
そのまま弥月は天へと昇り、龍の姿で空を巡った。
それから雨は三日三晩、降り止まなかった。
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それから幾百年。
鏡湖は今も静かに雨を映している。
湖の中央には、白い花がひとつだけ咲く。
「龍花」と呼ばれるその花は、雨の日だけ淡く光る。
村ではこう言い伝えられていた。
《雨の中で龍花の下に立つ者は、かつて約束を交わした魂と再び出会う》
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時は現代。
写真家の
なぜか胸がざわめいた。行ったこともないはずなのに、懐かしい匂いを感じた。
取材と言い山を登り、霧の中を進むうちに、心の奥で何かが呼んでいるのを感じた。
やがて、鏡湖が現れた。
霧の向こう、静かな水面の中央に白い花が浮かんでいる。
弥月はシャッターを切った——その瞬間、風が止まり、雨がひとしずく、彼の頬に落ちた。
その冷たさに、なぜか涙がこみ上げる。理由もわからぬまま、胸が痛かった。
足元の水面がふと光った。
そこに、白い衣の女性が映っていた。
驚いて振り返るが、誰もいない。
だが声がした。
「……やっと来てくれた」
柔らかい声。懐かしく、胸の奥の記憶を優しく撫でるような響き。
弥月はカメラを落とし、膝をついた。
目の奥に、見たことのない光景が溢れだす。
湖。雨。白い衣。自分の腕の中で微笑む少女。
——雪。
名を呼んだ瞬間、涙が止めどなく溢れた。
「約束、果たしたよ……雪」
空を仰ぐと、雨が優しく降り注いでいた。
まるで、あの日のように。
白い花が雨に揺れ、光を放つ。
湖面に映るふたりの影が、静かに寄り添う。
その瞬間、世界が音を失い、時が止まったようだった。
弥月はそっと目を閉じた。
すると、遠い記憶の中で雪が微笑むのが見えた。
「今度は、離れないで」
声が確かに耳に届く。
彼は立ち上がり、手を伸ばした。
白い花びらが風に舞い、一枚が指先に触れた。
温かかった。まるで、雪の
その夜、弥月が撮った写真には、誰もいないはずの湖畔に、
白い衣の女性が立っていたという。
翌日、彼はその写真を「雨の花嫁」と題して個展に出した。
誰もその名の意味を知らない。だが、写真の前に立つ人は皆、なぜか涙を流した。
——そしてその湖では、今も雨の日にひとりの男が立ち尽くしている。
雨に濡れた白い花を見つめながら。
その頬を伝う雨が、涙なのか、空の涙なのかは、誰にもわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
龍と人が交わした約束は、時を越えて、今も静かに息づいている。
湖面に揺らめく白い光が、まるで微笑むように瞬いた。
「また、会えたね」
雨の花嫁 わか @AoiYozora
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