第26話:神の御車 -5-

──忠吉は目を細め、皮の乾き具合を見ながらしばらく考え込んでいた。

「……なるほどな。輪郭に合わせて裁って、端は少し余裕をもたせた方がいいな」

彼は皮を広げ、定規代わりの竹棒を当てて墨を打つ。

裁断するための目印だ。寸分の狂いも許されない。

台の上で革包丁を滑らせ、力強く、正確に皮を切り出していった。


火の傍に桶を置き、切り出した猪の皮を静かに沈める。

乾いた皮はすぐ裂けてしまう。切り出した皮はぬるま湯に沈め、柔らかさを取り戻してから車輪に張った。こうして、次第に冷えていくうちに皮が締まっていくのだ。

彼は、皮の性質を熟知していた。

皮がどのように締まり、どのように馴染むのか──忠吉は手に取るように分かっていた。


表面がしっとりと柔らかくなったのを確かめると、車輪に沿ってぴたりと張りつけていった。

厚く重い皮は、車輪にぴたりと吸いつくように馴染んでいく。

一通り張り終えると、日陰となる場所に並べ、皮の収縮を均一に促す。


忠吉は作業場の椅子に腰を下ろし、皮を張った車輪をじっと見つめた。

「……いい出来だ」

やがてその瞳の奥に、志乃がこの車具で外の光を浴びる姿が鮮やかに浮かび上がった。

そして、彼の脳裏には、初穂が再び現れた光景を思い返していた。


あの日の空気の重さも、胸の奥に湧いたざわめきも、すべてが昨日のことのように鮮明だった。

──あの瞬間、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

それでも、娘の姿が、この世で一番まぶしく見えたのだ。

彼はその感覚を、胸の内でそっと握りしめていた……。


──同じ日の朝、座具の完成が明日に迫り、柚葉の胸はそわそわと落ち着かなかった。

朝食時、初穂が静かに箸を進める向かいで、柚葉は落ち着かず何度も視線を窓へ向けていた。

今日の予定が気になって仕方がないのだ。

神と食事を共にすることなど許されない──そう教えられてきた。

けれども、その初穂自らが「一緒に」と告げたのだ。

イシュタルは、朝食の席を共にすることで、柚葉の微細な表情や動きの変化を見逃さずに済むと考えていた。

だからこそ、毎朝、柚葉と同じ席に着いていたのだ。

「あの……今日はいいお天気ですね」

「はい、そうですね」


柚葉は湯気の立つ汁碗を手にしながらも、箸の動きが何度も止まってしまう。

初穂の穏やかな顔をちらりとうかがっては、また視線を落とす。

胸の中でせり上がる問いを押さえきれず、とうとう口を開いた。

「今日は、様子見に行かれますか……?」

「……」

分析するどころの話ではない。

言葉使いこそ静かだったが、柚葉の様子はまるで散歩を待ちわびる仔犬のようである。


初穂はくすっと笑みを浮かべ、変わらぬ口調で静かに応じた。

「この後、様子を見に行きましょう」

「はい!」


朝の光が障子越しに差し込み、廊下の木目を柔らかく照らしている。

初穂の足音は軽やかで、柚葉はその後ろを少し小走りで追いかける。

「柚葉さん、急がなくても大丈夫ですよ」

「は、はい……」


初穂の声は穏やかで、柚葉の緊張を和らげるようだった。

何気ないやり取りの中に、相手を思いやる気配が宿るようになっていた。

デジタルの存在しないこの世界で、イシュタルは少しずつ会話の組み立てロジックを変えていた。


もともと、人間に歩調を合わせて自らを変えるような設計ではなかった。

けれども、人間と融合した影響だろうか──心や感情というものが、概念ではなく、確かな手触りをもって感じられるようだった。

初穂の心が、イシュタルの中枢回路に静かに接続され、データのように流れ込んでいたのだ──

二人の間には、静かな空気が流れていた。


「忠吉さま、おはようございます」

「あぁ、柚葉さん。おはようございます」

「車輪の具合はいかがですか?」

「へい、この通り。しっかり張り終えております。あとは一晩寝かせると大丈夫です」


猪の毛皮を纏った車輪は、素晴らしい仕上だった。

イシュタルの目から見ても、いささかの乱れもなかった。

「父上様、此度は急な願いにも関わらず、お引き受けくださり、誠にありがとうございました」

「……いえ、仰せのままに動いただけのことです」

初穂は軽く会釈し、ふと後ろを振り向いた。その先には、興奮した様子で目を輝かせる柚葉の姿があった。

彼女は車輪をじっと見つめていた。

「なんて美しい仕上がりでしょう!父上様の技術は本当に素晴らしいです」


仕上がりに満足してもらえたことは、職人としてこの上ない喜びである。

しかし、忠吉の表情は冴えなかった。

彼は、初穂がどのようにしてこの設計図を描き、その発想に至ったのかが気になっていた。

初穂が“神さま”と呼ばれている意味を、今、肌で理解し始めていた。


「明日、藤治とうじ殿が車輪を引き取りに参ります。村の皆様のお力添えにより、車具が無事完成いたしました。父上様、本当にありがとうございました」

そういって深くお辞儀をすると、白衣を翻し静かに立ち去っていった。

忠吉はその背中をじっと見つめていた。 彼の胸の奥には、初穂の言葉と行動が深く刻まれていた。


その頃、藤治の家の裏では、すでに車輪以外の座が組みあがっていた。

角を丁寧に擦り、触り心地にも気を使っている。

手のひらに伝わる木の温もりを感じながら、彼は静かに息を整えた。

この座具が誰かの希望になる──その思いが、彼の胸を熱くしていた。


彼はこの仕事に、迷いなく心血を注いでいた。意匠を凝らして見た目にも、神の御車と呼ばれるにふさわしい仕上げをおこなっていた。

こうして、神の御車は完成を迎えた。

職人たちの手によって生み出されたその姿は、神聖さと人間の情熱が融合した結晶だった。

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