第21話:奇跡の治療 -5-

昼食を終えた国重は、村を歩きながら住民たちの様子に目を配っていた。

炊事場に顔を出し、井戸の修繕を気にかけていた。

彼は、村の小さな変化にも目を留め、手を差し伸べるのを忘れなかった。

一通り周った後は、広場の片隅に腰を下ろし、子どもたちに穏やかな笑みを向けて言葉をかけていた。


傾きはじめた陽の光に照らされながら、彼は遠くの山の稜線へと目を細めていた。

国重は、日常の何気ない風景の中に、静かに身を置いていた。

村は彼の命であり、そこに生きる人々は、何よりも大切な家族だった。


そして夕刻が近づく頃、国重はゆっくりと帰路につこうとしていた。

再び村の広場に差し掛かったそのとき、不意に頭の奥で何かが弾けたような、鋭い痛みが走った。

立ち止まり、眉をひそめた。


額の内側が焼けるように熱を持ち、視界の隅がかすみ始める。

「……これは、ただの疲れではないな」


このとき国重を襲ったのは、くも膜下出血の前兆──いわゆる「警告出血」と呼ばれる症状だった。

一歩、二歩と歩みを進めようとしたが、足がもつれ、吐き気が込み上げる……。


激しい頭痛と吐き気は、その後に訪れる本格的な出血の予兆にすぎなかった。

国重は近くの石段に腰を下ろし、浅く息を吐きながら頭を押さえた。

夕焼けに染まる空が、かすかに滲んで見えた……。


「……まだ、やることがあるのだ……」

「……咲……咲は、どこだ……」


その時、村の中央を旋回していたカササギが、国重の異変を視界に捉えた──イシュタルの中で、警告が点灯する。

呼吸数の急激な変化、左右差のある筋反応、非対称の歩行軌道。

《──脳血管系、警告レベル:高──》


初穂は顔色ひとつ変えずに立ち上がり、境内の敷石を蹴って駆け出した──

白い装束がはためく音を響かせながら、彼女は風のように村の方向へ駆けていった。


境内の隅で掃除をしていた柚葉は、その様子に目を見張った。

「ど、どうなさったのですか……!? いったい、何が──」

驚きに満ちた声をかけるも、初穂は振り返らず走り続ける。

柚葉は思わずほうきを手にしたまま立ち尽くし、そしてすぐに後を追いかけた。


──夕暮れの光が広場の地面を赤く染める中、数人の村人が国重の異変に気づき始めていた。

「……長老さま?」

「おい、様子がおかしいぞ」


最初に気づいたのは井戸端にいた若者だった。

国重が石段に腰を下ろしたまま動かず、うつむいた姿勢のまま微動だにしていないのを見て、声を上げた。

次第に人が集まり、ざわめきが広がる。


炊事場から駆けつけた年配の女が、咲の名前を呼んだ。

「咲を呼んできておくれ。屋敷にいるはずじゃ」

すぐさま、近くにいた少年が頷いて走り出した。

「はいっ、すぐに!」

土埃を巻き上げながら、少年の小さな背中が村の奥へと消えていく。


国重は頭を押さえたまま、ゆっくりと首を傾けた。

視界の端が暗く滲み、音も遠くなっていく。

呼びかける声があったような気がするが、意味が頭に届かない。

唇がわずかに動いたが、音にはならなかった。

指先に力が入らず、膝から下が冷たく痺れていく。


……次の瞬間、体がわずかに震えた──全身が突っ張ったように反り返り、痙攣が始まる。

腕が跳ね、足が痙り、白目を剥いた顔から唸るようなうめき声が漏れた。


「ひっ……!」

「誰か、早く……!」

村人たちの声が悲鳴に変わる。

咄嗟に駆け寄ろうとする者、立ち尽くす者、混乱の中で誰も何をすべきか分からず立ち尽くしていた。


その混乱を裂くように、白い衣をはためかせながら、初穂が風のように駆け込んでくる。

呼吸ひとつ乱さず、まっすぐ国重のもとへと向かった。


初穂は国重の呼吸と脈拍を確かめ、すぐに嘔吐と気道閉塞を避けるため、そっと横向きに寝かせた。

近くの者が水を差し出そうとしたが、彼女は静かに首を振った。

「水は与えないで。今は危険です」

意識が不明瞭な状態で水を与えれば、誤嚥による窒息の恐れがある。


枕の代わりに布を丸めて頭の下へ。

頭部をわずかに高くし、気道を確保した。

(初期対応実行中……。呼吸数の不均衡)

(瞳孔に左右差──左脳血流に異常あり。……麻痺の兆候)


呼吸と瞳孔の反応に変化が見えないことを確認し、初穂は一瞬だけ指を止めた。

(──脳動脈瘤の破裂による、くも膜下出血と断定)

(……自然治癒の可能性、0%)

(応急処置の限界を超過。追加処置に移行──)


ざわめく広場の外れに、息を切らせた少女たちの姿が現れた。

先頭を走るのは咲。すぐ背後には、額に汗を浮かべた柚葉の姿もある。

「おじい様……っ!」


駆け寄ろうとした瞬間──国重の傍らで処置を続ける初穂の背に気づき、咲の足が止まった。

「大丈夫です、下がってください」

その一言に込められた静かな威圧感が、混乱を押しとどめ、広場の誰もが思わず動きを止めた。

初穂はわずかに息を吸い、右手を国重の額へと添えた。


(──もはや、ナノユニットの投入しか手段はない。遅れれば、脳の壊死が進行する。即時介入を開始)

初穂の右手が額に触れたその瞬間、彼女の体内に保持されていたナノユニットが青白い光を放ち始めた。


そして、その光は初穂の右手に集まり、青白い輝きは脈動するように小さく震える。

やがて額と掌のあいだに柔らかな光の層を生み出す。

広場に立ち尽くす人々は息を呑み、その様子をただ見つめていた。


装束の袖口が揺れるたび、風に乗って光が微かに揺らめく。

それは炎ではない。水でも、霧でもない。

この世のどんな自然現象にも似ていない。

静かで、けれど確かに“この世界のものではない”何かだった。


柚葉が小さくつぶやいた。

「……あのときと、同じ光……」

咲が振り向く。

「え……?」


初穂が目を伏せ、さらに掌に力を込めたその瞬間、光がすっと収束し、国重の額へと吸い込まれるように沈んでいく。

広場に、沈黙が訪れた……。


ナノユニットは、皮膚から毛細血管を通じて体内に侵入し、血流に乗って脳を目指す。

脳内の毛細血管を進みながら、破損した血管周辺に集中的に展開される。

まず、微細な修復膜が破裂箇所に形成され、破裂した血管の封止する。


同時に、漏れ出した血液が脳組織を圧迫している箇所へと移動したユニットが、脳組織へのダメージ拡大を防ぐ。

出血によって生じた血腫──いわば“血の塊”──それは脳にとって”時限爆弾”のような存在だった。

神経伝達を妨げ、脳組織を圧迫し続けるこの塊が取り除かれなければ、命は確実に失われる。


初穂の額に添えた手は、わずかに震えていた。

咲はそれに気づき、胸を締めつけられるような想いに息を呑んだ。

(お願い……おじい様を……)

声にならない祈りが、彼女の心から零れていった。


医療用にカスタマイズされたナノユニットは、血液の凝固成分を分解する酵素の放出を開始する。

周囲への影響を抑えながら、血腫の溶解と吸収を始めていく。

破裂した血管の封止が完了した直後から、ユニットはすぐさま次の段階に移行する。


残された血腫を処理するには、凝固成分を分解する酵素の放出を微量ずつ、段階的に行わなければならない。

分解が早すぎれば再出血を招き、遅すぎれば脳圧の上昇で神経の壊死が進むのだ。

この極限のバランスを維持するために、イシュタルは体内のナノユニットをフル稼働して国重の脳へと送り込む必要があった。

それはまるで、無数の小さな命が、一つの命を守るためにその力を尽くしているかのようだった。


柚葉の胸には、あの日の光景が鮮やかに浮かび上がっていた。

祭壇の上、絶命したはずの初穂の体が光に包まれ、再び目を開けた──あの瞬間。

(夢じゃなかった……やっぱり、あれは、神さまの力だったんだ)

胸の奥で、感情の波が脈打つように震えた。

(初穂は、本当に……神さまなんだ)


国重の血腫は緩やかに分散し、圧迫が弱まり始めたことで、神経の反応にもわずかな変化が見られた。

初穂は、呼吸と脈拍の変化から、出血の拡大が止まったことを確認した。

(止血完了。脳圧安定。生命兆候、安定方向に傾き始めた)


国重の手足の痙攣はおさまり、呼吸もゆっくりと整いはじめていた。

広場の誰もが、その変化を目の当たりにしていた。


何が行われたのか、まったく理解できなかった。

ただ、"命が戻ってきた"という事実だけは、誰もが感じ取っていた。

今、神が奇跡を起こした──誰もが、そう信じていた。

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