第10話:村の病 -2-
村はずれにある小さな
その中で、幼い男児が熱にうなされていた。
赤く火照った額、荒い息、そして止まらぬ下痢。
母親は顔を真っ青にしながら、桶の水で濡らした布を何度も絞っては額に当てていた。
「……このままでは、この子が……」
隣では巫女が、香を焚きながら祈祷の言葉を唱えていた。
手を合わせ、天へと声を響かせていた。
しかし、子どもの呼吸は浅く、意識はすでに
その場にいた誰もが、声を失い、ただ静かに諦めの色を滲ませていた。
──少女が現れるまでは。
初穂は、何の前触れもなく戸口に立っていた。
彼女の顔は無表情で、ただ一点、子どもを見つめていた。
「……わたしに、診せてください」
母親と巫女が顔を見合わせた。
「な、なにを……?」
返事を返すことなく、初穂は井戸へ向かった。
戻ってくると火に鍋をかけ、湯を沸かしながら塩を取り出し、指先で少しだけつまんで湯に溶かす。
塩を加えることで、体に吸収されやすい水分となる。いわゆる、経口補水液だった。
「このお湯なら、水よりも身体に入りやすいはずです──」
初穂はそう言って、木の匙を取り、塩を溶かした湯をすくった。
「少しずつ、飲んでくださいね……」
初穂は子どもの身体を優しく支え、顔を近づけて声をかける。
そっと子どもの唇にあてがい、わずかずつ流し込んでいく。拒絶するように咳き込んだが、三度目には、喉がぴくりと動いた。
男児は急性脱水状態に陥っていた。
命をつなぐには、まず水分と塩分の速やかな補給が必要だった。
「はい、よくできましたね。あなたはとても強い子です。あともう少しです、がんばってください」
彼女の声かけは、ただの励ましではなかった。わずかな応答の遅れや、音の震えを解析していた。
呼びかけ反応の観測は、意識レベルを計測するための大切な手がかりだった。
手首に指を添え、脈を測る。視線を口元に移し、舌の色を確かめる。全ての所作において無駄が無い。
すべての動作が目的に沿って最適化されており、その動きはまるで儀式のように映った。
巫女は震える声で言った。
「これはいったい……。祈ってるんじゃ、ないの……?」
初穂は、何も答えなかった。
ただ黙々と、冷たい布で脇と首を冷やし、濡れた寝具を乾いた藁に替え、子どもを安静に保った。
(診断結果:
(重症化の可能性が高く、即時対応が必要。24時間以内に敗血症・意識消失・呼吸停止のリスクあり)
彼女は立ち上がると、庭の隅にある湿った土のあたりへまっすぐ歩き、しゃがみこんだ。
村の巡回時に目にした薬草は、種類や分布、生育の様子まですべて記録されていた。
情報は検索と同時に処理され、すでに行動に移されていた。
(薬草照合”ドクダミ”:腸内の病原菌に対する静菌効果あり。毒素の吸収を抑え、排出を促進)
(薬草照合”シソ”:腸の動きを整え、下痢による内臓の負担を軽減。発熱時の倦怠感の緩和にも有効)
(現在の症状から見て、静菌・整腸・脱水緩和の三点を補う必要がある。いずれも採取可能範囲に確認)
初穂はドクダミとシソに、迷いなく手を伸ばした。
茎を丁寧に摘み取ると、それらを小鍋に入れ、火にかけて数分間煮出す。
立ち上る匂いは少しきつかったが、薬効を引き出すには、どうしてもこの温度と時間が欠かせなかった。
煮出しと同時に、初穂は手のひらをそっと小鍋にかざした。
ナノユニットから発せられた電磁波が、薬草の細胞膜に作用し、有効成分を効率的に抽出していく。
薬草に含まれる成分が均等に分解され、吸収効率の高い分子構造へと最適化されていった。
これによって、同じ薬草でも自然状態より格段に高い効果が引き出される。
電磁波が有効成分の放出を加速させ、自然状態では得られない速さで薬効が抽出されていった。
未来の技術が、薬草の力を極限まで引き出していた。
周囲から見た初穂は、ただ薬草が煮えるのを待っているようにしか見えなかった。
すべての動作は、わずかな手の動きと視線移動に隠されていた。
「この薬草は、体の毒を外に出してくれます。苦いかもしれませんが、少しずつ飲ませてあげてください」
母親は初穂の顔を見つめたまま、おずおずと頷いた。そして、匙で薬湯をそっと子どもの口元へ運ぶ。
男児の喉が、ごくりと鳴った。わずかに薬湯を飲み込んだのだ。
初穂は母親のそばにしゃがみ、小さく微笑んだ。
「……無理をさせないで、ほんの少しずつ。飲めたぶんだけで、十分です」
母親は目に涙をにじませながら、何度も頷いた。
匙を手に、静かに薬湯を口元へ運び続ける。
その様子を見届けると、初穂は再び火のそばに戻り、残った薬湯を丁寧にかき混ぜた──
当時は、下痢・熱病・腹くだし、などの表記で記録された病気が多く、現代でいう赤痢や腸チフス、コレラに近い感染症が広く蔓延していたとされる。
現代のような上下水の分離がされておらず、井戸や水路からの感染が後を絶たなかった。
脱水と高熱が重なれば、子どもは意識を失い、呼吸停止に至る危険が高い。
この男児も、適切な処置がなければ命を落としていても不思議ではなかったのだ……。
やがて、夜が深まり、火が静かに揺れる中、子どもの呼吸が、かすかに整いはじめた。
母親は布を握りしめながら、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「……神さま……ありがとうございます……」
初穂は何も言わず、そっと母親の隣に膝をついた。
夫の辰は、村の買い出し当番として町に出ており、米や塩を受け取りに向かったのだという。
戻るのは、荷を背負って山を越える翌日になる予定だった。
助けも頼れぬ中、この少女の存在が、どれほど心強く感じられたか──
言葉では言い表せるものではなかった。
──夜が明け、朝日が差し込みはじめたころ。
静まり返った室内に、かすれた声が響いた。
「……おかあ……さ……」
思わず母親が振り返ると、布団の中で、男児が目を開けていた。
まだ熱の余韻は残っていたが、確かに意識が戻っていた。
「……気がついた……!生きてる……気がついたのね!」
母親は駆け寄り、子どもをそっと抱きしめた。
初穂は隅で静かにそれを見ていた。
(脈拍、安定。体温、少しずつ下がり始めている。……問題なし)
初穂が発症から早期に対処できたことで、症状は重症にならずに済んだ。
赤痢は進行すると回復は困難で、当時の村では有効な治療法もなく、祈ることしかできなかった。
巫女の少女が、息を呑んで手を合わせている。
当時、医療知識を持つ者がほとんどいなかった村落では、病はしばしば神仏の罰・穢れ・霊障とみなされていた。
巫女は、
特に子どもの病気は、悪霊に憑かれたなどの解釈が多く、巫女が祈り続けるのは極めて自然な行いだった。
巫女はその場を離れることなく、静かにすべてを見ていた。
「……初穂は、やっぱり神様に間違いない……」
巫女の少女は手を合わせたまま、小さくそうつぶやいた。
体の震えが止まらなかった……。
彼女は、初穂の姿から目を離せずにいた。
初穂の所作と判断には一切の迷いがなく、その表情には、目の前の子を必ず救うという揺るぎない意思が宿っていた。
神に祈る者の姿ではなかった。そこにあったのは、まさしく神の振る舞いだった。
彼女は、かつての親友・初穂を──神送りの儀で見送っていた。
そして、再び目の前に現れた初穂の姿に、彼女は神を見た。
感情があふれ出し、少女はもう抑えきれなかった。
彼女は、初穂の手を、そっと握りしめていた。
……かつて、親友だったその手を
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