雨に滲む顛末の後で

夢真

 終電が過ぎたあとの閑散とした商店街。雨の音だけが響く、寒い夜。本来なら誰もいないはずのアーケードに、ぽつりと立つ影。


 その正体は、傘もささずに店先の軒だけを頼りにした男の姿。その手には、火をつけたばかりの煙草。人差し指と中指で支えながら、緩やかに口元へと運んでいく。やがて、漏れだすように白い煙が広がり、雨粒に溶けてゆっくり形を失っていく。


 男はふと、近づいてくる足音に気づいた。音のする方に目を向ければ、遅い時間にも関わらず制服を着たままの少女。頼りない街灯に照らされる姿は、危なげで、どこか儚さを思わせる。男と同じく傘を持っていないのに、容赦なく降り注ぐ雨など気にしていないようだった。


「……ここ、入ってもいい?」


 声をかけられた男は、肩をほんの少しだけ動かした。肯定も否定もしないが、彼なりの返事だと少女は受け取ることにした。張りつけたような笑顔を浮かべながら、軒の端に足を踏み入れる。


 営業が終わった店舗の前、二人の間には沈黙の空間。聞こえるのは、降り続ける雨音だけ。しばらくして言葉を発したのは、男の方だった。


「ずぶ濡れだな」


「傘、持ってないから」


「天気予報はちゃんと見ておくんだな」


「じゃあ、わたし悪くない」


「ハハ、信用しすぎてバカを見たな」


「……あなただって」


「俺はいいんだよ」


 淡々とした声。興味があるようにもないようにも聞こえる言葉の投げ合い。そんな絶妙な距離感が漂う。


「……靴、汚れ方が変」


 その言葉に、男の視線が靴先へ向く。泥が乾かずにこびりついていた。これは、ちょっとした仕事の副産物。今後、誰にも語られることのない出来事の結果だった。


「お前には関係ない」


 突き放す言葉。だけど、完全に拒絶する温度ではない語気。その微妙な隙間を捉えたのか、少女が僅かに男に近づいていく。


「だって……わたしのために」


「ハァ? お前と俺は初対面だ。言ってる意味がわかんねぇな」


 半笑いで語る口元には、小さな傷。最近できたものなのか、雨に濡れた髪から滴る雫と混じり、落ちる水が赤く混じっているように見える。


 少女は口を開きかけて、閉じた。聞いたところで答えてくれないことを悟ったから。それに、彼がどこで何をしてきたかを知ったところで、自分にはもう関係ない。だから、これから話すことは独り言。


「友達の家に行ってたの」


「……なんだ突然」


「いつものことなんだ。気にかけてくれるから、たまに甘えちゃう。でも、心配させないように、いつもどおり笑って」


「……」


「多分偶然だけど、ミステリ小説を勧められたの。ちょっと驚いたけど、面白かった。でも、読んでる時の顔、怖かったよって言われちゃった」


「いい嗅覚だな。ソイツは長生きしそうだ」


「……ひどいなあ」


「それより、用は済んだんだろ。帰らないのか?」


 唐突な問いかけに、少女は少しうつむいた。


「……歩きたい気分だったの」


「へぇ、平和を信じてて良いじゃねえか」


 男が、少女に近づいていく。少女はそのまま動かずに、近づいてくる姿を眺めている。すると男は突然、少女の両腕を掴んで引き寄せた。


 微かな声が少女から漏れ、力強く握り締められた痛みに顔を歪めるが、そのまま少女の腕は持ち上げられ、閉じられた店舗のシャッターを背にするように振り回される。


 少女はよろめきながらも、強引な誘導についていく。そして、息の合わない社交ダンスは、叩きつけられたシャッターの音で終着する。


 些細な拘束により、近距離の視線をぶつけ合う二人。しばらく沈黙が続き、雨の音だけが響いている。少女の張りつけられた笑顔は変わらない。濁ったような瞳には、男の顔が浮かんでいる。


「ねえ、わたしって……悪い人なのかな」


 素朴な疑問。後ろめたさを拭いきれない心のモヤモヤが、口から出てきたかのようだった。


「自分で決めろ。そんなこと」


「あなたは、どうなの?」


「さぁな。意外と良い人かもしれないぞ」


「こんなことしてるのに?」


「夜の危険を教えてるワケだ。それは優しさだろう?」


「そっか」


「……」


 男は少女を解放し、背を向けながらゆっくりと距離を取る。少女は、何事もなかったかのように表情が変わらない。


 彼の指先についた黒い汚れに目を落とす。雨に薄まり、古い鉄の匂いがほのかに残る土。少女の表情に少しだけ悲しみが浮かぶ。


「……あなたって、そんなに怖くないかも」


「人を見る目がないな」


 雨足が緩やかになってきたと同時に、彼は煙草を地面に落として踏み消した。とっくに火が消えていた残骸に少女は視線を向けるが、特に何も言わない。


 やがて、男は歩き出す。少女は数歩遅れてついていった。


「ついて来るなよ」


「わたしも、そっちが帰り道」


「へぇ、奇遇だな」


「……ふふ、ウソ、下手だね」


 当てもなく歩いているような彼。だけど、少女の行先も同じ道だった。歩幅は広いのに不思議と追いつける。どこかで速度を合わせているようだ。


 街灯の切れた区画に入り、やや舗装が甘い通行路に差し掛かる。穏やかになってきた雨に気づいた少女は空を見上げた。雲の切れ端が見えそうだった。そんな空に気を取られた心の隙間を、足元の溝が邪魔をする。


「わ……っ!?」


 歩く足が溝に突っかかってしまい、体勢を崩した少女は倒れることを覚悟したが、地面に激突することはなかった。男の手が肩を支えていたから。


「何してんだ」


「……ありがとう」


「礼なら、形のあるもので欲しいもんだな」


 冷たい手だった。自分の心とどちらがより冷えているのか、そんな考えが少女の頭をよぎる。笑顔を取り繕うのはしばらく忘れていた。


 再び歩き出す二人。しばらくすると家の角が見えてくる。やがて、少女の目的地にたどり着くと、ずぶ濡れの男は振り返る。そこに居るのもずぶ濡れの存在。笑顔は張りつけなおしたようだ。


「結局、送ってくれたんだ。ありがと」


「面白い勘違いだな」


「……また会える?」


「さあな、惚れたか?」


「……わかんない」


 ずっと変わらない笑顔のまま、少女は小さく息を飲み、俯きだす。これからのことに想いを馳せているのだろう。


 そんな姿を見届けるつもりは、男にはなかった。役割を終えた役者は、必要以上に世界に踏み込むべきではない。そして、踏み込むつもりもない。


「じゃあ、さよな……」


 少女が顔を上げた時には、すでに男の姿はなかった。雨の音の中にひそかな足音が消えていく。ただひとつ、雨に流されない薄い赤だけが、舗道に残っていた。


 それが何の残滓なのか、少女が知ることはない。気づけば雨は止み、雲の隙間から星空が見えたかと思えば、すぐに新たな雲に隠れてしまう。


 これは、少女の願いから始まった、男との出会い。そこからもたらされた結末に、決して後悔はしない。そう心に決めて、少女は新しい生活の扉を開きだした。


 ――(了)――

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