夜、私達は同じ世界を見る

杏樹

私の世界

今日も曇っている空にため息をつく。

慣れた光景なはずなのに、この世界には私しかいないような気がして心細くなる。

先生に頼まれたプリントを教室に届けようと扉を開けると、一人の生徒が座っていた。

出来る限り、顔を見せないように黒板の方を向いて歩いた。

教卓の上にプリントを置き、教室を出ようとしたがその生徒が少しだけ気になった。


何かに向かって一生懸命なその人をじっと見つめていると、目が合ってしまった。

急いで背を向けたが、もう遅かっただろうか。

向こうから何も聞こえないのでゆっくりと振り向くと、その人はまた何かに熱中していた。

「何をしてるんですか?」

再びその人に背を向けて、聞いた。

「こっち来て見れば?」

その言葉に躊躇ったが、気が付いたら私の足はその人の席に向かっていた。


私よりもゴツゴツした手がノートの上で動く。

その人は絵を描いていた。

ただ、それにどんな色が使われているのか私には全く分からなかった。

「可愛いね」

もこもことした丸い形の絵を指差すと『ありがと』と短い返事が返って来た。

たったそれだけだったのが嬉しかった。


手が動くのと同時に新しい線が生まれる。

迷いのない動きに思わず見惚れる。

「あ、雨宮さん。ありがとうね」

先生が扉を開けて入ってきたことに気が付いた私は会釈をして廊下に出た。


たった数分の出来事が頭から離れなかった。

その手の動きをまた見たいと思うほど、何かを感じた。

絵なんて全部同じようなもので、美術にはほとんど興味なかった。

しかし、今日それが変わった気がした。

また見たいと、そう思った。


数日後、また係りの仕事であの教室を訪れることになった。

あの人がいるかもしれないと少しの期待を抱き、プリントを運んだ。

開いている扉から人の姿は見えなかった。

あの日はたまたまあそこにいただけで、また安易に会えるわけでは無かったようだ。

肩を落としながら学校を後にした私は交差点で足を止めた。


周りに人が誰もいないと信号の色が分からない。

車は来ていないが、赤信号なのかもしれない。

そう思うと足が止まってしまう。

横に男子生徒の集団が来たことに安心した私は向こうに渡るタイミングを待っていた。

男子生徒が走って渡り出したのを見て、足を一歩前に出すと腕を掴まれた。


振り返るとそこにはこの前絵を描いていたあの生徒が立っていた。

「赤」

そう言って私の腕を離した。

男子生徒たちは赤信号だったが車がいなかったため急いで渡ったのだろう。

「ありがとう」

お礼をすると軽く頷いてスマホを取り出した。


「あの、名前聞いても良いですか?」

あの日からずっと気になっていた。

「北川秀。あんたは?」

スマホをポケットにしまって私を見つめる。

「雨宮いろは。よろしくね」

私を見ても何も言わない北川君に自然と口角が上がる。


「また絵、見せて欲しい」

私の言葉に小さく頷く北川君。

「青」

そう言って私の肩を軽く叩いた。

その一言で私は安心してこの道を渡れる。

きっと北川君はそんなこと知らないだろう。


私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる北川君。

とても優しい人だ。

「家、どこ?」

「西区。学校から20分歩いたところ」

少し後ろを歩く北川君はポケットに手を入れたまま歩く。

「北川君は?」

「俺は電車通。隣町から来てる」

その言葉に思わず足を止めた。

「駅、通り過ぎたよね」


学校から一番近い最寄り駅はさっき通り過ぎたはずだ。

「今日は散歩したい気分だから」

まさか、私を送り届けようとしてくれているのではないだろうか。

散歩だと言われたら私のために送ってくれているのかと聞くのも恥ずかしい。

その優しさを受け取って、自分の通学路を歩いた。


「赤」

信号になると必ず、青か赤か教えてくれる。

そこに何の疑問も持たずに、ただ伝えてくれたのは北川君が初めてだった。

「私、家そこ」

家を指差すと小さく頷いた北川君は背を向けた。

「待って!」

北川君を引き留めて、家の前で待ってもらった。


靴を脱ぎ捨てて、リビングに走る。

お菓子コーナーの扉を開けて、チョコレートとスナック菓子を取り出した。

「良かったらこれ」

北川君にお菓子を差し出すと、ゆっくりと手を伸ばしてくれた。

「さんきゅ」

背中を向ける北川君に手を振って、家の中に入った。


散らばった靴をそろえて、手を洗った。

制服から部屋着に着替えて部屋のクッションに座る。

何もしないまま、ただ壁を見つめた。

北川君の事が気になる。

その優しさに触れてしまったらもう戻れないと思う。

そんな感じがした。


また明日、あの教室に行けば会えるかな?

学校に行くことがこんなにも楽しみになる日が来るとは思わなかった。

「いってらっしゃい。気を付けてね」

学校の駐車場で車を降りると、母に手を振る。

それが私の日課だった。

「何か楽しそうだね」


学校を楽しみにしていたことが、顔に出ていたようで母に笑われた。

「うん。また話すね」

窓越しに母に手を振って、私は校内に入った。

私が見ている世界と北川君が見ている世界は違うけど、また同じ時間を過ごしてみたいと思った。

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