第2話 売上回復作戦 FX





カフェ「スターダスト」の店内は静まり返っていた。カウンター越しに街を見渡すマスターは、深いため息をついた。雰囲気の良い店内と店長オリジナルのブレンドコーヒーが評判の店であったが、今は店内にお客さまの姿はなかった。


「どうしたんですか、マスター?」



カウンター越しに、アルバイトの桜が心配そうに尋ねる。


「以前より客足が落ちてな、売り上げがどんどん減ってるんだ」


マスターは、古びたメニュー表を指差した。昔は人気だったブレンドコーヒーも、最近は注文されることが少なくなった。



「それは大変ですね」


「確かに前よりお客さまは来ていませんね」


テーブルを掃除している千代と鈴が話に入ってきた。マスターがあれこれ思案しているみたいだけど、アイディアは全く出てこないらしい。




「良いアイデアがあれば教えてくれ。君たちは若いから僕にはない発想があるかもしれない」


「わかりました、マスター。千代ちゃん、鈴ちゃん、一緒に考えよう?」


「わかりました。起死回生の凄いアイディアを出しちゃいます」


「ハードル上げましたね、千代さん」






桜、千代、鈴の3人はテーブルに座って話し合いを始めた。最初にアイディアを出したのは千代だった。



「やはり店の売上を補填するにはFX取引しかないです」


「FX取引?!」



FXってあれだよね。テレビのCMでやってる外貨取引ってやつだよね。絶対危ないやつじゃん


「FX取引なんて駄目だよ、千代ちゃん。今はコモディティの方からいいよ」


「コモディティってなんですか?」


「金とか石油の先物取引だよ」



「それもなんか危なそうなやつじゃないですか!?そもそもウチは普通のカフェですよ。真っ当に商売のアイディア出しましょうよ!」


「何を言ってるんですか。FX取引なら一瞬にして大金が手に入ります。お店を救うのに手っ取り早い方法です」


そう千代が言うと、何処からか取り出したパソコンを開いた。

その画面には様々な通貨のチャートが示されていた。


「特に今はリラ円のペアが熱いです。今投資すれば1日で大金持ちですよ」


「いいねぇ。レバレッジを最大に賭けよう」


「マジでやめて下さい!」







シトシトと雨が降る様子をマスターは窓から眺めていた。


「今日もお客さん来ないねぇ」


ため息をつくマスター。千代はパソコンの画面に集中していた。


「ピンチはチャンスです。お客様がいないということはFX取引に注力できるチャンスですよ」


「店としては本末転倒だよ」



マスターの思いとは裏腹に、千代は取引を続けた。

画面には100を超える通貨ペアが表示されている。常人ならば管理しきれない量だったが、天才的な頭脳を持つ千代は次々と取引を続けている。


そして彼女には完璧なるトレードプランがあった。今、発展途上国の経済力は先進国よりも凄まじい成長力を見せている。そして、そこに全てを賭けようと。





目覚まし時計が鳴る5分前、千代はすでに目覚めていて、スマートフォンの画面が放つ薄い光が、一人暮らしの部屋の天井をぼんやりと照らしている。

まだ眠っている世界の静寂の中、千代はまずFXアプリを立ち上げた。



​「んー、週末の地合いはやっぱり影響しています」


​画面には、週末の間に起きた国際ニュースを受け、月曜日の早朝に窓を開けてスタートしたドル円のチャートが映っている。先週末、FRB高官の金融引き締めに積極的な発言があったため、週明けはわずかにドル高・円安の方向へ跳ねて始まっていた。


​千代は、通学前の貴重な時間を使って、サッと情報を収集する。



​週末に発表された米国の経済ニュースと、日銀関係者のコメントをチェック。


​経済指標カレンダーの今晩の21時半(冬時間)に発表予定の米国ISM製造業景気指数に、星三つの印を付ける。


​SNSにあるプロトレーダー数名の短文コメントを流し読みし、今日の市場のムードを把握する。



​「よし。午前中は東京市場の※ゴトウ日の動きを警戒して、9時半の仲値まではドル買い優勢ですね。でも、夜の指標までは大きく動かないレンジ相場かも知れません」


※ゴトウ日

ドル決済の取引が集中する日で、ドル高円安になりやすい。



​千代は小さく独りごちた。午前中の授業が始まる前に、仲値をめぐる動きを利用して小さな利益を狙う作戦だ。


彼女はアプリのメモ欄に「9:45 JPY高騰警戒」と入力し、ベッドを後にした。



学校での1日が終わり、家で過ごして午後9時。夕食と課題を終えた千代は、自室のデスクに向かった。部屋着に着替え、コーヒーを淹れる。ここからが、FXの「ゴールデンタイム」だ。


​現在、ロンドン市場とニューヨーク市場が重なり、世界中のトレーダーが活発に取引に参加している。相場が荒れやすい時間帯だ。



​そして、今夜の最大のイベントまで残り30分。米国ISM製造業景気指数の発表だ。

アカリはPCの前に座り、左右に画面を配置する。

​左画面は複数のテクニカル指標を表示したドル円のチャート。​右画面は経済指標の速報サイトとニュースフィード。



​時計の針が21時29分を示す。発表直前は誰もが様子見するため、為替レートは一瞬、不自然なほど静かになる。アカリは指をホームボタンの上に置き、緊張しながら速報を待った。



​「…来ました!」



​21時30分。速報サイトに数字が飛び込んできた。そこで発表された​製造業景気指数は予想より大幅に上回っていた。


つまり米国経済が予想以上に好調であることを示す。市場は「FRBはさらに利上げを続けるだろう」と解釈し、瞬間的にドルが急激に買われ始めた。


チャート上のドル円レートが一気に上へスパイクする。千代は迷わず買い注文を発注し、値動きが落ち着くのを待って、冷静にストップロス(損切りライン)を設定した。



​激しい乱高下が一服し、レートは高値圏で落ち着きを取り戻し始める。指標発表後の急激な動きを利用して利益を確定させ、千代は深く息を吐いた。


「よし。今夜のミッション完了」









カフェ「スターダスト」では、いつもと同じくマスターが自慢のブレンドコーヒーを焙煎し、鈴は丁寧にテーブルを拭いていて、桜は鼻歌を歌いながら食器を洗っていた。



「千代さんもスマホ見てサボってないで働いて下さいよ」


「失礼な!サボってないですよ。今SNSサイトで情報収集してるんです」


「まだFX取引で儲けようとしてるんですか?」


「あっ、今ヤバい情報を見つけました」



千代はFX取引で勝利するために様々な情報源から情報収集していた。


政府の発表した経済指数や高名なニュースサイトのオピニオンやコラム。


時にはホイッターやチックタックといったSNSサイト、100チャンネルといった匿名サイト。東横スポーツや日刊近代といった信頼できるニュースサイト。



千代が探している情報は公式の経済指数だけではない。一般的に景気悪化の先行指数と呼ばれる、口紅の売上、男性用下着の売上、​ネクタイの売上など。


例えば、ネクタイの売上をなぜ気にするかというと、不況が忍び寄ると、男性は新しいスーツを買う代わりに、手持ちのスーツに変化を加えるために安価な派手なネクタイを選ぶ傾向がある。これもまた、彼の「不況兆候リスト」の一つだった。



「スカイ・スクレイパー指数です…来ましたね、これは」



世界一高いビルが完成する頃には、いつも経済に大きな波乱が訪れていた。人類の過剰なまでの楽観と自信が、バブルの頂点を示す兆候となっているのであった。





「よし。ここが押し目。日銀は動かない。現状維持。この地合いでリスクを取らない手はない」



​千代の完璧なトレードプランは、日銀の金融政策を完全に織り込んでいた。今、市場の誰もが、日銀が金利を動かさず、金融緩和策を続けると予想している。千代は、その市場の「コンセンサス(共通認識)」に乗っかり、リラ円と高レバレッジを組み合わせた、最も利益率の高いポジションを積み増していた。


「マスター。チャンスですよ。レバレッジは最大で」

「本当に大丈夫なのかね、千代くん。テレビで日銀総裁の会見が始まったようだが…」




マスターが心配そうに呟く。千代はチャートから目を離さない。


​「大丈夫です。どうせ紋切り型の『粘り強く金融緩和を継続します』ですよ。織り込み済みです」

​時計の針が午後3時を指した。日銀の金融政策決定会合の結果発表時刻だ。



しかし、その直後、右画面の見出しが、閃光のようにチカチカと点滅した。


​『【速報】日銀、YCC(イールドカーブ・コントロール)の運用を突如修正!長期金利の許容変動幅を拡大!』



​千代の血の気が引いた。

「え……うそ」


​市場のコンセンサスが、一瞬にして爆発した。

「現状維持」と見せかけてのサプライズの金融引き締め(タカ派化)。これは、市場が最も警戒し、最も避けたいシナリオだった。


​千代の目の前のチャートは、まるで巨大な津波に襲われたかのように、垂直に落下した。

​「リラ円」が高騰する金利とリスクオフの円買いが重なり、1分で過去最大級の大暴落に見舞われた。



​彼女が店を救うために投じた全資金、そして店の未来を賭けた最大レバレッジが、日銀総裁のたった一言で、全て吹き飛んだ。

​カフェのカウンターで、千代はただ画面を呆然と見つめたまま、小さく呟いた。



「あの日銀が!?動いただなんて…」






「だから言ったじゃないですか。FX取引なんて危ないだけですって」


「私の読みは間違ってなかったはずです…」


「いやぁ、ビックリするぐらい、チャートが動いたねぇ」




反省会をしている3人をよそに、マスターはカウンターの下から一冊の古びたノートを取り出した。


表紙には「ブレンドの記録」と書いてある。


ノートには、ブレンドコーヒーの注文記録が日々の出来事とともにびっしりと手書きされていた。

マスターはコーヒーを売るたびに、こまめにノートをとっていたのだ。


その時、店に一人の老紳士が入ってきた。彼は「スターダスト」の長年の常連で、いつも決まって特注のブレンドと、分厚い経済新聞を広げる人物だった


​「マスター、いつものブレンドを頼むよ」


​老紳士はいつもの席につき、マスターのノートに目をやった。



​「ほう。これは…驚いた」


老紳士はマスターの記録を丹念に読み進めると、興奮したように立ち上がった。


「マスター、これは凄いぞ!あなたのこの記録こそが、究極の先行経済指数だ!」


​老紳士はなんと、日本経済界でも名の知れた隠れた経済学者だったのだ。


​「この『スターダスト・ブレンド注文率』は、『一番の楽しみ、日々の小さな贅沢』を削るサインだ。これは、消費者の心理が、節約から諦めへと移行した決定的な瞬間を示している!この変動は、政府の公式統計より三ヶ月は早い!」



​​老紳士は、この指数を「スターダスト・インデックス」と名付け、自身が顧問を務める大手証券会社を通じて発表した。




​ブレンド注文率が前月比で5%減少した場合、数ヶ月以内に地域経済は不況に陥るという予測は、驚異的な的中率を見せ始めた。


​カフェ「スターダスト」は、一躍「経済の未来を占う聖地」として大々的に報道された。

​テレビ局や経済誌が連日押し寄せ、記者たちはマスターに群がる。


​「マスター!今日のブレンドの注文動向はどうなっていますか!?」

「ブレンドからストレートに乗り換えた客はいますか!?」




​千代は、彼女が愛用していたFXチャートが映るPCを片付け、新しい役割に就いていた。彼女の目の前のモニターには、ドル円のチャートではなく、ブレンド、ストレート、そしてハーフサイズの注文数のグラフが映し出されている。


​「今日の『スターダスト・インデックス』は、微減です。常連のAさんが、今朝ストレートコーヒーを注文されました。市場の慎重なムードがうかがえます」



​千代は、かつて為替市場を相手にしていた時と同じ真剣な目で、常連客の注文動向を分析し、メディアに発表するのだ。


​そして、忙しくなった店のカウンターで、マスターは新しいブレンドの豆を挽きながら、静かに独りごちた。



​「店の売上は、確かに回復した。いや、過去最高だ。でもな…」


​マスターは、窓の外でブレンド注文率の変動に一喜一憂する投資家たちの群れを見て、深いため息をついた。



​「結局、店が繁盛したのは、コーヒーが美味いからじゃなくて、コーヒーの注文数が世界経済の指標になったからか…。店としては、ますます本末転倒だよ!」



マスターの嘆きは、景気回復の喧騒にかき消され、今日も「スターダスト」は経済の未来を占う異色のカフェとして、賑わい続けるのだった。





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