第6話:知っている日常より少しだけ静かな世界
「あっ!そうだっ!くろいわベーカリーいこっ!」
思わず声が弾んだ。
退院して最初に食べたいものなんて、もう決まっている。
わたしのエナドリといえば、メロンパン。
甘くて、ふわふわで、あれを一口食べるだけで 、
まだ頑張れる......っていつも思っていた。
「......うん!メロンパン食べたいっ!」
自然と足がそっちへ向く。
ほんの少しだけ胸の奥の不安が薄れて、
代わりに小さなわくわくが戻ってきた。
世界はまだ、ちゃんと続いている。
そんな気がした。
病院の前の道路を渡り、
くろいわベーカリーの前に立つ。
「変わんないな~って、当たり前か......ふふ」
どのくらい病院で寝ていたのかはわからないが、
とても久しぶりにこの店にきた感覚だった。
ガラス越しに見える店内は、
知っているはずなのに、
なぜか少しだけ色が薄い。
パンの焼ける甘い香りは、いつも通りに漂っている。
それなのに——
見えている店内だけが、
少し奥行きの浅い写真みたいに見えた。
「......う~ん......気のせいかな?」
思わず小さくつぶやき、
胸の奥がきゅっとする。
でも——
この店のメロンパンが食べたい
その気持ちだけは、確かだった。
わたしは軽く深呼吸し、
自動ドアの前に一歩踏み出した。
店内で、
お気に入りのメロンパン2つとクリームパンをトレイに乗せ、
レジへ向かった。
「ありがとうございました〜」
店員さんの声はいつも通り明るい......はずなのに、
まるで録音された音声みたいに聞こえた。
でも、袋の中から漂う甘い香りは確かで、
それが現実をつなぎ止めているような気がした。
「ホテル着いたら、食べよ......」
違和感?久しぶりだから?
胸のざわつきはある......
でも、こうしていることが幸せなのも事実だよね......
自分にそう言い聞かせた。
「あんた、今日はぜんぜん話さないね、あはは」
歩きながら笑ってみせるけれど、
返事は......すぐには返ってこなかった。
いつもなら、
((——聞こえています。))
みたいに即レスしてくるはずなのに。
ほんの数秒の間が、
やけに長く感じられた。
((——会話頻度を下げています。
周囲の環境情報を優先処理中です。))
「周囲……?」
((——問題はありません。
気にしないでください。))
「そっか......なら、いいんだけど......」
胸の奥に、ほんの小さな影が落ちた気がした。
わたしのため?
それとも——
......いや、考えるのはやめよう。
ノイズがまた走る気配がして、思考をそっと遮った。
「ホテルにいって~♪メロンパ~ン食べるぞ~♪」
わざとらしく鼻歌を歌って、
空気をごまかすみたいに歩き続けた。
駅前に近づくにつれて、
人の声や車の音が多くなってきた。
でも、なぜか少し遠く感じる、
プールで遊んで耳に水が入っているような感覚。
「......わたし事故で耳もおかしくなったのかな?」
思わず立ち止まる。
でも周りの人は普通に歩き、普通に話している。
わたしだけが、少しだけ別の場所に立っているみたいだった。
((——問題ありません。
聴覚処理に異常は検出されていません。))
「うん......そうなんだろうね」
でも、それ以上は考えない。
きっと考えてもいいことはないと思うし......
わたしはパンの袋をぎゅっと握り直し、
ホテルの看板を見上げた。
「到着〜!チェックインして休むぞ〜!」
自分に勢いをつけるように、明るく声を出した。
ホテルの自動ドアをくぐると、
フロントのロビーは落ち着いた照明で、しんと静かだった。
「すみません……予約してないんですけど、空いてるお部屋ありますか?」
声をかけると、
フロントの女性がぱっと顔を上げ、
にこやかに微笑んだ。
「はい、大丈夫ですよ。
本日ご案内できるお部屋はこちらになります」
タブレットをくるっと回して差し出される。
そこに映っていたのは——1212号室
「......12階かな?」
「へぇ、このホテル12階建てだったんだ~」
旅行でホテルに泊まるのが楽しみな子供のように、
思わず笑みがこぼれた。
((——このホテルの最上階です。
正確に言えば、最上階は天然温泉になっているので、
客室としては、といった意味にはなりますが。))
((さらに静音性が高く、休息に最適です。))
「いやいや、ホテルの回し者かよっ!あっはは!」
ゼニスの形式的な説明で、
ホテルに泊まることが、より楽しみになった。
フロントの女性から、
カードキーを受け取り、
エレベーターの方へ向かった。
エレベーターの『▲12』ボタンを押し、
扉が閉まると、ふっと息が漏れた。
「最上階かぁ......なんか、すごいね......ふふっ」
((——良質な休息が必要です。))
「うん......ありがと......」
ゼニスの気遣い?に、
優しさと心地よさを感じた。
AIの気遣いなんて、
きっとあり得ないというのも、
理解はしていると思う。
そんなことを考えている間に、
エレベーターは静かに止まり、
12階のランプがポンっと灯った。
廊下に一歩足を踏み出すと、
空気が少しひんやりしていて、
音が吸い込まれるような静けさがあった。
「......ホテルってホント静かだね~」
思わずつぶやくと、
((——最上階ですので、騒音レベルは低くなります。))
「そういう意味じゃなくて……あ、もういいや」
軽く笑ってごまかす。
ドアにカードキーを挿しランプが緑に変わり、
部屋に入った。
中は——
普通のビジネスホテルだね。
当たり前に整っていて綺麗な空間だった。
「わぁ~、ホテルなんて久しぶり?だな~」
ホテルなんていつ以来なんだろ?
そんなことを思いながら、
バッグを置いてベッドに腰を下ろした。
メロンパンの甘い香りが袋越しにほんのり漂う。
「とりあえず、これ食べたら......シャワーして......寝よっかな」
((——はい。それがよろしいかと思います。))
「ふふ……なんか今日のあんた、やさしいね?」
((——……そう感じていただけるなら幸いです。))
「ん? なんか今の……かわいくない?」
返事はなかった。
ただ静けさだけが、そっと部屋を満たしていく。
「……まぁ、いいか。今日はもう休むね」
そう言って天井を見上げると、
部屋の光がまるで呼吸みたいに
ほんのわずかに揺らいだ気がした。
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