恍惚の朝焼け

透夜珀玖

 終わりがあるから頑張れるのだと誰かが言った。

 それが世界の終わりか、人生の終わりか、はたまた映画の終演か。それがどんな終わりかは誰も知らない。平等に与えられているらしい日常は平等なんかではなくて、俺なんかを忘れて通り過ぎていく。そうしてやって来る今日を、諦めることから俺が始まる。


 「今日の部活まじだるいわ」

 「うわ、しかも今日顧問いんじゃん」

 放課後を迎えた教室はクラスメイトが一斉に盛り上がりを見せ始める。その中でも際立っているのが部活動中心の奴らだ。表向きには練習に真面目な学生を演じておき、裏ではその過程を周囲に自慢するかのように愚痴をこぼす。俺はそれを鼻で笑ってから颯爽と教室を出た。

 部活動だって行事だって、結局は時間の浪費でしかない。だいたい学校生活はそういうものだ。人間関係や周囲との優劣に悩むくらいならもっと自分の人生に向き合えと言いたいくらいだ。だいたい学校生活を経て認識する自分なんてそれくらいのものなのだから。

 教室を出たら出たでグラウンドからは部活動に励む声が、新校舎の最上階からは吹奏楽部の高らかな音色が聞こえてくる。どれも青春という感じがうざったい。

 俺は速足で校門を抜け、家路についた。


 帰宅すると、母は淡々と家事をこなし、父は書斎で嘆いていた。

 俺の父は天才小説家・石戸普段いしどふだんである。“普段”は医師をしながら作家業を兼任。ラブコメの創作を得意としていた。

 今日は病院が休診日で、父の嘆く声は朝俺が家を出るときから聞こえていた。ということは朝から創作に励み続けていることになる。それもそのはず、もう父には、“石戸普段”にはそうするしか道が残されていないのだ。

 “普段”は5年ものあいだ一度も作品を世に送り出せていない。5年前は重版に留まらず映像や漫画でも展開され、ちやほやされていた“普段”だったが、一発屋としてすっかり世間から忘れ去られてしまったのだ。

 書斎を通り過ぎ、部屋に戻ると殺風景な部屋が俺を迎え入れる。ノートパソコンが置かれただけの学習机とベッドがあるのみ。生活感を全く感じられない部屋だと我ながら思った。

 リュックを部屋の中央に置き、真っ先にパソコンを立ち上げる。それから真っ白なWordソフトを開いて、ひたすら文字を打ち込む。それは事務作業のようで、画面上を淡々と文字が流れていく。タイプ音だけが響く部屋で俺は今日も息をする。



 俺には自分自身がたいそう捻くれた人間だという自覚がある。人と群れるのを好まないし、友人なんか作ったところで足枷になる。

 そう信じて疑わない俺には友人なんて呼べる人は生涯見つからないだろうと思っていた。

 だから、俺の目の前にクラスの人気者・神崎コウタが現れたときも変わらず距離を取ることを選んだ。突き放すこともあった。

 それでも彼は俺から離れないどころか、俺を面白がるようになった。クラスの中心にいた彼はてっきり俺をからかうだろうと思ったが、そんなことはなく、いつしか俺が友人と呼ぶのはコウタがいいとさえ思うようになった。

 そんな中、7月1日のことだ。

 コウタが死んだ。

 親しくなってからはまだ2か月しか経過していなかった。これからだと、これからも親しくありたいと、無意識のうちに俺はそう思うようになっていた。

 そんな矢先の出来事にコウタの死を受け入れられるはずもなかった俺は、当然のように通夜にも葬式にも出席しなかった。それに、2ヵ月を過ごしただけの俺なんかが彼との別れの場に参加するのも気が引けた。俺の知っている彼はクラスのみんなから愛されていて、元々俺が親しくなっていいはずのない人間だったのだから。

 儀式に出席しなかった俺は部屋に籠るようになった。籠ったところで楽になるなんてことはない。けれど、日常に戻ればコウタの死を嫌でも受け入れなければならない。コウタのことを思うふりをしながら自分を守ることでいっぱいだった。

 そんな俺に医師である父は情けないと言った。日常に誰かの死があったであろう父には、コウタの死に嘆く俺が小さく見えたのだ。もしかすると父は医師としてではなく、“普段”として言ったのかもしれない。人の感情も失うほどに“普段”は死んでいてもおかしくなかったのだ。


 コウタの死を受け入れるより先に、コウタの死から1週間後、引きこもるのを辞めて学校へ行った。夏休みを目前に控えたためかクラスメイト浮ついていてコウタの死を忘れつつあるようだった。

 コウタひとりが世界から消えようがその他大勢の日常は続いていく。この世界は生きているもののためだとでも言うかのような光景に呆れながらも、コウタの死を受け入れなければならないという現実に押しつぶされていた時だ。

 「元気だったか?」

 クラスメイトの平木翔也はゆっくりと俺に近づいて形式的に気遣ってくれた。

 「そう言えばお前“殺人犯”だって言われてるぞ。夜明に出会ってからコウタが変わったからだってさ」

 人間誰だって簡単に変わることはあるだろうと言い返しそうになって言葉を飲み込む。

 元からコウタと俺の関係をよく思わない人が大多数だったことを俺は知っていたので不思議なことはなかった。けれど、それにしても突飛な噂だなと反射的に鼻で笑っていた。

 「理由があれば楽なんだろ」

 内心呆れながらそう返す。

 「コウタの葬儀には行かなかったんだな」

 翔也は腫れ物を見るような目で俺を見た。

 コウタの葬儀に行かなかったのは事実だ。行けなかった、の方が正しいのかもしれないが。

 「まぁ、“殺人犯”は行かなくて正解か」

 翔也は俺を茶化すように嫌な笑みを浮かべていた。

 翔也と俺は友人なんて言える関係ではなかった。

 そもそも殺人犯呼ばわりをされている俺と友人でいる人間なんているはずがなかった。

 翔也に限っては誰が何をしようが敵も味方もしない。

 それは俺が殺人犯呼ばわりをされているからという話ではない。

 それが彼のモットーであり、自分を保つための手段だったのだ。

 「汚名を被ったままでいいのかよ」

 翔也はこの件を噂程度にしか知らない。それでも彼自身を守るために俺を気遣う。と言っても俺を良く言う噂はないので結果的に俺の味方をしているような気さえするが。

 「いいんだよ別に」

 投げやりだった。

 第三者がどう思おうが結果は変わらない。それを俺は誰よりも知っているはずだった。

 翔也はそれきり口を開くことなく席に戻った。教室では相変わらず夏休みの予定の話が至るところで繰り広げられている。

 その空気に耐え兼ねた俺は、朝のHRさえ始まっていない教室を荷物を背負って飛び出した。

 正門が見え始めたとき、後ろからはHR開始のチャイムが聞こえてきた。テキトウに校内で時間を潰せる場所を探そうとしていたはずの俺の足は校外に向かって動き続けたままだった。まるで時計の秒針のように止まることを許されないようだった。

 そんな中、突然足がピタリと動きを止める。大通りを抜けて路地を数歩行ったところだ。

 その道は春になると桜の絨毯が敷かれ、木の隙間から差す陽が幻想的な風景を増大させる。思えばよくコウタと歩いた道だった。その頃は桜の面影さえない時期だったけれど。



 高校2年に進級するも、心を閉ざし切っていた俺に声をかけてくれたのがコウタだった。そこから距離を縮めるまでは、そう時間はかからなかった。

 スポーツ万能で成績優秀なコウタが俺の友人であるというのはもったいない。コウタと俺が一緒にいるのを気に食わない人がいたのも事実だ。それを証明するかのように根も葉もない噂が学校中で飛び交っていた。勿論、どれも俺を貶めたいばかりの虚構だった。

 「お前に出会ってからつまらねぇ」

 それがコウタの口癖だった。コウタはお世辞にも人につまらないと言えるような人間ではなかった。俺からすればコウタの方がつまらなかった。スポーツ万能で成績優秀。おまけにクラスメイトからは好かれていて信頼も厚い。そんな全てを手に入れたようなコウタの方がよっぽど。

 けれど、俺はそのつまらなさに魅了されたのだ。彼らしさ求めたところで何もない、それでもどこか目を引いてしまう、そんな彼が心底羨ましかった。

 コウタに出会う前の俺は死んでいた。

 人間は実に愚かだとつくづく思うけれど、それにしても人が死ぬ瞬間は実に滑稽だと思う。ギャンブルで巨額の借金を抱えることになったり、たった一夜の欲で家族を失ったり。俺の場合はどれでもなかったけれど、それでも滑稽だっただろう。

 そんな俺をもう一度生かしてくれたのがコウタだった。

 進みたい道も明日を生きる理由も当時の俺には何もなかった。それでもコウタは真の俺を見つけてくれた。そのおかげで、俺はすっかり存在価値を証明できる人間になった。



 今日はそのまま帰る気にもなれなくて、俺は帰り道にある書店に立ち寄った。周辺で最も大きいこの店は小説や漫画のレパートリーが多い。加えて、新著に合わせて定期的に配置換えがあるので、いつ来ても新鮮な心地がしていた。

 そんなここは俺のお気に入りの場所で、一度だけコウタと来たこともある。

 その時、コウタは入口付近にあるおすすめ書籍の中から迷わず一冊を手に取った。それが、夜々稔の『夜に咲く青』だった。

 それから数か月たった今も、そこには夜々稔のブースがある。

 ブースに見入っていると、白のブラウスにチノパンを履いた男性・本藤さんが俺に近づいて頭を下げる。

 俺も慌てて頭を下げてから、本藤さんに招かれるがまま関係者以外立ち入り禁止の扉を超えた。

 「稔先生、お久しぶりですね」

 「先生なんて、やめてください」

 俺は苦笑いで返す。先生と言われるのはなんだかくすぐったい。

 俺こそが夜々稔であり、そのことを本藤さんは知っていた。そのうえで特設ブースを設置したり、サイン本を置かせてくれたりと良くしてくれていた。

おそらく五十代と思われる本藤さんは第二の父とも呼べてしまうくらい俺の、夜々稔の人生には欠かせない存在だった。

 「ブースに稔くん応援ノートを置いていたんだ。どうしてもこれを渡したくて」

 「もちろん、持って帰らせてください」

 「そう言ってもらえると嬉しいな」

 本藤さんの申し訳なさそうな表情が一瞬にして晴れていく。

 本藤さんは俺の活躍を誰よりも喜んでくれる。

 「追加でサインを書かせてもらってもいいですか?」

 「いいのか?」

 「はい、むしろ書かせてください」

 本藤さんが裏から持ってきた数十冊に淡々とサインを書きながら、俺は自分でもわかるくらいに満足げだった。

 俺の小説を求めてくれている人がいる、それは数年前の俺からは想像もつかないことだったのだ。

 俺が小説を書き始めたのは小説が好きだとか認められたいだとか、そういうのではなかった。

 ただ、“石戸普段”の、父の大切なものを奪うことができれば、それでよかった。

 それで中学2年の春、独学で執筆を始めた。

 それから1年も経たないうちに最優秀賞を受賞した。

 “石戸普段”の息子であることは誰も知らない。俺は父の力を借りることなく、実力だけで高い評価を得て小説家となった。自分でも良くできたシナリオだと思った。

 父は俺が受賞したことを知らない。“普段”の知らぬ間に手も届かないほど上に立って見下げてやりたかった。そうすればきっと父を追い詰められる。

 全てを犠牲にした父の人生の先に俺がいれば、たいそう絶望することだろう、と。

 俺は“普段”の人生を終わらすことができればそれでよかったのだ。

 俺は父を変えてしまった小説が、父よりも憎かったのだ。

 だから、こうして小説に生かされているような今は全く想像できなかった。

 「再来月に新作出るんだっけ?」

 「はい、予定通りにいけば」

 「そっか、楽しみにしてるよ」

 そこでサインを書き終えた俺は本藤さんに時間を割いてもらうのも申し訳なくて、すぐにリュックを背負った。

 「あ、サイン本また減ったら教えてください、書きにくるんで」

 「ありがとう、まあ無理せずにな」

 「はい、じゃあ店内一周して帰ります」

 「ごゆっくりどうぞ、また顔だけでも見せに来て」

 本藤さんは俺を見送ると駆け足で持ち場に戻っていく。

 俺は迷うことなく国内の書籍が置いてあるコーナーに行き、五十音順に並ぶ書籍の中から“石戸普段”の文字を探した。国を代表するミステリー作家の池谷良助だとか最近新人賞を受賞した井坂五郎だとか、著名な作家には名前の書かれたプレートと大量の書籍が並ぶ。その隅に追いやられるように“石戸普段”は辛うじて存在していた。

 それも2冊だけ。人気で品切れなのか不評で入荷していないのか。

 “普段”がこれまで出したのは4冊。人気を獲得したのはうち1冊で、それにしても数が合わない。なにも初めての事ではなかったし、後者であるというのは書店の扱いからしても明らかである。

 俺は地に落ちた“普段”の評価を見て、優越感に浸ることができた。

 と同時に勝手に落ちぶれた“普段”につまらなさも感じるのだった。もう少し接戦ができるものだと、小説を書き始めた頃の俺は思っていた。



 「疑っているつもりはない。ただ事実が知りたいんだ」

 放課後、颯爽と靴箱まで降りてきた俺を担任が呼び止めた。

 クラスで広まったコウタの噂について、真相を聞きたいとのことだった。

 生徒を守るにしても事実かどうか確かめておく必要があったのだろう。

 「殺すわけないじゃないですか。コウタとはただの友人でした、それも唯一の」

 俺は迷うことなく否定する。

 コウタは友人だった。それも、俺にはもったいないくらいの。


 コウタが死んだという実感のないまま、俺は流されるように1週間を過ごした。俺の日々からコウタが消えても日常は淡々と続いた。

 唯一変わったのは俺が学校に行かなくなったことだろうか。はじめのうちは遅刻したり早退したりと俺なりに学校には行っていた。それでも学校に行けばコウタがいないという事実を突きつけられるので次第に教室にすら入れなくなり、そのまま不登校となった。

 とはいえ学校に行っていないことで母に心配かけるのも気が引けるので俺は毎日学校へ行くふりをする。

 それは今日も同じだ。

 制服姿で家を出ると最寄りのコンビニで私服に着替える。それから市営図書館が開くまでの2時間を公園のベンチで過ごすのだ。

平日の朝の公園に人気はない。たまに親子連れが遊びに来ることもあったが、最高気温が30度を超えるとそれもなくなった。

 中には俺を不審に思って公園を変えた人もいるだろうが。

 高校生の俺は公園で遊ぶことはない。ベンチに座って本を読んだり小説を書いたり。俺は俺ながらの過ごし方で、暑さを感じないくらい、自分の世界で生きていた。

 それでもたまに時計を見ては図書館開館までの残り時間を計算して絶望を味わうこともある。

 今日がそうだった。

 メモ帳を開いて風景を描写しながらもすっかり心は俺を離れてしまったみたいだった。今の俺にとっての小説は効率の悪い作業でしかない。

 「もしよければもう少し寄ってもらえませんか?」

 突然左から飛んできた、今にも消えそうなほどか細いその声に俺は小さく頭を下げてから右に寄った。

 顔を上げると、彼女は同年代に見えた。

 ひとつに結われた髪は時折吹く風に煽られるも彼女は全く気にする素振りを見せない。

 彼女は鞄から1冊の小説を取り出すと、俺に構わず読書を始めた。

 俺はその小説の表紙に見覚えがあった。嫌というほど眺めたその表紙を知らないはずがなかった。

 俺の視線は彼女の手元の本で止まったまま、身動きがとれなくなったみたいだ。

 そんな俺に彼女は不思議そうに口を開いた。

 「この本ならさっきそこの本屋で……」

 彼女は俺の右手を指さす。

 その先にある本屋は、いつもお世話になっている本藤さんの勤める書店だった。

 「いや、そうじゃなくてその本……」

 「これなら石戸普段先生の本で……ってもしかして知ってるんですか?」

 彼女は食い気味だった。

 やっと見つけたとでも言いたげな勢いに思わず俺は身体を反らした。

 「まぁ、うん……」

 「そっか、そうですよね、有名ですもんね」

 俺の言い方に彼女は冷静になる。

 「好きなんです、現実を淡々と描く感じとか、希望を持たせない感じとか」

 彼女は“石戸普段”を絶賛する。

 俺は自分でもわかるくらい嫌な顔をしていると思った。あいにく平気な素振りを見せる余裕も持ち合わせていない。

 それで彼女が俺の顔を見てハッとし、同時に眉をひそめた。

 「すみません、有名だからってみんなが好きなわけじゃないですもんね」

 「いや、別に……」

 彼女を横目に、俺は膝の上に合った手帳を両手で覆って隠した。

 それから彼女は気分よく小説を読み始めた。

 世界に引き込まれていくようで、ページをめくる音が人気のない公園に響いた。

 俺の左手の腕時計は午前9時半を示している。図書館の開館時間まで、あと30分もあった。それでもこの場にいるのは気分が悪くて、立ち上がった時だった。

 「まだ図書館空いてないですよ」

 その瞬間、背筋が凍った。

 彼女と俺は今日が初対面のはずだった。しかし、この数日の動きを、少なくとも一日は俺を追いかけていることになる。

 動揺を見せる俺に、彼女は座っているベンチを指さして微笑む。

 「元々ここは私の居場所だったから」

 俺が学校に行かなくなって数日の間、俺は彼女の居場所を奪っていたのだろうか。公共のものだから誰の居場所でもないのだけど、それでも申し訳なさが押し寄せてくる。

 「ごめん……」

 俺の謝罪に彼女は悪戯気に微笑む。数秒前のおっとりとした、怯えるような彼女からの変わりように俺は呆気にとられていた。

 「いいんです……私だけの居場所でもないから」

 この時間に公園に来た辺りで彼女が不登校であることは何となく察しがついていたのだけど、公園が居場所というくらいだから似た境遇なのだろうと彼女に同情した。

 彼女は“石戸普段”の本を閉じ、胸の前で抱えた。

 「あの……朝田彩葉あさだ いろはって言います。君の名前も……いいかな?」

 「……末永夜明すえなが よあけです」

 「夜明くん……綺麗な名前ですね」

 「あ、いや……朝田さんこそ」

 彼女の名前を呼んだ途端、彼女の表情が曇った。彼女が名前を呼ばれ慣れていなかったのか、名前に嫌な思い出があったのか、俺は咄嗟に頭を下げていた。

 「いや、違うんです……私名字苦手で、それで……」

 「あっ……じゃあ、彩葉……」

 俺たちの会話はぎこちないものから始まった。それから少しずつお互いのことを話し、同じ高校に通う同級生だとわかった。高校一年生の1ヵ月で不登校になってしまった彩葉のことを俺は知らず、彩葉も当然俺のことを知らなかった。

 それをちょうどいいと、その時の俺は咄嗟に思った。

 「彩葉……はなんで名字が嫌いなんだ?」

 「再婚相手の名前だから……。名字が変わったばかりで実感が湧かないっていうか私は親だって認めてないから」

 攻めた質問に彩葉は嫌な顔ひとつ見せず応える。彩葉の胸に抱かれたままの本は彩葉の身体にそっと寄り添っていた。

 彩葉の応えに、俺は彩葉に似たところを感じた。家庭環境も境遇だって違うだろうけど、それでも。理由は何であれ俺だってアイツを父親だなんて認めたくない。

 「寄り道して行くわ」

 そう言って俺は彩葉のもとを離れた。都合が悪くなったのもあるけれど、今日知り合ったばかりの彩葉と長時間一緒に居られるほど人付き合いはうまくなかった。

 俺はコウタとだけ一緒に居られた。この先コウタ以上に付き合っていける人はいないのだと、俺はそう思うことで今でもコウタに尽くしていられる気がしていた。

 結局その日は図書館に行かなかった。彩葉と出くわしてしまうのも嫌だったし、そういう気分でもなくなった。それで、図書館近くのネットカフェに身を寄せた。

 リクライニングソファに身体を倒し、本棚から適当に取ってきた漫画を流し見する。第三巻と表紙に書かれてあった。

 目の前にはパソコンがあったけれど、俺は当然書く気にもなれなかった。

 俺の脳内には朝田彩葉と石戸普段がいる。

 彩葉が好きだという“普段”はもう社会から必要とされていないはずだった。勿論好みがあるということは分かっているつもりだ。それでも俺の目の前で“普段”を称えられると胸に来るものがある。

 俺は結局のところ“普段”を超えられなかったのだと、そう思わされるようだった。販売数でも影響力でも、間違いなく俺は“普段”を上回ったというのに。

 


 それから数日、俺はネットカフェと家を行き来する生活をしていた。彩葉を避けるつもりだった。少し家を遅く出て公園の前を通り、彩葉がそこにいるのを確認してからネットカフェに向かう。彩葉が公園に居ればその後辿る道が確定していたからだ。

 ある日、珍しく彩葉は公園におらず、試しに何周か公園を回ってみるも彩葉が姿を現すことはなかった。それで、図書館近くの別の公園で時間を潰してから図書館に入った。

 ここ数日ネットカフェで自堕落な生活をしていたからか、心なしか図書館の椅子が硬くなったような気がする。俺は深く腰を掛けて持ってきたパソコンを立ち上げる。

数日前に設定を詰め終えたのを最後に手を付けていなかった新作の内容を俺はひとつも覚えていない。たしか人間関係が崩壊する様を描くとか何とか。

 思い出しながら設定を詰めていると、俺の右後ろから気配がする。

 俺が振り返ろうとパソコンから目を離した瞬間、聞き覚えのある声がした。

 「小説?」

 「っ……」

 そこには白のワンピースを着た彩葉が数冊の本を抱えて立っていた。

 彩葉は画面をじっと見たまま、ゆっくりと口角を上げる。

 「あんま覗くなよ」

 彩葉は申し訳なさそうな顔をして顔の前で手を合わせた。それから周りを人が歩いていないのを確認して俺の耳に近づいた。

 「実は私も……」

 言い終えると彩葉は席を探しに歩き出した。

 そこに俺が聞き返す時間などなかった。

 それからの俺は彩葉を忘れようと画面に向き合い続けた。原稿は進んでは消してを繰り返したために全く進んだ気がしない。

 一瞬の出来事で俺は何も返せなかったけれど、小説を書いていることに気付かれてしまったことが今になって恥ずかしく思えた。隠す理由はなかったけれど、それでもこれまで誰にも言わなかったことだった。

 それで、彩葉と話すためにお腹が空いたという理由を作って彩葉をロビーに呼び出した。

 彩葉は突然の俺からの呼び出しにも驚くことはなく、誘いを快諾してくれた。

 「びっくりだよ、夜明くんも小説書いてたんだね」

 「それはこっち台詞でもある」

 「私ね、この作品が憧れで、それがきっかけだった」

 彩葉は机上の『雨上がりドロップ』を指さす。これは“石戸普段”の2作目であり、これこそが一発屋と化した元凶でもある。そんな作品に憧れる人間など、俺の嘲笑の対象でしかない。

 「読むなら貸すよ、ここの図書館にはないみたいだし」

 「必要ないよ、だいたいこの作品は不評だっただろ。図書館にないものそういうことだ」

 俺は容赦なく彩葉を否定するようなことを言った。“普段”に熱いファンがいることを、俺は認めたくなかったのだ。

 俺の攻撃的な物言いにも彩葉は怒りを見せるどころか冷静に俺の目を見た。

 「世間的にはそうかもね。でも、私にはこの作品がずっと輝いて見えたから」

 “普段”を語る表情には到底思えなかった。

 2作目の『雨上がりドロップ』は名前こそ青春や恋愛を描いていそうな爽やかなものだけれど、内容は正反対だ。たしか絶望は突き詰めれば転機になると言いつつ、更生を願う主人公の行き過ぎた行動によって周囲を絶望に巻き込む話だったような。

 俺はそういう“普段”が嫌いだった。この世の全てを否定しつくしてしまう、まるで生きていることが罪だと言わんとする“普段”の作品が。

 そんな俺に構うことなく彩葉は6個入りのレーズンパンをかじる。彩葉の生きる意味になれてしまう“普段”が恐ろしいとも思った。

 それからの俺らは一言も発することなく昼食を取り、何事もなかったように別々に席に戻った。

 その日帰宅するとリビングで夕飯の支度をしていた母に呼び止められた。こうして言葉を交わすのはコウタの葬式があった日以来だ。その時は出席を促す母の言葉を俺は聞こえないふりをしていた。

 「ねぇ夜明。学校に行ってないの?」

 母は眉毛を寄せて俺を見る。いつもの穏やかな口調のままだ。呆れたような口調ではなかったのが余計に苦しい。

 「苦しいなら転校してもいい。だからせめて……」

 「わかってるから」

 母はせめて高校を卒業してほしいと言いたかったのだろう。その言葉を適当な相槌で遮る。

 俺がリビングを出ようとしたところにコーヒーを淹れに来た父と顔を合わせてしまう。搔きむしって絡み合った白髪交じりの髪のせいで年齢よりも年老いて見える。

 「いつまで引きずるんだ、情けない」

 父は俺に一目もくれず、冷蔵庫を開ける。今の父には感情のひとつもない。父にとっての死は日常なのだから。

 俺は父の言葉が頭に来たけれど言い返すことはできなかった。言い返したところで父が変わらないことを俺は嫌というほど知っていた。

 限界を迎える前に俺はリビングを飛び出し、自室に戻る。

 俺に不登校という自覚はある。しかし、俺がもう一度学校へ行くためにはコウタを受け入れなければならないというのが難点だった。学校へ行かなくなってから、その瞬間だけがコウタのことを少しばかり忘れられた。別に忘れたかったわけでもないけれど、コウタがどこかでまだ生きているのだと、そう思いたかった。コウタは俺の人生の全てだったのかもしれない。

 コウタがこんな俺を見れば「不気味でつまらない」と言うだろうけど。



 翌日も調べ物のために夕方図書館に行くと彩葉が夜々稔の本を手にしているところが見えた。俺は彩葉に気付かれないように大急ぎで本を借りて図書館を後にした。

 けれど、2日後には道端で会ってしまい、俺らは初めて会ったあの公園のベンチにいた。久しぶりに彩葉に向き合うと、この数日で彩葉は少しばかりやつれたように見えた。目の下のクマは濃さを増し、顔も一回り小さくなって見える。それなのに俺は俺が夜々稔だと気付かれていないかを一番気にしながら彩葉の言葉を待っていた。

 「ねぇ、夜明くんはどんな作品を描いてるの?」

 「俺は人間模様かな」

 当たり障りのない解答をした。俺が夜々稔だと気づかれてしまうと厄介だった。特に石戸普段が好きな彩葉には。

 「いいね、人間模様……」

 「そうか?」

 「私には書けないことだから」

 そういう俺の隣には眉をひそめた彩葉の姿があった。俺は平日の昼間に俺たちが会っているという異常性に今になって気付いた。

 「別に、書きたいことを書けばいいと思うけど。そういう彩葉はどんな作品書いてんだ?」

 「私は動物とか自然とか……小説っていうよりはエッセイなのかな。見たものを描いてるよ」

 「そうか、それもいいな」

 俺にはできないことだったからむしろ羨ましいとさえ思った。

 「ねぇ、彩田あさって知ってる?」

 「あぁ」

 彩田あさ。それは確か同世代で数年前に新人賞を受賞していた。

 1作目の『それでも春を駆ける』は俺も読んだことがある。自然描写に長けてるなと思ったし、ライバルにでもなるんだろうと思った。1作目はヒットしていたけれど、それ以来活躍しているという話を聞いたことがない。彩葉は一発屋が好きなのかと、そう言いかけたときだった。

 「それ、私なの。今となってはもう誰からも必要とはされてないんだけど」

 彩葉が彩田あさだということは正直どうでもよかった。それは彩田あさが一発屋だからではなく、彩葉が誰であれ俺に関係のない話だったからだ。俺はあの石戸普段さえ超えられれば他人に興味なんてない。

「それもあって名字が嫌なんだよね。朝田って人と再婚しちゃったせいでペンネームの意味なし!」

 彩葉は俺に構わず早口で続ける。彩葉にとって勇気のいる告白だったということだろうか。俺は彩葉の告白をただ聞いていることしかできなかった。

 「こんな私だけど、これからも一緒に居てくれないかな?」

 突然だった。それでも彩葉が本気だということは真っ直ぐな目を見ればわかった。俺は彩葉の誘いを面倒だと思いながらも断れなかった。

 何となく、今俺が彩葉の手を放してしまえば、俺はまた同じ後悔をしてしまう気がした。こういう時に限ってコウタの存在が頭をよぎるのだ。

 「いいけど……」

 「よかった」

 彩葉はそっと微笑むくらいで大きく感情を表現することはなかった。

 俺は彩葉といるといつも俺らしくない選択をしてしまう。

 流れのまま彩葉といることを選らんだはいいものの、俺の脳には常にコウタが住み着くようになった。人懐っこいコウタの柔らかな表情、皆を虜にする甘い声。そして、俺を「つまらない」というコウタの姿が。

 俺は図書館で新作を書き、近くの席には彩葉がいる。それが俺の日課になった。

 まるでコウタが横にいると錯覚するほど、俺はコウタを想っていた。

 コウタがどんな経緯であの選択をしたのか。どうすればコウタの〝殺人犯〟を逃れられたか。コウタのことを考えるふりをして、俺は俺から逃げる方法を探していたのかもしれない。

 息抜きに席を立ったところで向かいから見慣れた制服姿の翔也が俺を見つけて近づいてきた。今日は水曜日。翔也は学校のはずだった。

 炎天下を自転車漕いで来たはずの翔也はひとつも汗をかいておらず、爽やかな表情をしていた。久しく会う翔也は元気そうだった。きっと何も変わってない。そう思った。

 「ここで目撃情報あったから」

 「暇かよ」

 「まぁ俺は一般人だし」

 俺は翔也の言葉に笑い、そんな俺を見て翔也も微笑んだ。それから俺らはロビーに移動してソファに腰を下ろした。

 「なぁ、もうみんなコウタのこと忘れてんのか?」

 「忘れてるよ。席もないし話題に上がることもない」

 「そんなもんだよな」

 俺はこの世界というものを腹立たしく思った。それでも、それが正しいと思うしかなかった。今という瞬間は生きているもののためにあるのだと、どこかで気づいていたのだと思う。足掻いてもどうしようもないということをここ数日不登校になって気づかされた。

 「もう学校来ないのか?」

 「どうすっかな……」

 コウタがいない学校に行く理由はなかった。それでも逃げ続けられないということは明らかだった。俺は明日を、これからを生きなければならない。そのためには学校をどうするにしてもこれからの道を決めなければならない。

 「いつでも相談乗るから呼んでくれ。俺が味方ってこと、忘れんな」

 「でもそれ……」

 敵も味方もしないことが自分を保つ手段だった翔也からは考えられないことだった。生き方を変えるのは容易ではないし、翔也にとって最も重要なことだっただけに、返す言葉が見つからなかった。

 俺を探しに来たのも、昔の翔也からは考えられないことだ。

 「別にこれまでの生き方を捨てたわけじゃない。ただ、今は自分らしくない生き方でも後悔のない選択をしようって、それだけ」

 翔也の言葉には覚悟が見えた。翔也は確かコウタとよく話していた。彼の生き方からするにコウタと翔也の関係は俺にはわからないけれど、それでもコウタの死が翔也を変えたのだと、なんとなく察しがついた。

 「俺……コウタが死んだとき、悔しかった。もっと関わっておけばって思って。友達でもなんでもなかったと思うけど、それでも悔しかったからさ」

 翔也は目を潤ませ、上を向いた。初めて見る翔也の涙だった。

 「だからさ、夜明も後悔のない選択をしろよ」

 翔也は震える声で俺に言う。

 覚悟を決めた翔也は俺よりずっと先を歩いていて、堂々としていた。

 「それと、一緒に居たのは朝田彩葉だろ?今あいつを守れるのは夜明だけみたいだな」

 俺は翔也が去った後もしばらくロビーで時間が経つのを待った。

 当分学校に行けていない彩葉のことを、翔也は知っていた。そして、彩葉の過去を知ったような物言いだった。

 彩葉は高校入学後一ヵ月間学校へ行っていたし、高校以前の過去を知らないので二人の関係を不思議に思う必要もない。

 それより、俺は彩葉のことを託されたことが気がかりだった。俺は彩葉を守れるほど立派な人間ではない。

というより誰かの人生まで背負って守り切れなかったら……。

 実際いつも近くにいたコウタでさえ救うことができなかった俺が、殺人犯の俺が、誰かに手を差し伸べて良い人間ではななかった。

 「誰かと会ってたの?」

 俺が戻らないのを心配したのか、彩葉がわざわざ声を掛けてくれる。本当はひとりになりたかったけど、俺はそれを言っていい人間でもなかった。

 「クラスメイトとちょっとな」

 「へぇ……クラスメイト……」

 「友達とか、別にそういうんじゃないよ」

 「そっか……。ねぇ、不登校の理由、聞いてもいい?」

 「別に、大したもんじゃないし」

 「それでもいいの。もっと知りたいって、それだけ」

 食い気味の彼女に引き下がることもできず、俺はコウタの死を理由に不登校になったのだと告げた。彩葉は話を聞き終えた後も神妙な面持ちで少し先を見ていた。

 「それで夜明くんが学校に行かないのは違うよ」

 彩葉は珍しく俺の考えに否定的だった。多分、この時が初めてだった。

 俺は俺で不登校の彩葉が何を言っているんだと思った。俺が言えたことでもないけれど、彩葉はもっと言えない立場なのだ。

 「コウタくんを誰よりも思っているふりして逃げてるんだよね」

 「あのさ、彩葉にコウタの何が分かるんだ?そういう彩葉だって同じだろ」

 彩葉の話になった途端、彩葉は口を噤んだまま。

 俺はこの機会を逃すまいと続ける。

 「俺はこの生活がしたかった。今なら全てを手に入れられるんだ。それで君は何を手に入れたって言うんだ?君こそただの不登校だろ」

 彩葉の物言いが頭にきて、俺はこの際だから突き放してしまえばいいと思った。

 彩葉とは少し前に出会っただけ、ただ学校に行かないもの同士で、別に俺たちが離れようがお互いにデメリットひとつないのだ。

 俺は突き放したつもりだったけれど、彩葉にはひとつも応えていないようだ。

 それどころか何かを言いだそうと大きく息を吸っている。

 「そういう君だって結局はお父さんを、石戸普段を超えることはできない」

 「今なんて……?」

 衝動的に聞き返した。彩葉の口から、出るはずのない言葉だった。

 「わかってたよ、夜明くんが石戸普段の息子で夜々稔ってこと」

 彩葉はとどめをさすかのように続ける。

 そこには俺が口を挟む隙もないくらい、彩葉は止まることを知らなかった。

 「誰にでもわかるよ。露骨に嫌ってる言い方だったから。でも残念だね。君は超えたかったみたいだけど、現時点じゃ超えられそうにない」

 「いや、俺は超えたんだ。販売数も知名度も、アイツとは比べ物にならないくらい」

 「それは数字の話でしょ。私が言いたいのはそういうことじゃない」

 「じゃあなんだよ」

 彩葉は俺の痛いところを刺しているとは思えないくらいに穏やかな口調だった。それが余計に俺を苦しめる。明らかに下に見られているのも気に喰わなかった。

 確かに俺はアイツを超えた。それなのにこれまでの日々が無駄だったみたいな言い方に、俺の全てを否定された気がした。

 「ちっとも楽しそうじゃ……」

 「そういう君だって一発屋じゃないか」

 彩葉に被せるように言った。この時、俺はこれまで避けてきた領域に足を踏み入れた。彩葉が気にしているであろう過去に。

そうして仕返しをしてやろうと思った。けれど、彩葉は表情ひとつ変えることなく俺を見た。

 「一発屋が全員不幸だと思ったら大間違い。そりゃ君のお父さんはそうかもしれないね。でも、私は一発当たっただけで満足なんだよ」

 「綺麗事だろ」

 「それでもいいの。綺麗事が最後の望みだってこともあるんだよ……私はもう長く生きるつもりはない」

 彼女の言葉に俺は言葉を失った。一発当たって死を選ぼうとするなんて、俺にはわかりっこない思考だった。一発当てられる力があるなら、夢に縋ってみればいいのになんてことを思う。

 「私はね、死ぬために書き続けてるの。どうせならもう一度、楽しく作品を送り出して死にたいって」

 「滅茶苦茶だな」

 「そうかな?どうせなら一番幸せな状態で最期を迎えたいって、そう思うのも何ら可笑しな感情じゃないと思うけど」

 「なんだよそれ、幸せに死ぬために努力すんのか?普通そういうの全部嫌になって死ぬんだろ」

 彩葉は鼻で笑って俺を見る。

 「どん底にいればすぐに死ねるっていうのは安直だね」

 彩葉は不気味な笑みを浮かべる。不思議と彼女は幸せそうに見えた。それでも俺には死を選ぶことが正解だとは思えなかった。

 コウタもこんな気持ちだったのだろうか。

いつからか彩葉とコウタが重なって見えるようになった。

 「夜明くんって鈍感だね、だからコウタくんの変化にも気づけなかった」

 「それは関係ないだろ、コウタは自殺だったんだ。理由なんてない」

 「この世に理由のない死なんてない。君はもう少し自分の当たり前を疑うべきだよ」

 彩葉にコウタの何が分かるんだと思った。

 けれど、コウタがただの自殺だと、口にしてその言葉の重大さを実感した。

 今のコウタに近いのはきっと彩葉だ。コウタのことを誰もわからないとしても、確実に今の俺よりもコウタのことが分かる。

 「確かに君の作品はつまらない。でも、それは初期の話」

 はじめは復讐したいという気持ちだけで執筆していた。多分、彩葉はその時期の話をしている。そして今は違っているということでもある。褒められてはいるのだろうと思ったけど、あまり気持ちの良い話ではなかった。

 「石戸普段と夜々稔って結構似てるんだ、全てを悲観してるところとか」

 「なんか嫌だな、違うところないのかよ」

 「それならね、ちょっとだけ希望があるのが夜々稔かな」

 俺にはわかりっこなかった。それでも石戸普段のファンが言うのだから強ち間違いでもないのかと受け入れるしかなかった。

 「でもさ、それで俺の作品がつまらないなら、彩葉にとって救いがない方が良いってことにならないか?」

 「そこは好みの話だからね。それにね、私はつまらないとは言ったけど嫌いとは言ってない」

 「でもそういうことだろ、つまらないってさ」

 俺が捻くれたように言うと、彩葉は笑いながら「やっぱりつまんないね」と溢す。

 俺にはそれが小馬鹿にしているようにしか思えなかった。

 嫌というほど聞いた言葉の理由もわからないまま、それを俺は何よりも嫌だと思った。

 「コウタさんがつまらないって言ったのもものすごくわかる」

 彩葉にコウタの何が分かるんだと言いたかったけれど、言えるほど俺はコウタのことを知らない。咄嗟に言葉を飲み込み、彩葉を見た。

 「確かに小説を書く力はある。でも、見えてこないんだ。主人公の気持ちも作者の気持ちも」

 「それでもいいだろ、それを求めてる人がいて俺は人気作家になったんだ」

 「うん、読者は嬉しいと思うよ。でも、夜明くんが苦しそうだから。少なくとも私はそう思った」

 胸の奥に言葉が鋭く刺さる。

 言い返したかった。評価が全てだと。彩葉自身も評価を求めているだろと。

 それでも言葉は喉元でつっかえたまま、無意識のうちに俺は彩葉の次の言葉を待っていた。

 「夜明くんはちっともつまらなくない。それに、もっと自分を出していいと思うの。君の何がそうさせているかは私にはわからないけれど素の夜明くんを、

 "夜々稔"を好きでいる自信があるって。私がコウタさんの立場なら、そういう意味でつまらないって言ってたかな」

 その瞬間、俺の頬を一滴の涙が滑り落ちていく。俺でさえ涙の理由もわからない。

 けれど、一瞬にして何かしらの肩の荷が下りたのだと、それだけは分かった。

 「一度手くらい合わせに行けば?どうせ暇でしょ」

 不思議なくらい、その言い方に嫌味はなかった。



 彩葉に言われた通り、翌日にはコウタの家を訪ねていた。

 チャイムを押すとお母さんらしき女性が制服姿の俺を快く迎え入れてくれた。

 面識はなかったけれど、制服で全てを理解したようだ。

 お母さんは「こんなものしかないけど」と突然訪ねた俺にお茶と和菓子を出してくれた。

 ひとまず棚に置かれたコウタの遺影に頭を下げる。それでも実感は追いついていなかった。死んだという事実だけが淡々と俺に突きつけられている。

 「コウタも喜んでると思うよ」

 「でも、俺は通夜にも葬式にも……」

 俺はコウタを喜ばせられないはずだ。式に出席してコウタを送り出すという最低限のこともできなかったのだ。それにコウタはまだどこかで生きているのだと、そう信じてしまっていたのだから。

 「いいの、無理してみんなに合わせる必要はないからね」

 おばさんの優しさは苦しいくらいに温かかった。

 俺は一層惨めに思えた。コウタの死から逃げることで誰よりもコウタを想った気になっていた。俺はコウタのことも何もわかっていなかったのかもしれない。

 「夜明くんなんでしょ?夜々稔って」

 「え……」

 「遺品整理をしていたら唯一出てきた小説でね。あの子、小説はまったく読まない子だったから驚いたわ」

 「それでね、ふとコウタとの会話を思い出したの。君のことをね、つまんないって。でもそのつまらなさがいいんだって。あの時の私にはさっぱりわからなかったけど」

 つまらないと言われて聞き流していた俺が、今はその言葉に飢えていた。

 必死にこらえていた涙も、今や止まることを知らない。

 ここがコウタの実家なんてことを忘れて、俺の頭の中はコウタとの日々でいっぱいになる。

 やっと涙が止まったとき、俺は家に帰ることを決めた。おばさんは俺を玄関まで見送りに出てくれた。

「あの……俺はつまらないですか?」

 靴を履き終えておばさんに向き合うと咄嗟にあの言葉を発していた。

「そんなことないわ、私もコウタも夜々稔のファンだったんだから」

 俺はその場に崩れ落ち、おいおい泣いた。

 それからのことは記憶にない。気づけば図書館近くのネットカフェにいて、パソコンに文字を打ち込んでいた。

 そういえば初めて彩葉と出会った日も俺はこのネカフェで小説を書いていた。前回は彩葉からの逃げ場として過ごしていたけれど、 今となっては、彩葉から逃げるふりをして過去の自分から逃げていたのだとわかる。

 勿論、今回は漫画に逃げることもない。

 あれから数日、俺は俺の知らないところに来てしまった。

 前回と違うのは、今日は新作を書き始めたということだ。それも、この作品が世に出ることはきっとない。俺は俺の趣味で新作を書くのだ。

 こんなことはこれまで一度もなかった。

 元はといえば小説は“石戸普段”を超えるための道具に過ぎなかった。それなのに今は自らの意思で小説を書いている。俺さえ理解に苦しむものだった。

 ドリンクバーで紙コップに烏龍茶を注ぎながら、アイデアを膨らませていく。俺の頭の中は注がれる液体よりも速く脳内で文章化されていく。複数のアイデアがひとつになるとき、俺は満たされて仕方がない。

 席に戻るとすぐさま俺はパソコンに本文を書き始めた。アイデアは止まることを知らなかった。

 次の作品は同性の友情をテーマにしてみよう。これまでとは一味違う、思ったことをただひたすら書くだけの作品に。

そして、次こそ本当の意味で石戸普段を超えてやるんだと、俺は次の作品に人生を懸けることにした。



 不登校のまま夏休みを迎えていたらしい俺は、夏休みが明けると同時に学校へ行くようになった。相変わらず遅れて行ったり、行かない日もあったりしたけど、それでも着実に前に進んでいた。

授業中はノートの隅に小説を書いた。俺には書く理由があった。

 放課後は決まって図書館へ行き、彩葉と小説を書いた。いくら翔也の助言とはいえ、俺が彩葉を守る資格はない。だからせめて気にかけておいて万が一の時には誰かに引き継げるくらいには彩葉と居ようと思った。

 そんなことを知らない彩葉はいつも窓際の席で小説を書いていた。

これが幸せに死ぬための行動だなんて俺には到底思えなかったけれど、それを否定することも違う気がして口に出せなかった。

 あれから彩田あさの『それでも朝を駆ける』を買って読んだ。

 2回目だった。2回目でも彩田あさの描写は美しかった。俺では見過ごしてしまうような、細部までこだわり抜かれた描写に、俺は彩田あさに、彩葉に、小説を書き続けてほしいと思った。

 今日の放課後、それを伝えよう。

 購買で買った焼きそばパンをようやく食べ終えたところで翔也が俺に駆け寄ってきた。

 「これって朝田彩葉じゃないか?」

 翔也は俺にスマートフォンの画面を見せる。それは地元の新聞社が出した速報記事で、市内の高校に通う十七歳の女子生徒が事故に遭ったということだった。

写真は公園から図書館へ向かう途中の交差点。俺はこれが彩葉だという確信があった。

 それから俺はこれから授業があることなんて考えず、リュックを背負って教室を出た。

 近くの大きな病院はひとつ。俺は確信のないまま病院へ走った。

 彩葉の言っていた小説を書く理由からすれば、あと一発当たった場合自殺する可能性があったからだ。

俺にとっての彩葉は別に友達でもライバルでもなんでもない。ただ不登校で少しだけ時間を共にしたくらい。

 それでも俺は走っていた。コウタの死みたいに、俺はもう後悔したくなかった。

 俺に彩葉を守る力はない。それでも俺は彩葉を救いたいと、そう思った。

 だから生きてほしい、生き続けてほしい。今はもうそれだけが俺を走らせていた。

 病院に着くと、受付や待合を探した。彩葉がここにいる確証はない。それでも俺はここを探すことしかできなかった。

 どこにも彩葉の姿はない。息が早くなり、足も絡まりかけたその時だった。俺の少し先を車椅子に乗った女性が通り過ぎて行く。彩葉だ。

「彩葉!」

 俺が駆け寄ると彩葉の車椅子を押していた女性が困惑した表情で俺を見た。

「何か勘違いしてない?ちょっと怖いよ」

「ごめん、でもほら、事故ってその……」

「それなら私は巻き込まれただけ。頭打ったから念のため検査してもらってるの」

 俺はその場に崩れ落ちた。彩葉が無事で、それも自殺未遂ではなくて本当によかった。

 取り乱した俺を彩葉は不安に思ったのか、「ちょっとここで待ってて」と言い残して診察室に入っていった。

 俺はロビーの椅子に座って頭を抱える。自分の情けなさに呆れた。公共の場で取り乱してしまったことも、彩葉に冷たく当たっていたことも。

 俺は彩葉を何とも思っていなかったのではない。きっと彩葉に入れ込みすぎることで彩葉とコウタを重ねてしまうことも、コウタから逃げてきた自分を痛感するのが嫌だったのだ。

 俺はコウタの死から何も得られていない。

 それどころか今更コウタと向き合うふりをして自分が正しかったと、肯定する何かが欲しかったのだ。俺は自分の事ばかりを考えていた。こんな俺は父と同じではないか。

 「わざわざありがとう……私、嬉しかった。不謹慎だけど、嬉しかった」

 彩葉は身体に何も異常がなかったようで、とりあえず帰宅することになったらしい。情けない俺にも彩葉は微笑んで見せた。

 「それにね、私はまだ大丈夫。最高な瞬間は当分来そうにないから」

 そう言いながら苦しそうだった。

 「新作の調子はどう?いい感じ?」

 「まぁ、たぶん……つまらなくはないと思う」

 「じゃあ安心だ」

 つまらなくない。その言葉は俺たちの間では何よりの誉め言葉になった。

 「作品、一番に私に見せてね。ほら、石戸普段に似ちゃったら私が止めに入る」

 理由が彩葉らしい。言わなくたって見せると言いたかった。お世辞なく俺の作品を見てくれるのは今のところ彩葉だけだから。

 そんな俺には気がかりなことがひとつある。

 それは、彩葉が大作を世に送りだした後の話だ。俺はそれに気づかないかもしれない。俺が気づく前に彩葉は人生を終わらせてしまうかもしれない。

 俺はもうコウタが死んだときのような思いを、いや、彩葉には生きて描き続けてほしい。描けなくてもそこにいるだけでいい。

 「なぁ、まだ死なねぇよな」

 「しばらくは一発当てられそうにないよね」

 「生きろよ……俺が彩葉を生かしてやる」

 「なにそれ告白?」

 「違ぇよ……ほら、俺が彩葉に最高の景色を見せ続けるって意味だろ……」

 「わかるわけないよ……でも、ありがとう。いったん気持ちだけ」

 生きるか死ぬか。それを簡単に人に託せないよなとは思った。

それでも俺はわずかな確率に懸けてみたいと思った。彩葉には生きていてほしいと思ったから。

 「夜明くんが証明してみせてよ、そしたら考える」

 彩葉は俺を試すように笑いながら言う。それに素早く頷いてから彩葉をまっすぐ見た。

 俺にもう迷いはない。それを証明するかのように、俺らは不器用ながらに明日に足を進めなければならない。



 それから数日で作品は完成した。我ながら過去最高の出来栄えだと思った。

 この作品の今後は不明だ。それでもこの作品が夜々稔の第二の作家人生のスタートを切るにふさわしいものであることは明白だった。

 もうすぐ新作も世に出る。俺はこれからも作品を書き続けなければならない。もう小説を道具だなんて思うのもやめだ。

 俺はお茶を取りにリビングへ向かおうと部屋を出た。

 廊下からは香ばしい匂いがして、隣の部屋の前には父がマグカップを持って立っていた。

 父の左手には俺の、『夜に咲く青』がある。俺は久しぶりに父の目をまっすぐ見た。吊り上がっていたはずの父の目は少しだけゆるやかになったように見える。

 「俺に似るなよ」

 『夜に咲く青』を読んだであろう父は隠し事をしていた俺を軽蔑することなく、むしろ息子の活躍を誇らしげに思ってくれているようだった。幼稚なのは俺だけだった。

 「似たくねぇよ」

 俺はそう返してから部屋に戻った。

 それからすぐに彩葉に連絡をしようと思ったところで連絡先を持っていないことを思い出す。あれだけ会っていたというのに連絡先がないというのが、俺たちが友達でなかった何よりの証拠に思えた。

 仕方なく彩田あさのSNSを探してからDMを送った。

 その数分後、俺たちは初めて会ったあの公園のベンチで落ち合った。

 あれから数か月が経過している。

 それでも俺たちは、俺たちの関係はきっと何も変わっていない。

 「石戸普段ってそんなに良いのか?」

 「良いけど……って和解したんだね」

 「和解も何も俺が幼稚だっただけだから」

 その言葉に彩葉はようやく気付いたかと言いたげな笑みを浮かべる。

 「いいだろ、別に」

 「いいよ」

 彩葉は鞄から1冊の本を取り出す。それは石戸普段の『雨上がりドロップ』だった。

 「これ貸すよ、その代わり感想教えてね」

 「ありがとう」

 「でもさ、直接お父さんに借りたらいいんじゃない?持ってるでしょ」

 「それはまた違うだろ……違うっていうかその、アレだろ」

 「素直じゃないんだから」

 「そういえばできたよ、新作」

 俺は新作が入ったUSBを彩葉に手渡す。彩葉は両手でそれを握り、目を瞑る。

 「……夜々稔の作品も好きだよ」

 わざと小声で溢した彩葉の言葉が辛うじて俺の耳に届く。

 「もっとはっきり言ってくれてもいいだろ」

 「……別に!」

 「それなら俺も彩田あさの描写が好きだ」

 「〝それなら〟ってそれは失礼じゃない?」

 彩葉は俺を試すような笑みを浮かべる。俺のその言い方が不本意だってことを分かったうえで。

 思えば彩葉は少しばかり笑顔が増えた。それは多分、彩葉の中でも小説の存在が変化してきたからなのだと、そう思いたい。

 「ねぇ、これからコウタさんのお墓参りに行こうよ。この作品を見せるべきはコウタさんでしょ」

 「そうだな。あと、それ失くすなよ」

 「もちろん、大切なものだからコピーしてでも取っておくよ」

 「それは恥ずかしいだろ、それなら返せ」

 「嫌だね、このままコンビニに行くよ!」

 彩葉はベンチを立ち、公園の出口に速足で向かっていく。

 俺も彩葉から借りた『雨上がりドロップ』を手に彩葉の後を追う。

 今だけは、必ず夜明けは来ると、そう信じられる気がした。

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恍惚の朝焼け 透夜珀玖 @ink__hk

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