義兄が堕ちた日
今日はアザル公爵家の兄妹が初めてのお茶会を行う日だ。
私は、白薔薇の見える庭で、義兄のために手作りのお菓子とおいしい紅茶をふるまおうと思っていた。
だって義兄は常に寝不足のような疲れた顔をしているし、いつ見ても食事をしている気配がない。おそらく食事の時間を削って公務を行っているのだろうが、それではいつか倒れてしまうだろう。元社畜OLとして、それだけはわかる。
そこで調理場の料理長を説得し、自ら焼き菓子を作って紅茶を入れて義兄をもてなすことにしたのだ。菓子、と言っても、人参やかぼちゃなど甘めの野菜をふんだんに使ったフィナンシェのようなもので、栄養価の高いものになっている。さしづめ、この世界の携帯栄養食とでも言うべきか……
「お
「ありがたい申し出ではあるが、我々貴族は、毒見が済んだもの以外を口にする機会はない」
「毒見は済んでおります。あなた様の
深く美しい藤色の隣で、翠の髪の騎士がわずかに頷く。
「
そう言ってエルヴィンが菓子に手をのばした瞬間、遠く、木立の影から金属の閃光が走るのが見えた。
「あぶない!」
刃物だ!反射的に立ち上がり、目の前のエルヴィンを突き飛ばす。細い刃が私の肩をかすめ、背後の柱に突き刺さった。テーブルに置かれていたカップは落ちて砕け、紅茶の香りが立ち上る。
「アリア!」
低く抑えた声の中に、初めて焦りが滲む。エルヴィンは瞬時に木立の影に向け、片手を掲げた。その掌から冷気が走り、庭の一角に潜んでいた影が動きを止めた。
これが、氷刃公の氷の魔術なんだ。静かな恐ろしさと同時に、美しさに息を呑む。
「なぜ庇った」
エルヴィンの声は戸惑いにも似ていた。
「だって…死んでしまうと思ったから」
自分でも馬鹿みたいな返事だと思ったけど、なぜだかとっさに体が動いてしまったのだ。それに、あなたが死んだら私のスローライフが台無しなんです。だから、ここで死なれちゃ困るんです。バッドエンドをなんとしても、回避しないといけないのよ。
ほっとして、ようやく強い痛みがあることに気づく。左肩から真っ赤な血が流れ、淡い藤色のドレスを鮮やかに染めているのが見えた。なんてこった、重傷じゃないですか。
「アリア!」
どこかで私を呼ぶ声がする。大丈夫ですよ。そんなに心配しなくても。元社畜なんで、根性だけはありますので。そう言いたくても唇が、動かない。
私はゆっくりと自分の意識を手放した――
◇◇◇
エルヴィンを庇って大怪我をした私は、なんと1か月近く寝込んでいたらしい。
傷自体はその場でエルヴィンが魔術で直してくれたものの、心理的なショックなのか、目を覚まさない状態が続いたという。サラサが言うには、その間何度もエルヴィンが私の部屋を尋ねて来ていたんだとか。
目が覚めたときに義兄が私の手を握っていたのはそういうことなのね。ものすごくびっくりしたけど、やはり、公爵家の当主として屋敷の安全管理に不備があったことに責任を感じていたってことなんだろうな。ちなみに、暗殺未遂は、公爵家と敵対するどこかの貴族が計画したものだったらしい。エルヴィンに聞いてもいまいち教えてくれなかったけど……。
でも、本当に驚いたのは回復して、歩けるようになってからだった。
あの塩対応だったエルヴィン公爵様が、なんと毎日のようにお見舞いにきてくれて「庭に咲いていた白ユリだ」だの「異国から取り寄せた菓子だ」だの「今日は体調もよさそうだから、外の空気にあたりにいくのはどうだ?」だの…それはそれは、かいがいしくお世話を焼いてくれたのだ。
週一回程度の予定だったお茶会もエルヴィンの要望で徐々に増えていき、今では週三回。領地経営や公爵としてのつとめは大丈夫なのかと心配になるほどの頻度で行われている。
エルヴィンはお茶会のたびに、傷の調子はどうだ?ほしいものはないか?困っていることはないかと聞いてくるけど、お願いを聞いてもらうと後が怖そうなので「私の願いはお義兄様が健やかに過ごされることです」と毎回答えることにしている。そうすると、なぜかいつも義兄は私から目をそらしてしまうんだけど、もしかして、いつも答えをはぐらかす私に怒ってるのだろうか。
◇◇◇
「アリア、前回の話で隣国であるセレスティア神聖国と我が帝国の関係はどのようなものだと伝えていたかな?」
「はい、お義兄様。エリドゥ帝国とセレスティア神聖国は、同じ聖女オリアを信仰する国でありながら、国交は盛んではありません。きっかけは300年前に聖女様をめぐっておこった聖戦だといわれています」
「そのとおりだ。アリア。お前はまったく素晴らしい記憶力の持ち主だな。心根が優しいだけでなく、聡明でもあるとは」
今日はこの週、3度目となるお茶会だ。
この広い
「お義兄様、お願いですから、もう少し離れてくださいませんか」
「アリア、我らはたった二人の兄妹だ。家族が互いを大切にすることは当たり前のことだろう」
エルヴィンは私の手をとり、まるで懇願するかのように私の瞳を見つめる。う~ん。何か悪いものでも食べちゃったのかな。初日の態度と全然違うんだけど……それとも貴族の家族って、これが普通なのかな。
思わず彼を見つめ返すと、その美しい瞳に吸い込まれていきそうだ。ようく見てみると義兄の瞳はまるで夜空に星が散っているようだと気づく。
「お義兄様の瞳って、まるで星空のよう。とっても綺麗」
思わずつぶやくと、義兄は顔をそむけてしまった。見ると耳も顔も真っ赤になっている。
やばい。怒らせちゃったみたい。この世界では「星空のよう」というのは誉め言葉じゃなかったのかな。異世界ってやっぱりわからないことだらけだよ……
「アリア、そんなセリフは私以外の誰にも言ってはいけない。特に男性には絶対にだめだ。いや、そもそも私の目の届かないところで男性に近づいても、話してもいけない」
――義兄が私を見る目には、なぜか疲れがにじんでいたのだった。
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