第一章 転生したら犬だった  第三部

 朝の光が差し込む。

 紗耶香はまだ寝ぼけ眼で、スマホを握ったままベッドに突っ伏していた。

 画面には「WAUWAU:昨日の投稿 いいね2件」と表示されている。

 「……2件かぁ」

 小さくため息。

 「どっちも友達だし」

 俺は毛布の端を引っ張って、彼女の顔を覗き込んだ。

 「ワン!」

 「おはよう、コルク。……元気だね」

 元気というか、朝から心配でたまらん。

 俺の漫画が打ち切られた時も、最初は“2巻”だった。

 数字の小ささより、“続けられなかった”あの感じが痛い。

 ***

 数日後、彼女は部屋の片隅に積んでいたダンボールを開けた。

 中から出てきたのは、絵具、筆、紙、スケッチブック、そして――原稿用紙。

 「もう一回、描いてみようかな」

 その言葉に、俺の耳がぴくっと動いた。

 「もうダメだと思ってたけど……君を描いたら、ちょっと希望が見えてきて」

 「また、WAUWAUに投稿してみようかな。

  誰かひとりでも見てくれたら、それでいいんだ」

 俺を?

 つまり、犬主人公の作品か?

 もしや……擬犬化ヒーロー、再び?

 「タイトルはね――『ふたを開けたら、星がこぼれた』」

 思わず、鳴く前に息を呑んだ。

 まるで、あのコルク瓶みたいなタイトルじゃないか。

 紗耶香は、机に向かい、筆を走らせた。

 最初のページに描かれたのは、小さな茶色い犬が、星の砂を見つめている絵。

 それは俺だった。

 「主人公は、言葉を話せないけど、心で全部伝えようとするの」

 「ワン!」

 「そうそう、そんな感じ!」

 いや、俺はマジで伝えようとしてるんだが。

 まあいい、意図が一致しているならそれでよし。

 ***

 創作の時間が再び始まると、部屋の空気が変わった。

 食器が少し溜まり、洗濯が後回しになり、カップ麺の数が増える。

 それは、紗耶香が“本気”になった証拠だった。

 彼女は何時間も絵を描き続け、失敗しては紙を破り、また描いた。

 時々、俺をモデルにしてスケッチを取る。

 「もうちょっと笑って? あ、今の顔いい!」

 おい、それは笑顔というよりあくびだ。

 でも、そのたびに俺の中の“漫画家・国定守”が静かに反応していた。

 ――構図が良くなってる。

 ――筆圧が安定してる。

――描線に“ためらい”が減ってきた。

 創作というのは、魂のリハビリだ。

 俺も昔、それで救われて、そして壊れた。

 「ねえ、コルク。守りたいものって、ある?」

 紗耶香がぽつりと呟いた。

 「私ね、昔『明日の君を守りたい』って漫画が好きだったの。

  作者は、国定守っていう人なんだ。でも最近作品を見かけないの……」

 耳が立った。

 それは、俺の作品だ。

 打ち切られた、あの二冊で終わった漫画。

 ――まさか。

 この娘、あの時の読者……なのか?

 俺の胸の奥で、何かが震えた。

 SNSの数字なんかじゃなく、たった一人の読者の心に残っていた。

 それだけで、全部報われる気がした。

 「……ワン」

 「うん。君も、誰かを守りたいのね」

 違う。

 守りたい“誰か”は、もう目の前にいる。

 その想いを込めて、俺はそっと彼女の足元に頭を寄せた。

 ***

 夜。

 スケッチブックの最終ページが完成した。

 星の砂がこぼれるように、犬と少女が微笑んでいる。

 その絵を見た瞬間、俺は確信した。

 これは――“再生”の絵だ。

 「ありがとう、コルク。

  君がいなかったら、きっと私はまた筆を置いてた」

 俺は尻尾を二回、振った。

 それが俺なりの“どういたしまして”だ。

 ふと、机の端を見ると、あの小瓶が置かれていた。

 星の砂の上に、小さな紙片が入っている。

 《投稿作品タイトル:ふたを開けたら、星がこぼれた》

 瓶のふたは、ほんの少しだけ緩めてあった。

 光が一粒、外にこぼれたような気がした。

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