異聞・塵の町―

@hatohasebi

【短編】塵の町のとある二日・家をなくした者の集うところ

 風が吹いたので、女は冊子に近づけていた顔を上げた。

 開いた扉から見知った背格好の男が背をかがめて店に入ってくる。近目に扉からの西陽のせいもあって顔は見えにくい。

 

「緑よ。ちょっといいか」


 よく通る濁声。大山羊おおやぎ、と呼ばれているその男は、緑より顔一つほど高い背丈とがっしりした肩の持ち主である。


「酒なら今日は入ってないよ。珍しく油漬けの肉があるけど」

「いや、買うんじゃないんだ」


 緑と呼ばれた女は目を細くした。読みものを中断させられたうえ商売でもなさそうなので、ついでに眉も寄せておく。

 また風が吹く。大山羊はすぐに扉を閉じた。が、見えるほど濃い土埃が横長の机と扉の間、両脇にごたごたと木箱が積んである五、六歩くらいのすき間に広がった。掃除しても積もるばかりだが、北西風の季節には仕方のないことだった。


「お前、店の手伝いを欲しがっていただろう」

「うん、そうだけど。目が良くて力があって、できたら頭が良ければもっといいね」

「実は、一人それらしいのを拾ったんだが」

「拾った?」


 緑はまた目を細くした。


「家の扉の真ん前で倒れてたんだ。まだ喋れたし、通りの死体を俺のところでわざわざ増やすのも寝覚めが悪くてな」

「あんた、半死人をよこそうっていうの」

「なあに、しばらく飯を食わせていたら元気にはなったさ。なんでも北の国にいたというんだがね」

「北だって?大山羊、あんたの世話焼きにはいつも助かってるけどね」

「まあ聞け」


 大山羊はその辺りに倒れていた丸椅子を持ち上げた。意外にも丁寧に埃を払って長机の向かいに腰掛ける。大山羊、というのは体つきに見合わぬその細い顔のためであるが、その顔には微かな苦笑いが浮かんでいた。

 緑が軽く口を横に結ぶのを見ながら大山羊は話し始めた。


「北から来たとはいうが、ここらの言葉もできるし字も書ける。力の方は男だからお前んとこの仕事ならなんとでもなるだろう。一応剣も盾も持てたしな」

「用心棒に連れてったの?」

「食わせてやったからな。ただ、荒事には向いてねえ。野盗が出るわけでもねえ『壁』の中の楽な仕事でも真っ青でな。あれじゃ棒と板切れ持ってるのと変わらん」


 大山羊はまた苦笑した。


「この塵の町にいるなら働かずに食う法はねえ」

「ここに法なんてあったかい」

「混ぜっ返すな。学校出はそういうところがいかん。ともかくだ、要するにお前のところで引き取ってくれんかと思ってな」


 緑の机の上で組んでいた手が腕組みに変わる。


「…一度話してみないと、引き取るも何も決められないよ」

「そう言うと思った。もう今日は閉めるんだろ。飯も出すし帰りは送ってやるから、ちょっと会いに来ないか」

「……十日ばかり前に売ってやった酒、まだあるでしょ。売主が散々渋ったって言ったやつ。あれも飲ませてくれるんなら」

「家の客として迎えるんだから当然だ。でも一杯だけな」


 大山羊がいるので緑の店のあたりは大きな騒ぎもなくなんとかなっていた。緑も、女一人の店が盗みにも人拐いにも遭わないでいるのが大山羊のおかげなのはよくわかっている。その大山羊の「手」なのか好意なのかは判然としなかったが、そこまで義理を尽くされては否やもない。緑は銭の袋を服にしまうと一応の鍵をかけて店を出た。




 緑は日が出ている間、自分の店から通りに出るのが好きではない。まず、向かいの「医者」が必ず声をかけてくる。「医者」は扉の横に椅子を置いて物好きにも日がな座っている。白髪に黒髭、片手には蓋つきの白い陶器。


「おほぉ、緑ちゃん!大山羊の旦那も一緒かい。どうかね、この薬酒をともに一杯。一口飲めば十年寿命が延びる。なんとなれば……」

「『あらゆる薬草を五年漬け込んだから』だろ?あんたがあと十年生きてたら飲んでやるよ」 

「勿体ないね!旦那もどうぞご贔屓に…」


 背中で聞き流しながら歩いていく。「医院」にある薬酒だの薬湯だのを試してやる勇気は三回生まれ変わってもない。


 北西風の季節、この「塵の町」の辺りでは北側の荒地から砂塵が巻き上げられ続けている。時に陽の光さえ昏くなる。夜ともなれば骨に堪える寒さの夜もある。だから夕方近くになってまで外で働いている者は寡い。


 五十歩が百歩に感じられる中、緑は大山羊の後ろを歩き続ける。半ば打ち棄てられたようにも見える低い店や家の並ぶなかには、何日かに一人は誰かが倒れている。今日は二人。

 倒れた者が三、四日そのまま動かず匂いが目立つようになれば、大山羊やら他の誰か顔役のような者やらが声をかけて通りの皆で町の端の大穴まで運んでいくのだ。端といっても、もちろん壁の側ではない。荒地の側である。壁の向こうは「川の街」だ。そこに緑は十三歳の年までいた。壁の上の衛士が煩いので臭気を溜めるわけにはいかない。壁のすぐ向こうに住んでいる連中ならこちらと大差ないとしても。

 

 それにしても、と緑は歩きながら考える。緑は北の国と間接的に因縁があったので、そこから来たと聞いて、会う前からその男にどうケチをつけてやろうか頭をひねっていた。―体力か、頭か、きっとどこかに問題があるに違いない。きっと食事の場でその男を引き取る約定をさせることまで大山羊は考えているのだろう。食事を出してくれるというから行くが、大山羊の考えている通りになるかどうかはまた別問題だ。


 百歩を経て、緑は大山羊の家に着いた。家と店を兼ねる緑の二階建てと造作は似ている。が、広さは倍で、後ろから横にかけて切った張ったの練習ができる大きめの庭が塀に囲まれて付いているのが異なる。

 

「まあまずは飯にしよう。当人も交えてな」


 間口の先でおい、と呼ぶと、何かを置く物音がしてその男が家の裏から現れた。

 若くて痩せている。それだけなら塵の町では大半がそうだが、顔が丸くて色が白い。それに背筋がよく伸びている。また雰囲気が、うまく言えないが何か浮いている。浮き世離れしていると言えばいいのだろうか。


「大山羊、これかい」

「ああ、こいつがそうだ。…そういえばお前、何と呼ばれることにしたんだっけ?」


 塵の町の民には名前がない。呼び名しかない。もし名前があっても名乗らない。川の街の法が及ばない壁の外にあって、数少ない暗黙の決まりの一つだった。


「…では、『紅榴ざくろ』と」


 子音が少々きついが言葉は滑らかだった。左手には腕輪があり、緑はつい目を細くした。赤い石の周りに何か彫ってある。男は少し身体を硬くしたように見えた。


「心配すんな、近目だから悪気はねえ。紅榴よ、これが緑だ。酒や肉やいろんなもんを売っている」

「緑殿、お会いできて光栄です」


 紅榴は礼を示した。挙措がおかしいと見えたのは物腰の丁寧さだったらしい。北の礼は左足を引いて軽く膝を折り胸に手を当てる。いつか誰かにそう教えられたことを緑は今思い出した。と同時に軽く噴き出す。


「光栄とはこの町のもんに過ぎたる文句だね。緑だ。まあよろしく。半死人ではなさそうだね」

「はい、大山羊殿に命を救って頂きました」

「早速だけどあんた、計数は」

「少しなら学びました」

「銅貨7枚の干し肉を3枚買った奴が銀貨を1枚よこしてきたら釣りはいくつだい」

「…ここでは銀貨は銅貨何枚ですか?」

「80枚だ」

「では釣り銭は59枚です」

「よし。棗5個で銅貨8枚と、8個で13枚ではどっちが安い?」

「5個で8枚です」

「即答だね。上出来だ。大山羊、あんたいい拾い物したねえ」


 緑が勢いよく振り向くと、大山羊はまた微苦笑を浮かべていた。


「……金勘定もいいが、まず家に入らんかね。この風に砂だ」

「あ…」


 柘榴のほうを向くと、当惑を経て礼儀正しく微笑んだのが妙にはっきり見えた。緑は赤面した。




 大山羊は西の砂漠から来たといい、剣と盾と鎧を除けば家具は極端に少ない。扉の間に続く部屋の真ん中にかまどがあり、大山羊はそのすぐ奥の床に何本か縞の入った大きな敷物をのべた。これが席のしるしで、敷物に座るのには必ず靴を脱がなければならない。脱がずに座ると場合によってはいきなり剣を抜かれるに値するのだそうだ。


「それなりに準備はさせてもらったつもりだ。おい」


 大山羊の情女おんなが慣れた手付きで小机を四つ出して木の皿と杯を並べた。

 木杯にはこの間売ってやった、蒸留した酪酒らくしゅ。わずかふた舐め分ほどの明徴な液から漂う強烈な香りは何に例えようもない。

 皿には平焼きで香ばしく湯気の立つパン、山盛りの瑞々しいなつめやしに、まるで脂の浮き出てくるような山盛りの干し肉、それに川の近くといえど安くはない色とりどりの瓜や豆の、それぞれ生のや焼いたもの。


 一つ一つの香りはあまりにも顕然と、かつ渾然とし、さらには油灯に照らされた色も鮮やかに、とはいえ決して贅を凝らした訳ではないが―と川の街の生活が長かった緑は、普段棗と堅焼きパンくらいで済ませているくせにいまだにそう思ってしまう。

 明らかに緑でない者から買ったであろうものも多いが、そんなことはさておき、汎ゆる色を欠いたように見える塵の町でこのような食事と灯りを用意できる者の意思と能力を、決して軽視してはならない。それすらできない者の未来は、知らず知らずに明るさを失い、あるいは知らず知らずに未来それ自体を失うのだ。


 などと考えが迸る中で大山羊が口をつけ始めたのに気づき、緑は小机に手を伸ばした。

 色や香りやその他諸々に気を取られた結果として、主人に先んじない、という西の砂漠の座の作法は守られた。守られなかったとしても、大山羊はおそらく苦笑して赦してやったはずではあった。


 まず蒸留した酪酒を一舐め。わずかな苦みに続いて、乳の最も純粋に甘いところだけが口いっぱいに広がる。あまりにも明徴で、たまに飲む普通の酪酒の獣臭さは含みのどこにもない。そうして染み渡ってくる熱さ。これは本物の酒だ。それも人生初めての大当たり。

 すぐさま緑は干し肉に手を伸ばす。酒の香気が残る中で口中に脂が弾ける。これまで感じたことのない絶対的な調和。一噛みごとに脂が弾け、その都度新しい快さが幾重にも上積みされていく。

 そのうち脂が重たく残って感じられるようになるや、生の胡瓜。青臭さはここでは脂と絡み合って程よく残る。口の中が水気に満ちてきたところでまだ暖かいパン。また干し肉。そうして数多の瓜、豆、また肉、パン……

 天上の甘露を口に含んだまま大きく目を見開いてしばらく絶句したかと思えば、今度は少し背中を丸めながら、その場に誰もいないかのように黙々と皿に手を伸ばして戻してを繰り返す緑を、大山羊は愉快そうに眺めていた。紅榴は表情の選択に困っていた。情女は淡々としかしにこやかに食べていたが、そのにこやかさは、どう見ても緑が自分の立場を脅かしそうにないとわかったからかもしれなかった。




 片手持ちの木杯から残りの酒の一舐めをたっぷり二分は口の中で転がしたのを締めくくりとして、しばらくぶりのきちんとした食事を堪能し尽くした緑は、しみじみと瞑っていた目を開いた。すると空になった皿と他の三人が目に入り、我に返ってまた赤面した。むろん、他の三人はまだ食べている。


「水路掘りの工人にも勝る食いっぷりだ。座の主人としてこんなに面目を施したのは久しぶりだな。俺は嬉しいよ。次の皿も要るか?」

「いやっ!!……いや、その。嬉しいけどこれ以上はダメだ」


 大山羊は屈託なく次を勧めたが、二皿目から先は明らかな恩義になってしまう。そう思った緑は固辞した。大山羊は情女に目配せすると、火から少しだけ離してあった陶瓶に入った、何かの花弁の煎じ湯を情女が注いでくれた。


「それくらいは受けてくれ」


 今度は背筋を伸ばし、木杯を両手で丁寧に持つ。含んで飲み込めば強い酸味と花の香が口と臓腑と、それに緑が持っていた当初のわだかまりを清め去る。

 一息つくと、緑は商売人の顔を作ってようやく切り出した。


「食ってばかりで悪かった。紅榴ごめん。うちの店の話をしようか」

「はい、ぜひ」

「あたしが川の街の壁の中で仕入れてくるもんは主に三つある。酒と食べ物、それにこまごまとした、まぁ雑貨だね。売る相手はもちろんここらの連中さ。塵の町に住んでる者には大きく二つのたぐいがあるが、それは大山羊から聞いたかい?」

「外から来た者と、川の街に住めなくなった者ですね」

「そうだ。住めなくなった者にも二つあるが、それは?」

「…いいえ」

「家をなくした者と、街を追放された者だ。金のあるやつは船か隊商を頼って他へ行けばいいけど、ないやつがここに来る。ちなみにあたしは家をなくしたほう。だから街には入れる。でも追放されたやつが勝手に街に入ると首と胴が離れるの」

「その、入れない方のための商売なんですね」

かたなんてもんじゃないよ。みんな追放のおまけに鞭打ちか何かを食らってるんだよ。だから応対するのにもそれなりの肚が要る。まぁそうじゃない客も来るけどね。あんた、店番やったことある?」

「いえ、一度も」

「だと思った。でも慣れてきたら頼むからね」

「は、はい」


 緑は口が乾いたことに気づいて煎じ湯を一口啜った。紅榴は唾を飲み込んだ。


「あと頼みたいのは朝の仕入れの手伝い。あたしは近目だからねえ、市場でいい物見落とすこともあったりしてさ。目は大丈夫?」

「百歩先の木のてっぺんに鳥がいればわかります。二百歩となるとちょっと…」

「十分でしょ」


 誰かに狩に連れていかれたことがありそうな物言いだ、と緑は思った。


「他には掃除に金勘定、帳簿に…要するに店のことは一通りできるようになってほしい。当分銭はあげられないけど食事はなんとかする。ただ今日みたいないいもんじゃないから覚悟はして。寝床は店の奥。敷物と、あと毛布はある。出ていきたくなったらあたしと話したうえで大山羊にきちんと話を通すこと。大山羊が駄目だということはないはずだけどね…」


 大山羊は鷹揚に頷いた。


「たぶん、これで全部だ。何か文句はあるかい?文句がなければ明日日が沈むまでにうちに来な」

「…いえ、ありません。いつまでも大山羊殿の世話になる訳にも参りませんから」

「殊勝な心掛けね。大山羊よ、聞いての通りだよ。約定は成った。」

「緑よ、確かに約定を聞き置いた。……しかしな、ここへ来て四年経って、お前も立派になったもんだなぁ」

「なっ…………!!あたしだって立会人を入れたときの約定のやりとりぐらい聞いたことあったわよ。一応はここに来る前にだって…」


 緑が煎じ湯に、紅榴が酒に口をつけるところを見ながら、本当は食事の席では約定が成る前に酒杯を干してはならなかったのだが、と大山羊は思ったが、次に会ったときまでは黙っていてやることにした。紅榴はほっとした顔をしていた。




 あくる日の正午を少し過ぎた頃、大山羊の家を丁重に辞去した紅榴は緑の店にやってきた。日没までだからもっと遅くてもよかったのだが、早いに越したことはないと考えたのだ。

 「医院」と店が向かい合う通りの端に辿り着いたところで、店の中から緑らしき女の大音声が響いた。すぐ扉が開いて誰かの背中が見える。


「へへ、いいじゃないかよぅ」

「冗談じゃないよ!!明日は賽子振る前にまっすぐうちに来な。あんたにツケさせたらうちだって潰れちゃうよ」

「そう言わずにさぁ」

「埃が入るから早く出ていきな!もう一度言わせたら小刀を投げつけてやる」

「わかった、わかったよ。あんたに平和を!」


 男は瘦せこけた背中を丸くして扉を閉めて出ていった。紅榴には目もくれなかった。紅榴が扉を押し開けると、店の長机の向こうでギラリと鉛色に光るものが見えた。


「待って!投げないでください。紅榴です。今日からお世話になります」

「あ……なんだ。今の奴かと思ったよ。ごめんごめん。ようこそ、歓迎するよ。今、水を出す」


 緑は店の奥へ取って返すや、すぐ戻ってきて机に二つ木杯を置いた。口をつけると、少し臭気が鼻をつく。


「悪いね。長いことみずがめが掃除できてないんだ。あたし一人だったもんでね」


 わずかに顔を顰める風になってしまったのを見て取ったか、緑が少し済まなさそうに言った。




 紅榴は緑に教えられ、店の造作や売り物、帳簿、銭の袋、寝る所に水や厠のありかと、一通りの店のことを知って、幾らか店のあれこれを整えた。

 その間に幾人かの客が来て、そのうち日が暮れた。緑は店の扉に閂と鍵をして、竈門に火を入れ、自家用の干し肉と棗とパンに加えて、売り物と思しき酪酒を出してくれた。


「まあゆっくりやろうか。大山羊のところには負けるが、あんたの初日なんだから」

「ありがとうございます…」


 竈門の熱は温かく、冷え切りはじめそうな部屋と身体を安らげてくれる。火に照らされる緑の、まったく肉のない顎あたりを見るともなく見ながら紅榴は切り出した。


「今日わたしが来たときの方は、その」

「ああ、川の街で有名な賽子さいころ狂いなのよ。借金こさえて壁の中の家を取られちゃってね。寄場仕事の帰りにパンを買ってくれるんだけど五日に一度は遅くやってきて、スったからタダでくれとか言うのよ」

「…大変、ですね」

「あんたにもそのうち相手してもらうんだからね。その調子じゃ押し負けちゃうよ。あいつが遅い時間にやってきたらそれだけで応対を厳しめに変えるの。…それにね、あんなのは序の口も序の口よ」

「もっと凄い人がいるんですか?」

「ええ。金はないけど肉をよこせって刀チラつかせるような奴もいたし、前は仕入れたもの毎日全部買ってやるからお前と寝させろなんてのもいたわね」

「……それは」


 さらりと言うが、前者は強盗、後者は卑劣漢であろう。


「まああたしの貞操はじめては場合によっちゃ最後の手段かもしれないけど、刀はね。流石に大山羊の名前を出したらちゃんと引いたけど」


 さっき緑も小刀をちらつかせなかっただろうか、とも思ったが、機微があるのだろうと紅榴は推測した。しかし前半については聞き捨てならない。


「その、緑殿は」

殿どのはやめて。もっと気楽にならないの?」

「では、緑さんは、ご自身も場合によって、その、売り物に…?」

「人聞きの悪いこと言わないでよ。最後の手段って言ったでしょ。あとはまぁ、店先の仕事と帳簿と夜の相手ができる女が店に一人いたら便利だなと思うあるじさまが川の街にいないもんかなー、とか思うことならそりゃああるけどね。でも十七を迎えてこの痩せ様でしょ」


 と言いながら緑は自身の足やら腰やらを指し示した。どぎまぎしながらも、さっきから緑の口調が随分と砕けてきていることに紅榴は気づく。


「女神像があれほどふくよかで、大店の主が誰も彼も肉付きのよい妻やら情女やらを連れているこの辺りの土地柄で、果たしてこれを喜ぶ殿方がいるかってことよ。辛うじて骨ばっては見えないくらいの自信はあるけど、実際問題としてね……」


 考え込んだ後不意に紅榴の顔を見て、緑はやってしまった、という顔をした。


「ごめんね!若い男と二人きりのときにすべき話じゃなかったわよね」

「いえ、お気になさらず」


 目下の雇い主に何を言うべきか、紅榴は他に何も思いつかなかった。


「でもね、あたしが自分を妾か下女かで商家に売り込む気があるんだったら、そもそもあんたを大山羊から引き取ったりしないわ。あたしは真っ当に稼いで、いつか壁の中の家を取り返したいの。それが元の家でなくてもいいんだけど」


 近目のはずの緑の目は、真正面から炯々と紅榴を見据える。


「昨日大山羊の前で約定した通り、食べることだけは何とかしてあげる。できるようになれば銭も出してあげる。だから、あたしを助けなさい」


 さっきから何の気なしに両手で持っていた酪酒入りの木杯を、紅榴は半指ぶんたりとも動かせずにいた。


「あんたがあたしを助けてくれれば、あたしはきっと少しずつでも商いを大きくできる。一人じゃできなくても二人いればできることは水瓶の掃除以外にも山のようにあるから」

「…緑殿、私は能う限りそれに与力すると、この左手の柘榴石にかけて誓いましょう」


 気圧されて、紅榴はそう言うしかなかった。


「ありがと!!…とはいえ最初からなんでもかんでもできるわけじゃないけどね。『利子にも利子がつく。ただしゆっくりと』というじゃない?あ、私は商家の娘だったからこれを知っているんだけどさ、でも両親が相次いで流行り病で死んだときに私だけ生きてたからたまたま残ってた負債のカタに家と店を取られて素寒貧になったのよね。で塵の町に流れてきてこの店の爺さんに拾われてさ、二年もしないうちに爺さんが頭打って死んじゃったわけ。だから自分だけで商売をすることになったからしみじみとわかったんだけど、商売に限らず本当になんでもそうよね。学業だって…」


「緑殿!!」


 紅榴は精一杯の大声で緑の長広舌を止めた。


「緑殿……私は………私も、彼の国で」


「言うな!!!」


 もっと大きな、ほとんど怒鳴り声のような返事が返ってきた。と同時に紅榴の顔の真ん前に、いっぱいに広げられた手のひらが屹立する。自分は散々まくし立てておいて、一体何だろうか?


「…あんたが優しそうだなってのは昨日と今日で思った。でもね、これはあたしが言いたくなっただけだから。だからってあんたまで、無理に昔のことを教えてくれなくてもいいの。あるんでしょ、言ったらまずいことがたくさん。北の国から来たってのに、お供も乗り物も馬もなしにこの塵の町に倒れてたってだけでそんな気がするわよ。そんなのはね、二人ともそれぞれ昨日飲んだような酒を一晩でたらふく飲めるような財産をこしらえてから、初めて教えてくれればいいの。………いつか。本当にいつか、ね」

「…………緑殿」

「あと殿は止めなさいって言ったでしょ」

「…緑さん。申し訳ありません」

「よしなさいよ。お互いに利のある関係なんだから、あんたの暴走を止めたくらいで謝罪はそぐわないわ。でも紅榴、あんたの目標は興味ある」


 暴走しているのはどちらか、と紅榴は思ったが、事を荒立てるのはやめることにした。


「私の?…そうですね。故国に帰りたいとは思います。でもすぐには無理なので、とにかく生き続け、できればお金を作れると、なおよいですね」

「よかった!当面の目標は完全に一致するわ。紅榴、私たちうまくやりましょうね」

「…はい!」

「…と言ってもね、当面やることは結局酒と食べ物と雑貨を仕入れて売る、それだけなのよね。」

「はい。では、それをできるだけ効率よくやって参りましょう」

「…なによ。賢しらに言うわね」

「彼の国では、大学にあたるところまでは学びましたもので」

「え!学士ってこと?!」

「一応は」

「むむむ…やるわね……」

「大学というのはとかく現実と遠いところにあると言われがちですが、考える力ならきっと緑さんのお役に立てると思います」

「言ったわね!でも少しは大言してくれないと、あたしも安心できないわ」




 そしてこのように、塵の町の長い夜が更けていった。

 この日までの日々と、この日からの日々がいずれどのように異なってゆくものか。それを知るものは今日、神々、特に運命を司るという神を含めてさえも、誰もいないのであった。

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