京都の作家は、締め切りを守らない
ソコニ
第1話 京都の作家は、締め切りを守らない
第一章 足音
【柊史朗『書かれた者たち』第一稿より】
「編集者が階段を下りる。
その足音は、誰かに数えられている。
十三段目で、彼は気づくだろう。
自分の足音が、二つあることに。
――だが、振り返ってはいけない。
数えている者は、見られることを嫌う」
桐谷透がこの原稿を読んだのは、十一月の京都、柊史朗の仕事場だった。
原稿用紙を持つ手が、微かに震えている。紙の手触りが妙に生々しい。インクの匂いが鼻腔を刺激する。いや、違う。これはインクの匂いじゃない。何か、もっと――血に近い。
「どうされました?」
柊の声が、水を打ったように静かな部屋に響く。
桐谷は顔を上げた。
柊史朗は、窓際に座っている。逆光で表情が見えない。だが、シルエットだけで分かる。異様なまでに背筋が伸びている。首の角度が、人形じみている。
「……先生、これは」
「私の新作です。もう書き終わっています」
桐谷は三年間、柊の担当編集者をしている。三十二歳。出版社「文藝往来社」勤務。配属されて五年目で、ようやく掴んだ大型作家だった。
柊史朗。三十八歳。京都在住のホラー作家。
デビュー作『鴨川の影』で日本ホラー小説大賞受賞。以降、『祇園囃子』『比叡の闇』『先斗町心中』『木屋町の骨』と、すべて京都を舞台にした作品を発表。累計八十万部。映画化二本、ドラマ化一本。
そして――締め切りを、一度も守ったことがない。
「先生、では原稿を」
「お渡しできません」
柊が立ち上がった。ゆっくりと、まるでスローモーションのような動きで窓に近づく。格子窓の向こうに、晩秋の京都が広がっている。
「なぜですか」
桐谷の声が、自分でも驚くほど尖った。
「もう三ヶ月も遅れているんです。編集長からは毎日電話が来る。印刷所のスケジュールも限界です。なのに、書き終わっているのに渡せないって――」
「桐谷さん」
柊が振り返った。
その瞬間、桐谷は息を呑んだ。
柊の顔が、見えた。
白い。異様なまでに白い肌。目の下に薄い隈。唇だけが不自然に赤い。だが、それは口紅ではない。血の気、だろうか。いや、違う。まるで誰かの血を吸ったような――
「あなたが今、生きているのが原稿です」
桐谷の思考が、一瞬停止した。
「……は?」
「私の新作『書かれた者たち』。主人公は、編集者です」
柊が一歩、近づく。畳の上を歩く音が、やけに大きく聞こえる。
「名前は、桐谷透。三十二歳。東京の出版社勤務。担当作家・柊史朗に原稿を催促するため、十一月十二日、京都を訪れる」
「冗談はやめてください」
桐谷は立ち上がった。膝が震えている。
「十一月十二日午後二時三十分、彼は柊の書斎で奇妙な原稿を読む。その原稿には、階段を下りる男の話が書かれている」
「やめろ」
「午後三時十五分、彼は柊の家を出る。そして、階段を下りる」
桐谷は鞄を掴んだ。
「失礼します」
部屋を出た。廊下を抜ける。階段が見える。
急な階段だ。町家特有の、狭くて傾斜のきつい階段。十三段。
桐谷は階段に足をかけた。
一段目。
自分の足音が聞こえる。革靴が木を叩く音。
二段目。
足音。
三段目。
足音。
四段目。
足音が――二つ。
桐谷は動きを止めた。
自分の足は止まっている。なのに、足音が聞こえる。背後から。ゆっくりと階段を下りてくる音。
五段目。
六段目。
七段目。
桐谷は振り返りかけて――やめた。
原稿に書いてあった。
「振り返ってはいけない」
八段目。
九段目。
足音が、すぐ後ろまで来ている。
十段目。
呼吸が聞こえる。自分のものじゃない。湿った、重い呼吸。
十一段目。
十二段目。
十三段目。
桐谷は走った。玄関を飛び出し、白川通を全力で駆け抜けた。
第二章 上書き
翌朝、東京。
桐谷は出版社の会議室で、上司の田所部長に報告していた。
田所は五十代の男で、血圧が高い。常に顔が赤く、常に不機嫌だ。
「で、原稿は?」
「ありませんでした」
「はあ?」
田所の目が、金魚のように飛び出した。
「柊は『もう書き終わっている』と言ったんだろう? なのに原稿がないって、どういうことだ」
「それが――」
桐谷は昨日のことを話そうとして、やめた。信じてもらえるはずがない。
「先生が、渡せないと」
「ふざけんな!」
田所が机を叩いた。会議室の蛍光灯が揺れる。
「いいか、桐谷。柊の本は売れるんだ。うちの出版社の屋台骨なんだよ。それを――」
「でも、先生が渡さないと言ったら」
「お前が無能だからだろうが!」
田所が立ち上がった。巨体が、桐谷に迫る。
「いいか。お前は編集者として甘すぎる。作家なんてのはな、おだてて脅して、原稿を絞り出すもんだ。機械が壊れたら修理する。それだけだ」
桐谷は何も言えなかった。
田所は会議室を出ていった。ドアが、乱暴に閉まる。
桐谷は椅子に座り、顔を覆った。
機械が壊れたら修理する。
その言葉が、頭の中でリフレインする。
午後三時。
桐谷は社内の階段で、田所とすれ違った。
「田所さん」
田所は無視して階段を上っていく。背中が、汗で湿っている。
その時だった。
田所の足が、滑った。
いや、違う。滑ったのではない。まるで誰かに引っ張られたように、田所の体が後ろに傾いた。
そして――落ちた。
階段を、ゴロゴロと転がり落ちる。鈍い音。骨が何かに当たる音。
田所が階段の踊り場で止まった。
頭から血が流れている。目は開いているが、焦点が合っていない。口が、何か言おうとして動いている。
「誰か! 救急車!」
桐谷の叫び声に、周囲の社員が駆けつける。
だが、桐谷の頭の中では、別の声が響いていた。
柊の声。
「午後三時、同僚が階段から落ちる」
いや、違う。柊はそんなこと言っていない。
だが――
桐谷はスマートフォンを取り出し、柊の過去作品を検索した。
『鴨川の影』第三章。
「上司が階段から落ちる。
ゆっくりと、まるでスローモーションのように。
主人公は見ている。
そして、気づく。
自分が、これを望んでいたことに」
一言一句、同じではない。
だが、構図が同じだ。
桐谷は洗面所に駆け込み、水で顔を洗った。鏡の中の自分を見る。
顔色が悪い。目の下に隈ができている。
「偶然だ」
鏡に向かって呟く。
「ただの偶然だ」
だが、心臓が激しく鼓動している。
その夜、桐谷は恋人の麻衣子と会った。
渋谷のイタリアンレストラン。窓際の席。テーブルの上のキャンドルが、二人の顔を照らしている。
麻衣子は二十八歳。広告代理店勤務。ショートカットで、笑うと目尻に皺ができる。付き合って二年と三ヶ月。
「透、どうしたの? 顔色悪いよ」
「ちょっと仕事でトラブルがあって」
桐谷はワインを飲んだ。喉を通る感覚が、やけにリアルだ。
「上司が階段から落ちたんだ」
「え、大丈夫なの?」
「骨折で済んだ。でも――」
桐谷は言葉を切った。
麻衣子がフォークを置いた。
「透」
「うん」
「私たち、別れましょう」
桐谷のフォークが、皿に落ちた。
キャンドルの火が、揺れている。
「……何?」
「ごめんなさい。もう、続けられない」
麻衣子の目に、涙が浮かんでいる。だが、その涙は――まるで誰かに言わされているような、不自然な涙だった。
「理由を教えて」
「分からないの。ただ――」
麻衣子が顔を覆った。
「私、あなたと一緒にいると、消えそうになるの」
「消える?」
「言葉にできない。でも、怖いの。あなたの隣にいると、私が私じゃなくなる気がする」
麻衣子は立ち上がり、レストランを出ていった。
桐谷は動けなかった。
周囲の客の視線が、痛い。
桐谷はスマートフォンを取り出した。震える指で、柊の処女作『鴨川の影』を開く。
第一章。主人公と恋人の別れのシーン。
「彼女は言った。
『私たち、別れましょう。もう、続けられない』
理由を聞いても、彼女は答えなかった。
ただ、怖いと繰り返した。
『あなたと一緒にいると、私が消えそうになる』」
桐谷は店を飛び出した。
第三章 無意識の筆跡
深夜二時。
桐谷は自宅のアパートで目を覚ました。
汗でシーツが湿っている。喉が渇いている。
キッチンに向かい、水を飲む。冷蔵庫の明かりだけが、部屋を照らしている。
机の上に、何かがある。
原稿用紙。
桐谷は近づいた。
原稿用紙には、文字が書かれている。自分の字だ。
「編集者は、恋人に別れを告げられる。
理由は分からない。
だが、それは彼が『書かれた者』だからだ。
彼の人生は、もう彼のものではない。
誰かの物語の、一部になっている」
桐谷は原稿用紙を握りしめた。
「いつ、書いた?」
記憶にない。
だが、確かに自分の字だ。筆圧も、癖も、すべて自分のものだ。
桐谷は原稿用紙を破り捨てた。
ゴミ箱に投げ込む。
だが――
翌朝、起きると、原稿用紙が机の上に戻っていた。
しかも、続きが書かれている。
「編集者は、原稿を破り捨てる。
だが、無駄だ。
書かれたものは、消えない。
破いても、燃やしても、水に流しても。
言葉は、現実を上書きし続ける」
桐谷は会社を休んだ。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
スマートフォンが鳴った。麻衣子からだ。
「もしもし」
「透、昨日のことなんだけど」
桐谷の心臓が、激しく鼓動した。
「覚えてる?」
「え、何が?」
「昨日、会う約束してたよね。でも、透が来なかったから」
「……会ってないの?」
「うん。どうしたの? 変だよ」
桐谷は電話を切った。
上書きされている。
柊が書いた「別れ」が現実を上書きし、麻衣子の記憶から消えている。
だが、桐谷の記憶だけが残っている。
なぜ?
桐谷は京都行きの新幹線に飛び乗った。
第四章 血を吸う土地
午後三時、京都。
桐谷は柊の家の前に立っていた。
玄関の引き戸が、半開きになっている。
「先生」
返事がない。
中に入った。
柊は、書斎にいた。床に正座し、何かを書いている。
その姿勢が、異様だった。
背筋が、定規で引いたように真っ直ぐ。首が、微動だにしない。手だけが、機械的に動いている。
「先生」
柊の手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
その目に、焦点がない。
「……桐谷、さん」
柊の声が、遠い。
「よく、来てくださいました」
「何をしたんですか」
桐谷は柊の前に座った。
「田所さんが階段から落ちた。麻衣子が別れを告げた。そして、僕は毎晩、無意識に原稿を書いている」
「はい」
「なぜですか」
柊は筆を置いた。
「この土地が、そうさせるのです」
柊が窓を開けた。冷たい風が入ってくる。
「桐谷さん。この家が何の上に建っているか、ご存知ですか」
「……いえ」
「処刑場です」
桐谷の背筋が凍った。
「応仁の乱で、この辺り一帯は焼け野原になりました。そして、戦後、ここは罪人を処刑する場所になった。首を刎ねられた者、磔にされた者、生き埋めにされた者――」
柊が床を指差した。
「その血が、この土地に染み込んでいます」
「それが、何の関係が」
「血を吸った土地は、物語を求めます」
柊は立ち上がり、書棚から一冊の本を取り出した。
ボロボロの本。表紙が破れている。タイトルは『祇園夜話』。著者は「橘小雪」。出版年は大正十二年。
「これを読んでください。特に、三十二ページ」
桐谷は本を受け取り、ページを開いた。
「女が井戸に落ちる。
誰も助けない。誰も気づかない。
女は三日三晩、井戸の中で叫び続ける。
その井戸は、かつて処刑場だった場所にある。
土が、女の声を吸い取る。
土が、女の恐怖を吸い取る。
土が、女の死を吸い取る。
そして、土は満足する。
新しい物語を得たから」
「これは――」
「実話です。大正十四年、祇園で女性が井戸に落ちて死にました。橘小雪が書いた通りに」
柊が桐谷を見た。
「そして、その井戸があった場所も、かつて処刑場でした」
桐谷は本を閉じた。
「つまり、処刑場だった土地は――」
「物語を欲します。血の記憶が染み込んでいるから。そして、その土地に住む者を『語り部』にする」
柊は窓の外を指差した。
「鴨川を見てください」
桐谷は窓に近づいた。
鴨川が、静かに流れている。
「鴨川は、平安時代から処刑場として使われてきました。河原で首を刎ね、死体を川に流す。その数、数万。いえ、数十万かもしれません」
柊の声が、低くなった。
「鴨川の水は、無数の死者の記憶を運んでいます。そして、その水が京都の街を潤している。つまり――」
「京都全体が、血を吸った土地」
「はい」
桐谷は窓から離れた。
「では、僕は――」
「あなたは、この土地に選ばれました。次の『語り部』として」
柊は書斎の奥の襖を開けた。
そこには、古いノートが積まれていた。
「これを読んでください」
桐谷はノートを手に取った。
表紙に、名前が書かれている。「宇野千尋」。
ページを開く。
「私は今、これを書いている。
だが、私がこれを書いているのか、
これが私を書いているのか、
もう分からない。
三日前から、私の手が勝手に動き始めた。
眠っている間も、手は原稿を書いている。
目を覚ますと、机の上に原稿用紙が山積みになっている。
そこには、知らない人の死が書かれている。
そして――翌日、その人が本当に死ぬ」
桐谷は次のページをめくった。
「五日目。
もう、食事ができない。
食べようとすると、手が原稿用紙に伸びる。
七日目。
もう、眠れない。
眠ろうとすると、手が原稿用紙に伸びる。
十日目。
鏡を見た。
私の顔が、誰かの顔に変わっていた。
いや、違う。
私の顔が消えて、『語り部』の顔になっていた」
最後のページには、震える文字で書かれていた。
「もう、私は私ではない。
だが、これを読んでいる次の『語り部』へ。
逃げられない。
書き続けるしかない。
そして――いつか、あなたも私と同じになる。
顔が消える。
名前が消える。
ただ、『語り部』として存在するだけになる」
桐谷はノートを床に落とした。
柊が桐谷の肩に手を置いた。
「私も、同じです」
柊の声が震えていた。
「五年前、京都に引っ越してから、私は『柊史朗』ではなくなりつつある。家族が私の顔を思い出せなくなった。友人が私の名前を呼べなくなった」
「じゃあ――」
「はい。私はもうすぐ消えます。そして、あなたが次の『語り部』になる」
桐谷は立ち上がった。
「拒否します」
「できません」
柊が桐谷を見た。
その目が、初めて感情を宿した。
それは、深い悲しみだった。
「すでに、始まっています。あなたの手が、勝手に原稿を書いているでしょう?」
桐谷は何も言えなかった。
「京都から逃げても無駄です。日本中どこに行っても、血を吸った土地はあります。そして、その土地があなたを呼ぶ」
柊は桐谷から離れた。
「私は、これから消えます」
「待ってください」
「待てません。もう、限界です」
柊が微笑んだ。
「五年間、私は十七人を殺しました。もう、誰も殺したくない」
桐谷は柊の腕を掴んだ。
「じゃあ、どうすれば――」
「書き続けてください」
柊は桐谷の手を外した。
「それが、『語り部』の仕事です」
桐谷は部屋を飛び出した。
第五章 侵食
桐谷は祇園の路地を走っていた。
観光客が笑っている。着物を着た女性が歩いている。
だが、桐谷には見える。
彼らの足元、石畳の下に、無数の骨が埋まっているのが。
桐谷は古書店を見つけた。
看板のない、小さな店。
中に入ると、店主は不在だった。
だが、奥の部屋に明かりが灯っている。
桐谷は奥に進んだ。
部屋の中央に、机がある。その上に、血痕のついたノートが置かれている。
桐谷はノートを開いた。
「これを読んでいるあなたは、次の『語り部』です。
私は、前の『語り部』でした。
名前は――思い出せません。
顔も――思い出せません。
ただ、私が書いた物語だけが残っています。
三日目。もう誰も私を見ない。
鏡にも映らない。
でも、手は動く。
書き続ける。
書かなければ――」
以降、空白ページが続く。
だが、最後のページに、一行だけ書かれていた。
「私は、井戸に落ちました」
桐谷はノートを閉じた。
そして、気づいた。
ノートの血痕が、新しい。
まだ乾いていない。
桐谷は店を飛び出した。
その夜、桐谷はホテルで目を覚ました。
机の上に、原稿用紙が山積みになっていた。
すべて、自分の字で書かれている。
「編集者の同僚、佐々木が駅のホームに立っている。
午後七時十五分。
人が多い。
誰かが、佐々木を押す。
その誰かは――編集者自身だ。
編集者は、自分の意思とは関係なく、
佐々木をホームから突き落とす。
電車が来る。
ブレーキの音。
悲鳴。
佐々木の体が、電車に轢かれる」
桐谷は原稿を破った。
だが、手が勝手に動き、破った原稿を拾い始める。
そして、テープで貼り合わせる。
「やめろ、やめろ、やめろ!」
だが、手は止まらない。
貼り合わせた原稿を、丁寧に揃える。
そして――続きを書き始める。
桐谷の意思とは関係なく、手が原稿用紙の上を走る。
桐谷は自分の手首を掴んだ。
だが、手は止まらない。
桐谷は手首を机の角に叩きつけた。
激痛。骨が軋む音。
だが、手は動き続ける。
桐谷は泣きながら、手が書くのを見ていた。
第六章 実行
翌日、東京。
桐谷は出版社に向かった。手首に包帯を巻いている。
佐々木のデスクに向かう。
佐々木はいた。三十代前半の男。温厚で、誰にでも好かれている。
「佐々木さん」
「あ、桐谷さん。どうしました?」
無事だ。
まだ、間に合う。
「今日、電車に乗る時は気をつけて」
「は?」
「ホームで、押されないように」
佐々木は困惑した顔をした。
「……桐谷さん、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
午後七時。
桐谷は佐々木の後をつけていた。
阻止する。
絶対に、阻止する。
佐々木が駅に向かう。改札を通る。ホームに上がる。
午後七時十分。
ホームは混雑している。サラリーマン、学生、老人。
佐々木が黄色い線の近くに立った。
電車が来る音が聞こえる。
午後七時十四分。
桐谷は佐々木に近づいた。
「佐々木さん」
「桐谷さん? なんでここに――」
午後七時十五分。
桐谷の体が、勝手に動いた。
手が、佐々木の背中に伸びる。
「やめろ!」
桐谷は叫んだ。
だが、手は止まらない。
手が、佐々木を押した。
佐々木の体が、ゆっくりと線路に落ちていく。
「え――」
佐々木の声。
電車が来る。
ブレーキの音。
悲鳴。
桐谷は見ていた。
自分の手が、佐々木を殺すのを。
電車が止まった。
人が集まってくる。
桐谷は逃げた。
ホームを走り、階段を駆け下り、改札を飛び越え、街に出た。
走る。
どこまでも走る。
だが、逃げられない。
自分の手から。
自分の体から。
自分自身から。
第七章 消滅の予兆
桐谷は書くことをやめると決めた。
もう、誰も殺したくない。
消えてもいい。
一週間後。
桐谷は出版社に出勤した。
だが、同僚の反応が変だった。
「あの、桐谷さんって誰でしたっけ?」
新人の女性社員が、不思議そうな顔をしている。
「は?」
「いや、デスクに名前があるんですけど、顔が思い出せなくて」
桐谷は洗面所に駆け込み、鏡を見た。
自分の顔が――ぼやけている。
輪郭が、定まらない。
始まった。
桐谷は会社を出た。
麻衣子に電話をかけた。
「もしもし」
「麻衣子、僕だけど」
「……誰ですか?」
「透だよ。桐谷透」
沈黙。
「すみません、間違い電話ですか?」
電話が切れた。
二週間後。
桐谷は自分のアパートにいた。
だが、大家が部屋に入ってきた。
「ここ、もう誰も住んでないのか」
大家は桐谷を見ていない。
桐谷は大家の目の前に立った。
「見えてますか」
大家は何も反応しない。
桐谷は鏡を見た。
鏡には、誰も映っていなかった。
三週間後。
桐谷は京都にいた。
鴨川沿いのベンチに座っている。
観光客が通り過ぎる。誰も桐谷を見ない。
桐谷は自分の手を見た。
手が――透けている。
もうすぐ、消える。
だが、不思議と怖くない。
むしろ、安らぎを感じる。
桐谷は目を閉じた。
そして――
目を開けた。
桐谷は、柊の書斎にいた。
机の前に座っている。手には、ペンがある。
目の前には、原稿用紙がある。
そこには、文字が書かれている。
自分の字で。
「編集者は、消えかける。
だが、最後の瞬間、彼の手が原稿用紙に伸びる。
そして、書く。
『私は、消えない』
その瞬間、彼は理解する。
『語り部』は、消えることを許されない。
書くことでしか、存在できない。
だから、彼は書き続ける。
永遠に」
桐谷は原稿用紙を見た。
自分が、いつこれを書いたのか分からない。
だが、確かに自分の字だ。
桐谷は立ち上がり、鏡を見た。
自分の顔が、はっきりと映っている。
透けていない。ぼやけていない。
書いたから、戻った。
桐谷は窓の外を見た。
京都の街が広がっている。
美しい街。
呪われた街。
桐谷は机に戻り、座った。
そして、ペンを握った。
終章 変わる筆跡
一ヶ月後。
桐谷は京都に住んでいた。
柊の家――いや、今は桐谷の家だ。
毎日、原稿を書いている。
朝、目を覚ますと、机の上に原稿用紙が山積みになっている。
夜、眠る前にも、机の上に原稿用紙が山積みになっている。
桐谷は、もう覚えていない。
自分がいつ、それを書いたのか。
ただ、書き続けている。
それが、『語り部』の仕事だから。
ある日、桐谷は自分が書いた原稿を見て、気づいた。
筆跡が、変わっている。
最初のページは、確かに桐谷の字だ。
だが、十ページ目あたりから、微妙に違う。
二十ページ目では、明らかに別人の字になっている。
三十ページ目では――
桐谷は、その字に見覚えがあった。
柊史朗の字だ。
いや、違う。
柊の字でもない。
もっと古い、誰かの字だ。
桐谷は書棚から、橘小雪の本を取り出した。
『祇園夜話』を開く。
そして、自分の原稿と見比べる。
同じだ。
三十ページ目の筆跡は、橘小雪の筆跡と同じだ。
桐谷は震える手で、原稿を最後のページまでめくった。
そこには、見たことのない字で書かれていた。
だが――その字は、桐谷の字に似ていた。
いや、違う。
桐谷の字が、その字に似てきているのだ。
桐谷は鏡を見た。
自分の顔を見る。
だが――顔が、ぼやけている。
え?
桐谷は毎日書いている。だから、消えないはずだ。
なのに、顔がぼやけている。
桐谷は原稿用紙を見た。
そして、気づいた。
書いているのは、桐谷ではない。
桐谷の手を使って、誰かが書いている。
橘小雪。
堀内悟。
北条美咲。
宇野千尋。
柊史朗。
そして――桐谷透。
すべての『語り部』が、一つになって書いている。
いや、違う。
『語り部』という存在が、桐谷の体を乗っ取っている。
桐谷は立ち上がろうとした。
だが、体が動かない。
手だけが動く。
原稿用紙の上を、手が滑る。
桐谷の意思とは関係なく、手が文字を書いていく。
「新しい編集者、森下陽菜が京都を訪れる。
彼女は、桐谷透に会いに来る。
だが、桐谷透はもういない。
そこにいるのは、『語り部』だ。
顔も名前も失った、ただの『語り部』だ」
桐谷は叫ぼうとした。
だが、声が出ない。
手が、書き続ける。
「『語り部』は、森下陽菜に原稿を渡す。
その原稿には、彼女の未来が書かれている。
彼女が次の『語り部』になる未来が」
桐谷の視界が、暗くなっていく。
自分が、消えていく。
だが、手は動き続ける。
僕は、もう僕じゃない。
僕は――
桐谷という意識が、消えた。
そして、残ったのは――
ただ、原稿を書き続ける手だけだった。
エピローグ 次の訪問者
十一月、京都。
白川通に面した古い町家の前に、一人の女性が立っていた。
森下陽菜。二十六歳。文藝往来社の編集者。
桐谷透の後任として、柊史朗の担当になった。
だが、柊史朗は行方不明だ。
代わりに、この家に住んでいるのは――桐谷透。
なぜ、担当編集者が、作家の家に住んでいるのか。
それを確かめるために、森下は京都を訪れた。
玄関の引き戸が、半開きになっている。
「桐谷さん?」
返事がない。
中に入った。
書斎に、人影がある。
机に向かって、何かを書いている。
「桐谷さん」
その人物が、ゆっくりと顔を上げた。
森下は、息を呑んだ。
それは――桐谷透、だろうか?
顔が、ぼやけている。
輪郭が定まらない。
まるで、何人もの顔が重なっているような――
「あなたが、森下陽菜さんですか」
その声は、桐谷の声だった。
だが、同時に、別の誰かの声でもあった。
「は、はい」
「これを」
その人物が、原稿用紙を差し出した。
森下は原稿を受け取った。
表紙に、タイトルが書かれている。
『書かれた者たち 完全版』
著者は――空欄になっている。
「これは――」
「あなたの物語です」
その人物が微笑んだ。
だが、その笑顔は、人間のものではなかった。
森下は原稿を開いた。
そこには、こう書かれていた。
「新しい編集者が、京都を訪れる。
彼女の名前は、森下陽菜。
彼女は知らない。
自分が、次の『語り部』として選ばれていることを。
彼女は知らない。
だが、すぐに知るだろう」
森下は原稿を閉じた。
手が、震えている。
「これは――」
「あなたが、これから書く物語です」
その人物が立ち上がった。
「私は、もう消えます」
「待ってください」
「待てません」
その人物が、窓の方に歩いていく。
その背中が、少しずつ透けていく。
「あなたは――桐谷さんですか?」
「違います」
その人物が振り返った。
顔が――完全に消えていた。
「私は、『語り部』です」
そして、その人物は消えた。
跡形もなく。
森下は、一人書斎に残された。
机の上には、原稿用紙が置かれている。
白い原稿用紙。
何も書かれていない。
だが――
森下の手が、勝手に動き始めた。
ペンを握る。
原稿用紙の上に、文字を書き始める。
「やめ――」
森下の声が、途切れた。
手が、書き続ける。
「新しい『語り部』が、誕生する。
彼女の名前は――
いや、もう名前は必要ない。
彼女は、『語り部』だ。
それだけでいい」
森下の顔が、ぼやけ始めた。
輪郭が、消えていく。
そして――
そこにいるのは、もう森下陽菜ではなかった。
ただ、原稿を書き続ける、名前のない『語り部』だけだった。
京都の街は、今日も美しい。
観光客が笑っている。
カップルが手を繋いでいる。
だが、その街の下では――
無数の『語り部』が、今も原稿を書き続けている。
顔も名前も失った、ただの『語り部』が。
永遠に。
終わりなく。
それが、京都という街の、本当の姿だった。
【完】
京都の作家は、締め切りを守らない ソコニ @mi33x
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