if ルート『あまりにも満たされた桜』


ひとりの呪われた女の子がいました。


女の子は小さいころからひとりぼっち。

みんなにもこわがられ

だれにも手をつないでもらえませんでした。


女の子は「ずっとひとりなんだ」と

ぽろぽろ なみだをながします。


けれど ひとりだけ

その手を ぎゅっと 

つないでくれる子があらわれました。


どんなときもそばにいてくれる

幼馴染の男の子です。


女の子はその子のことがだいすきになりました。

それでも呪いはすこしずつ

女の子を鬼に変えてしまいます。


鬼は人を食べるもの。

だから女の子は

だいすきな男の子の前からいなくなりました。


でも───






サァァァ……


濡れた街をゆっくり撫でるように、細い雨の音がカーテンの向こう、窓の外から静かに聞こえてくる。


十一月下旬の東京は日暮れが早い。

空を覆う低い雲のせいで夕方でも夜の一歩手前みたいに暗く見える。

街灯の橙が雨粒に反射して、アスファルトに淡い光の筋を刻んでいた。


ピピピ… ピピピ……


布団の中で、手だけがもぞ…と動く。


トン…


寝ぼけた指先で、

枕元のスマホのスヌーズボタンを何度か空振りして、

ようやくアイコンを押しつけるようにタップする。


ベッドの上で、ゆっくりと目を開ける。

視界の端でデジタル時計が18:07を点滅している。

高校二年の冬、十七歳。


高校進学を機に、俺――佐藤たろうはこの都会の街、東京でひとり暮らしを始めた。


親元を離れて起きる時間も食べるものもすべて自分で決める生活。

それは特別でもなんでもない、どこにでもある「自立」の形で東京での日々は静かに動き出した。


なのに、今日もこうして夕方に目を覚ます。


天井の白い板をぼんやり見上げる。

蛍光灯と外の薄暗さが混ざり合い、部屋の色はどこか沈んで見えた。

布団は重たく湿気を吸い、机には飲みかけのペットボトルと教科書、ゴミ箱からあふれたコンビニ袋。


起きられない朝が増えた。


学校へ行くのがただひたすらおっくうな日もある。

東京でひとり暮らしを始めてから、どこか自分の「調子」みたいなものが少しずつこぼれ落ちていった気がする。


理由は分からない。

ただ、胸の奥だけが水を含んだ布みたいに沈んでいく。


ピピピ… ピピピ……


さっき止めたはずのアラームがまた枕元で同じ音を鳴らす。

スヌーズの短い電子音だけがまだ起きたくない頭の奥をしつこく小突いてきた。


トン…


「……うるさ……」


声にした途端、

胸の中身が空気と混ざって少しだけ軽くなる。


そのとき、ふと胸の奥にひとつの顔が浮かび上がる。



『鈴木すずめ』



自転車の後ろで揺れるふわふわの髪

夕焼けに縁どられた横顔

「ありがとう」と照れた笑顔

並んで歩いた田んぼ道の光


胸がきゅっと…締めつけられる。


ここに来てから、

すずめのことを思い出すのは一度や二度じゃない。


あの子はいま、元気にしているのだろうか。


「……くそ……」


髪をかき乱しながらベッドから起き上がる。



……ピンポーン



間延びしたチャイムの音が、部屋の静けさを不意に乱す。


「……誰だよ、こんな日に」


宅配の予定はない。

訪ねてくる知り合いもいない。


素足で玄関へ向かう。


アパート特有の乾いた空気が

ドアノブ越しの冷たさでさらに際立つ。


ゆっくりと扉を開ける。


ガチャ…───




「─── 久しぶり たろう」




その瞬間、時間が一度だけ止まった気がした。


雨粒を散らしながら、あの頃となにも変わらない笑顔のすずめがそこには立っていた。


濡れた黒髪が肩にしっとり貼りつき、

首筋を伝うしずくが、

淡いクリーム色のワンピースに吸い込まれていく。


雨でところどころ肌に張りついた布の下から、

中学の頃にはなかった女性のラインが静かに浮かび上がる。


胸元の丸み

細くなった腰

濡れた裾が貼りつく脚


街灯の反射がその輪郭を淡く縁取って、少女と大人の境界線が揺れ動いていた。


喉が勝手に鳴る。


「す……ずめか…?どうして…ここに……?」


喉が乾いていたのか、声はかすれた音になってこぼれる。


すずめはふにゃりと微笑み、

足元のパンパンに膨らんだ黒いトランクをポンと叩く。


「来ちゃった♡」


「来ちゃった、じゃねぇよ……!てか…そのデカい荷物はなんだ…!?」


「……じゃあ、入りま〜す!」


「ま…待て待て!ほんとに待って!!」


ワンピースの裾を片手で押さえながら、すずめはトランクを引きずり、「よいしょ」と玄関に足を踏み入れる。

段差にキャスターがつっかえて鈍い音が玄関に響く。


「……あ、もしかして…」


すずめはそこで動きを止め、

濡れたまつげの影の下からずいっとこちらを見上げる。


「……な、なんだよ」


「もしかして、彼女さん……いるの?」


胸の奥が、不意に跳ねた。


「い、いねぇよ!!」


「…今、いないだけ?」


「今も昔もいねーよ!」


すずめの顔がぱぁっと明るくなる。


「よかった。じゃあ——」


濡れたワンピースを揺らして、


 


「入るねっ!」




そのまま部屋へ上がり込み、

黒いトランクをごろごろ引きずって中へ消えていく。

数秒後、部屋の奥から「イカくさ〜い」と間抜けな声が聞こえてくる。

「あぁっ」と声をあげ玄関に取り残された俺は、ゆっくりと理解した。



……来た


……本当に来たんだ



十七歳の俺の世界に、鈴木すずめが帰ってきた。













    『あまりにも満たされた桜』













サァァァ……


さっきより少し強くなった雨の音が、薄い壁の向こうでとぎれとぎれに鳴っている。

玄関から一歩部屋に戻ると、すずめはもう靴を脱いで黒いトランクを真ん中にドンと置いていた。


「…だいたい、どうやって俺が住んでるとこ知ったんだよ」


「晃くんから教えてもらったの」


アイツ…


ガチャ、シャラ……チャックのこすれる高い音。


雨に濡れたワンピースの裾がフローリングの床の上で小さく波打つ。

こっちの許可なんて一言もとらないまま、すずめはしゃがみ込んでトランクのロックを外し、あたかも当然といった顔でファスナーを開ける。


ガチャ…カチャ… ジーッ…


「おい……」


制止の声も届かない。

Tシャツ、タオル、髪ゴム、見慣れないポーチ、マグカップ、歯磨き、ぐしゃぐしゃに詰め込まれた服、クマのぬいぐるみ。

明らかに生活用品っぽいものを次々に引っ張り出しては、床の上に「ほい」「ほい」と並べていく。


「……おまえ、まさか…泊まる気なのか?」


すずめは振り向きもせず、「うん」とトランクの中に顔を突っ込んだまま、ほんの少しだけ首だけこっちに傾けて夕飯のメニューでも聞かれたみたいな声で当たり前に返事を返す。


心臓が変なリズムで跳ね上がる。


「いや、「うん」じゃなくてさ。いつまでだよ」


すずめはそこでようやく手を止めて、くるりとこっちを振り向いた。

濡れた前髪が頬にはりついていて首筋からまだ細い滴が落ちている。


「んー……」


すずめは少しだけ考えるふりをしてから、屈託のない声で答える。


「お金がたまるまでかな〜」


「は?」


思わず間抜けな声が出た。


「いやいやいや、待てよ!

『たまるまで』って、どのくらいだよ。てかさ――」


言いながら、頭の中で一気にいろんな名前と顔が駆け巡る。


「だいたい黒蜜とかさ、鈴木総業の人とか……めちゃくちゃ心配するだろ?おまえがこんなとこまで出てきてんの知ってんのかよ」 


問いかけに対してすずめは「あー……」と気の抜けた声を漏らして、一瞬だけ目を瞬かせてから外の雨音に耳を澄ますようにほんの少しだけ視線を横にそらした。


「そこはだいじょーぶ」


「どこがだよ」


「だって、もう縁切ったし」


軽い声でとんでもない単語を平然と口にする。


彼女はトランクの内ポケットに手を突っ込み、ぎゅっと握りしめていたらしい小さな財布を取り出す。

その中身をぱら、と広げてこちらに見せる。

くしゃくしゃになった数枚の千円札と少しだけじゃらじゃらと音を立てる小銭。


「ほら、今あるのこれだけ~」


笑いながら言うその声が、冗談みたいな軽さをまとっているのに中身の金額だけは冗談にしてはあまりにも少なかった。


「……おまえさ」


喉の奥が、きゅっと詰まる。


「一体どうしたんだよ…」


問いかけても、「んー」とだけ小さく言って視線をそらし、財布をまたトランクの端にぽいっと放り投げると、何も答えないまま再び荷物を取り出し始めた。

「ここで生きていくつもり」の物たちが静かに増えていく。



――――――――すずめ、おまえ…なにがおきて……




忘れもしない。


俺がまだ中学二年生の頃、すずめの親父が突然亡くなったと聞かされたあの日。

葬儀に呼ばれたけど、妙にざわざわした空気の中で俺はどこに立っていればいいのか分からなかった。


あの日を境に、すずめは少しずつ学校にも俺の家にも来なくなっていった。


最初は「体調不良だって」「家のことでバタバタしてるらしい」なんて噂話。

そのうち、「どうも鈴木総業の次期社長(組長)の座をめぐって、亡くなった前社長の再婚相手――鈴木蝶子という人とすずめ嬢が揉めてるらしい」

そんな大人じみた単語だけが断片的に耳に入ってきた。


鈴木蝶子─どこか人を惑わせるような妖しい目つきと、薄暗い色気に上品な花の香りを纏った女。

喪服の黒が似合いすぎる後妻。

三十になったばかりだと聞いていたが、とてもそうには見えず、むしろその歳より遥かに若さに満ち溢れて見えた。

若さと美しさだけを取り出せば彼女をまだ大学生だと勘違いする者もいるだろう。

ただ、その身を包む温度だけはまるで違った。

彼女の周りだけ、甘い花の香りの奥でそっと破滅を匂わすような冷たい翳りが薄く漂っていたのを覚えている。

どこでこんな女性をすずめの親父は見つけてきたのか。


今になって思えば、あの頃のすずめにはもうとっくに何かが起きていたのだろう。

でも、結局のところ俺は彼女の身に何が起こったのか何も知らない。


知っていたのは、すずめと会う時間がどんどん減っていったことと、気づいたら俺の日常から「鈴木すずめ」という存在がするりと抜け落ちていったっていう事実だけ。


やることも、行く場所も、登下校の際に自転車から一緒に浴びていた田んぼ道の風の心地よさも全て失った俺は、ふと空っぽになったみたいな地元の景色に耐えられなくなっていた。


だから俺は、都会に逃げた。


前から密かに憧れていた東京。

父さんに頭を下げて無理を言ってこっちの高校を受験させてもらい、やっとのことで手に入れた新しい景色。

そこで俺は、すずめのいない世界で生きるってなんとなくそう決めていたはずなのに。

目の前では、その張本人が黙々と俺の部屋に「生活」を広げている。


「ねえ、たろう」


トランクの中をほじくり返していたすずめが、Tシャツとタオルとクマのぬいぐるみを両腕に抱えたままひょいっと顔だけこちらに向ける。


「この部屋さ、どこからどこまでが私ゾーン?」


「そんなゾーン設定ねぇよ」


「えー?じゃあさ、ベッド半分と押し入れの下段と冷蔵庫の三分の二は私ので」


「おまえの領土拡大のスピード感どうなってんだよ。てかなんで三分の二なんだよ、残りの三分の一で俺はどう生きろと」


「たろう、コンビニ弁当の墓場みたいに使ってるだけじゃん。供養だと思って譲って?」


「誰の生活を勝手に四十九日で締めようとしてんだよ……」


こうして、俺だけのものだったはずの静かな東京での一人暮らしは終わりを告げ、代わりにすずめと俺の少しだけ歪な同居生活が始まった。


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カタンカタン…ガタンゴトン…


電車の音が遠くから聞こえる。

すでに空は夕方の色彩に染まり、ビル街を黄金色に装飾している。

駅前の広い横断歩道を渡り、人の波から少し外れたほうへ歩いていく。

高層ビルの谷間を抜けると、急にビルの高さが下がって古いマンションや小さなスーパー、チェーンのカフェが並ぶ通りに変わる。

アスファルトには昨夜の雨の名残がところどころに残っており、斜めに傾いた冬の光が揺らぎながら映り込んでいる。


いつもと同じ帰り道、景色は何も変わっていないはずなのに今日はどこかひとつひとつの輪郭がはっきりとして見えた。


今日、俺は珍しく朝から学校にいた。

その理由はひとつしかない。



「――たろう、起きて〜!朝だよ!…あ〜さ!!」


「……今、何時…」


「五時半。すごい、ちゃんと起きれたね!」


「……ニワトリすぎる…」


昨夜、頑なに同じベッドで寝ようとするすずめとそれを一貫して拒み続けた俺。

最終的にベッドはすずめ、自主的に俺が床にマットを敷いて毛布で寝るという配置に落ち着いた。

すずめは最後まで「一緒にベッドで寝る!」と断固反対と言いたげに口を尖らせていたけれど、同じ布団に入るだけの余裕なんて十七歳の思春期男子の俺にはなかった。


照明を落としたあと、すぐ頭上から聞こえてくる寝息の近さを意識してしまい浅い眠りを何度も行き来したのは、間違いなくこのニワトリだか雀だかよくわかんないやつのせいだと思う。


「たろうがこのまま布団にくるまって、一日が終わるのは見たくないな…」


朝、寂しそうにこぼれた彼女の一言に反論の言葉はうまく出てこなかった。


誰にも起こされず、誰にも見つからず、すずめと二度と再会できなかったもしもの朝の焦燥感が、一瞬だけ頭をよぎる。


「……わかったよ…」


こうして、今にいたる。


そろそろ二階建てのアパートが見えてくる頃だ。

今朝、すずめは「今日から私はバイト探し!」とやけに自信満々な顔で俺と同じようなタイミングで外に出ていった。


合鍵は渡してあるがもう戻っているのだろうか。

初めての都会のはず。

迷わないか心配だが、さいあくスマホも持ってるはずだし大丈夫か。

そもそもあいつは筋金入りのお嬢様育ち。

バイトどころか、面接の受け方ひとつ知らないんじゃないか……。


すずめと再開できたのは正直嬉しいが、バイトが決まらずあの狭い部屋でご乱心されても困る。

俺も平穏な生活を取り戻すために少しくらいバイト探しを手伝ってやるべきかもしれない。

あいつのことだ、何も考えずに変なバイトに突撃しかけない。


……それに、昨日のすずめの様子もまだ頭の片隅に引っかかったままだ。

トランクひとつ抱えて現れて「縁を切った」と笑ってみせたあの表情。

どう考えても、あれは強がりにしか見えない。

今にして思えば、「一緒にベッドで寝よう」と軽く口にしたのも中学までのすずめからはとても考えられない行動だ。

あの子の心の中と人生で、今いったい何が起きているのか。

話したくなさそうなのは分かるが、しばらくは目を離さないほうが良さそうだ。


そんなことを考えながら、ゆっくりと自分の部屋があるアパート二階への階段を上る。


鍵を回し、ドアを開ける。


「あっ、おかえり〜」


すずめが、俺のベッドの端に座り

膝の上の「紙束」を、がっつりと読み込んでいた。


「————あ…」


しまった、「それ」を仕舞うの忘れてた。


———そ、それは…!!やべぇやつ……!!!!


……それはいわゆる、

俺自身が日々の生活の中で出会った人たちとの会話や、そのとき感じた自身の心の動きをそのまま言葉にした

———「エッセイ」と呼ばれる自作の書き物だった。


誰にも見せるつもりはない。

どこにも出さないし、出せるわけもない。

おそらく人生で一番、人に触られたくない種類の文章のひとつ。

きっと、これから先の人生で若かったころの黒歴史として祭り上げられるものだ。


それを…

よりによって、


よりによって…!!


俺のエッセイが最悪の奴の手に渡っちまった…!!



「…おい待て!!それ返せって!!マジで返せ!!」


俺が飛びつくと、すずめは紙束を胸に抱えてベッドをズザッと全力で後退した。


「やだ!!これ……すごいんだもん!!もっと読ませてよ!!」


「だからそれが一番困るんだよおおおお!!!」



数分後、


短い攻防のあと、ふたりの荒い呼吸音だけが狭いアパートの居間で流れる。

その中で、女の子は紙束を胸の前でそっと抱き寄せて口を開く。


「……ねぇ、どうしてこれ…書こうと思ったの?」


見つめる目が妙に優しい。

そのやわらかさに嘘をつくのがどうも嫌で

つい、本音で答えてしまう。


「……なんていうか……忘れたくなかったんだよ。

人といついきなり別れることになるとか…

分からないだろ。

だから、その時どんな人に会って…何を思ったか…

ちゃんと書き留めておこうって…。

気まぐれで始めたら、結構書いちゃっただけで…

その……」


あの横顔——

田んぼの光に縁取られた女の子の笑顔がはっきりと浮かび上がり、胸がきゅっと苦しくなる。

彼女の顔を見たら表情に出そうで視線を落とす。


「すごい…すごいよ…!」


「…え?」


その声が、まるで胸の奥にそのまま触れてくるみたいに優しく広がる。


「たろう…やっぱり変わった…!

昔もカッコよかったけど…今はもっとカッコいい…!

ちゃんと…ちゃんと人のこと好きになれたんだね…!

気持ちをこんなふうに言葉にできるなんて……

うん…すごい…すごいよ……!

とっても素敵…!素敵だよ…!

カッコいいよ………!たろう………!」


彼女はなにかを噛み締めるように、

なぜかどこか切なげに、大袈裟に幼馴染の青年を褒める。

少しそれが不自然だと思ったが、それよりも青年はむず痒かった。


「や…やめろよ、なんだよいきなりらしくない」


照れ臭さに耐えきれず視線をそらすと、

窓の向こうで沈みかけた夕日が最後の金色を街の輪郭に落としていた。

光はゆっくりと薄れていき、空の端で藍色がじわりと滲みはじめる。

その境い目だけが、ほんの一瞬だけ世界と部屋とその中の二人だけを鮮やかに照らす。


「……たろうも、たろうのお父さんに似てきたね」


「それ、褒め言葉じゃねーぞ」


結局この日、彼女は寝る直前まで、

子どもが満点のテストを持ち帰った日の母のように

ずっとご機嫌に笑ってた。


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夜更けの空気が静まり返るころ、

俺とすずめは昨日とは違い同じベッドで寝ていた。


すずめの肩がほとんど触れる距離にあって、その体温だけで心臓の拍が落ち着かない。


「……もしかして、眠れないの?」


暗がりで、すずめがこちらへ小さく顔を向けた。


「べつに……」


正直に言ったら負けな気がして声が変に小さくなる。

すずめはふふっと笑って、少しだけ布団を寄せてきた。


「しょうがないなぁ…寝れないたろうのために…

……子守唄、歌ってあげる」


「子守唄…?」


息を飲む前に、彼女は囁くように歌い出した。


「ねむれ ねむれ  ちいさい ことり」


「きょうの おそらは  あたたかい」


その優しい歌声が、眠れずに固まっていた呼吸を少しずつほどいていく。


「ねむれ ねむれ  ちいさい ことり」


「かあさんどりは  そばにいる」


すずめの体温をすぐ隣で静かに感じられる。


「やすめ やすめ  ひかりの なかで」


まるで白い泡粒になって天井へ昇っていくように


「あしたも また  なかよく すごそう」


歌の余韻だけが夜に溶ける。



「……なに、その歌?」


「昔ね、一人で寝るのが寂しくて泣いてた私に

よく黒蜜が歌ってくれてたんだ。

これ聞くとね…暖かい気持ちになれるの…」


「あの武闘派ゴリラが…?想像したくないな……」



少しの沈黙、


「……よかった」


すずめがぽつりと呟く。


「……よかった、たろうに彼女がいなくて」


「私、たろうのこと……ずっと好きだったから」 


「……え、えええええええええええ!!??」


ガバッとたろうは身体を起こす。

すずめは少し照れたように笑う。


「気付いてなかったの…?

たろうって昔から鈍感だったもんね……」




——違う


本当は

すずめが俺のことを好きなんじゃないかって


ずっと、どこかで思っていた


日立出にいた頃から、

ふとした瞬間の視線とか…

名前を呼ばれたときの声とか…

その全てに、その気配を感じていた


…でも


それを確かめるのがこわくて、

幼馴染の関係を壊すのが嫌すぎて

見ないふりをしてたんだ


本当ならこういうことは

女の子じゃなくて

男の俺から言うべきのもの


なのに俺は女の子に、

すずめに先に言わせてしまった


これは恥だ

俺は最低なことをしてしまった


それに報いるには

すずめがくれた言葉以上のものを

俺は曝け出さなきゃいけない。


「……すずめ」


呼んだだけで、喉の奥が熱くなるのがわかった。


「俺も……すずめのことが好きだ。

すずめが、俺のことを好きになる前からずっと…

…ずっとずっと前から…すずめのことが好きだ」


「ほんとは……

日立出から出て東京に上京したこと…後悔してたんだ」


自分でも驚くほど、声が震えていた。


「あの時……

すずめはなにか…大変なことで悩んでいたのに…

俺はぜんぜん……なにもできなくて……

ほんとは力になりたかったのに…なにもしないで…

ごめん…ごめんなさい、側にいれなくて…

ごめん…すずめ……

ほんとうに……ごめん…な……」


今にも泣きそうな後悔の吐露に、すずめは小さく首を振る。


「……ううん、たろうはなにも悪くないじゃない。

あの時の私に…たろうができたことは何もないよ。

それにたろうは…

あの頃からずっと、私を助けてくれてたよね。

言わなくちゃいけないのは私のほう、

ずっと助けてくれたこと…すごい嬉しかった…

私にはたろうのこと…ずっと王子様に見えてたの。

私を守ってくれる大好きな人…

ずっと守ってくれてありがとう」


その声は優しすぎて


だからこそもう、耐えられなかった。


「すずめ…!鈴木総業でなにがあったんだよ……!」


何も言わない。


「俺は……今から何ができるかわからないけど…!

それでも、お前のためならがんばって……!」



すずめは、思い出す


鈴木蝶子との会話を。



「……ほんまに無能やね、すずめちゃん」


「見てて哀れになるわ。せやから守ってくれる若い衆もみんなくそみそ死んだんや、全部お前のせいやで? 」


「もう生きてる価値ないやろ? さっさと死んだらええ」


「かわいそうやなぁ、欲かかずにあの幼馴染の男の子について行っとけばボンクラの人生でも命だけは拾えたかもしれんのに」


「…へぇ、気が変わったん?まだ生きて彼に会いたいって? ……ふーん、そうなん?」


「いやいや、もう幼馴染なんかお前のこと忘れてるで?

とっくに都会のキレイな女の子とベッドの上でもんもんやってると思うわ。

毎日違う子抱いてるんちゃう? お前みたいな田舎臭いガキのことなんか、ちり紙以下やろ」


「へぇ〜、それでも会いに行きたいん?

健気やなぁ、すずめちゃん。泣けてくるわ〜」


「でもなぁ、いつでも殺せるのにただで生かしてやるのも癪やし……せや! 何人か男に抱かれてから行ったらええ!すずめちゃんのくっさい身体…もっと汚してから追い出したろ!」


「……ドスなんか自分の首に当てちゃって…

……別に悪い話やないやん?

都会の女の子のテクニックに勝てるように、

ちゃんと「勉強」してから行きなさいという母親からの親切なアドバイスやん。

幼馴染に会いたくないん? それとも今死んだほうがええ?母親の言うこと聞けや、クソガキ」


「……ふーん…ほんまに死ぬ気なんや…まぁええわ。

この街で多少は有名なあんたが死んだら死体の処理も面倒やしここら辺で許したる」


「ただし、鈴木総業からは完全破門。持ってくもんは最低限やし日立出も出禁。顔見せたら即ぶち殺すからな? 二度とこの街に戻ってくるなよ、ゴミ」


「……安心しぃ、あんたぐらいの年の男なんて猿やで。ちょっと身体で誘惑したら、便器みたいな顔してるすずめちゃんでも余裕で抱いてくれるわ。母さんはいつでもあんたの味方やからね」


「あ〜でも、幼馴染に抱かれなくて路上で凍え死ぬすずめちゃんも見てみたいわ〜。ついて行ってもええ?」


「まぁええわ、せいぜい残りのゴミみたいな人生、這いつくばってでも楽しんでな———名無しのすずめちゃん?」





「……すずめ……すずめ、大丈夫か?」


「………たろう」


何度も彼女の名を呼びかけて、気づけば喉が少し痛んでいた。

彼女はゆっくりと反対側へ身体を倒し、背中を向ける。


しばらくして、布団越しに小さな声が返ってくる。


「……ねぇ、たろう

 私のことも……エッセイに書いてよ」


「…え?」


「……私、たろうに……忘れられたくない」


その声は誰にも届かない祈りのように細かった。


「何言ってんだ…!

忘れるもんか…忘れるわけないだろ…!」


彼女の祈りを叶えるように、迷いなく青年は答える。

その言葉が届いた瞬間、

女の子の背中が、かすかに揺れた。


「ありがとうたろう…


あなたがいてくれるから———


  ——————私は生きていける」



「……すずめ?」


しかし、もう返事は返ってこなかった。

眠ったのか、それとも言葉を隠してるのか。

背中はただ小さく息をするだけ。


どうすることもできず、

しばらくその背中を見つめ続けた。


やがて疲れに負けて布団に戻り、意識が落ちるように目を閉じる。


部屋の灯りが落ち、夜の気配が静かに満ちていく。



——眠りについた青年の隣で



女の子は声を殺して泣いていた。

 


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「……ん」


いつもより静かな目覚めだった。

カーテンの隙間から柔らかな日差しが溢れる。

ぼんやりと天井を見つめて、布団の温度を感じて

それからようやく横を向く。


――――――いない


昨日まで隣にいたはずのすずめの姿が、どこにもいない。


「――――すずめ!?」


勢いよく布団から飛び起きて部屋を見渡した、そのとき。


トントントン…


「あ、おはよ。大声出してどうしたの?」


髪をひとつにまとめたすずめが、キッチンに立って大根を切っていた。

炊飯器はコトコトと湯気を吐き、

フライパンでは卵焼きがじゅっと音を立てていて、

味噌汁の鍋のふちでは細かい泡がポコポコと浮かぶ。


たろうは言葉が出ないまま、しばらくその光景を見つめてから声を出す。


「……なにしてんの?」


すずめは箸で卵焼きをくるりと巻きながら答える。


「朝食作ってるの。

ほら、今日、新宿御苑行くんでしょ?

そろそろできるから準備してきてね」


「……よかった……」


脱力するたろうを見て、すずめは少し首をかしげた。


 


―――― 新宿御苑


「わぁ〜、すごいね!紅葉がいっぱい!」


「おー、すごいなこりゃ」


門をくぐった瞬間、

都会の街並みが一段階、静かに色づく。


頭上の枝が大きく弧を描き、

朱色も、黄金色も、深い赤も、

まるでひとつの絵の具皿みたいに溶け合っていた。


都会の真ん中とは思えない

湿度をふくんだ冬の光がゆっくりと落ちてくる。


「あははは、たろうも早く!」


すずめは駆けるように紅葉のトンネルへと入っていき枝の下でくるりと一回転する。

落ち葉がふわりと舞い上がり、空気まで柔らかく染まっていく。


たろうはその後ろ姿に少しだけ息を飲んだ。


昨日あれほど儚げに見えた女の子が、

まるで何事もなかったかのように陽だまりの中で笑っていた。


その明るさが、少し怖くなるほど眩しかった。


「ねぇ、見て! 桜咲いてる!!」


少し先に駆け出していたすずめが、ぴょんぴょんとなにか花のついた枝の木を指さして騒いでいる。


「いやいやいや、さすがに十一月に桜は咲かねーだろ………ってうぉ!?」


目を凝らした瞬間、たろうは固まった。


すずめが指さした先——

十一月の空の下に、たしかに桜と思われる小さな淡い花びらがふわりと枝に揺れていた。


「す…すげぇ…桜咲いてる…日本終わった…」


ここ数年、日本の季節感が狂ってきてるとはなんとなく感じていたが…

まさかこんな形で日本への憂いを確信するなんて…

桜咲いちゃった…!


「十月桜だよ」


背後からやさしい声がした。

振り向くと、葉っぱ柄の帽子を被ったおじいさんが微笑んでいた。


「この時期に咲く品種なんだ。春より控えめだけど、いいもんだよ」


「へ〜、そんな桜もあるんですね!たろう知らなかったんだ〜」


「マジかよ日本始まったな」


さっきまで同じく知らなかったはずのすずめにちゃっかりからかわれながら、たろうは日本の未来に安堵した。


 


紅葉のアーチをゆっくり歩く。

踏みしめるたびに乾いた葉がかすかに鳴る。

すずめは前を歩きながら、赤や黄色の揺れる枝を見つけてはかすかに微笑む。

すずめは都会の景色よりも自然のほうが、

田舎のほうが好きなのかもしれない。 

その横顔は透明な光をまとっていて、それを見るたびに胸の奥で小さな痛みが生まれる。


————この子を泣かせたくない


その言葉がはじめて

「好き」という感情の外側に出て、

もっと静かで、もっと深い形で胸の底に沈んでいった。


歩きながら、ふと気づく。

すずめが先ほどから正面をじーっと見つめて静かになっている。

前を見ると、前方の遠くにカップルが並んで自然に手を繋いでいた。


その影をぼんやり見ていたら、すずめの右手がいつもより妙にぷらぷらと揺れていることに気付く。


数歩分の思考の後、そっと手を伸ばし———


———ぎゅっと、彼女の手を繋いだ。


彼女は何も言わなかった。


けれどその横顔の耳だけが、ほんのり赤く染まっていた。


————絶対に離すもんか


そんな決意を、冬の光の中で静かに固めた。



すずめはあれから、個人経営のハンドメイドの雑貨店で働くことになった。そこにいた店主の女性がよくしてくれたらしい。

冬のマフラーを編んであげるね、と嬉しそうに笑っていたのを覚えている。



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「……はぁ…はぁ…早く帰らなきゃ」


今日は12月25日、

クリスマスの夜であり…すずめの誕生日だ。

本屋でのアルバイトを終えた俺は、急いで家路へと向かっていた。

東京に珍しく振っている雪は、きめ細かく舞いはじめて街灯の光の中で静かにきらめいている。


すずめは今日の朝から妙に暗かった。

誕生日だというのにいつもの調子で笑うこともなく、どこか遠くを見つめて暗い顔で沈んでいた。

もしかしたら、俺がすずめの誕生日を忘れていると思っているのかもしれない。


「(これを見たら喜んでくれるかな…)」


帰り道のケーキ屋で小さな苺のショートケーキを買った。

ポケットの中には——小さな指輪のケース。

高いものじゃないが、きっとカップルってこういうものも付けるだろう。

大げさでなくてもいい、ただ「これからも一緒にいたい」という気持ちを形にしたかった。


雪の歩道を小走りに家へ向かう。

すずめの笑顔とぬくもりを思い出しながら、「今日は笑ってほしい」と何度も心の中で繰り返した。



ガチャンッ


「ただいま。ごめんすずめ、遅くなった!」


玄関を開けると、リビングの明かりが柔らかく灯っていた。

すずめがふっと顔を上げる。


「……おかえり」


その声は、ほんの少しだけ安堵しているように聞こえた。

でも、

たろうが抱えているケーキの箱に気づいた瞬間——


すずめの表情が、完全に止まった。


「……それ……」


「ケーキ買ってきたよ。すずめの誕生日だからな、なんか朝心配してたけどちゃんと覚えてたぞ俺は」


言いかけた途端、すずめの唇が震えた。


「みんながね……」 


声が細い。


「……私のお誕生日パーティー……しようって……言ってたの……」


「……すずめ…?」


「私のせいなの……私が、無能だから……」


「……私が無能だったから……みんな死んだの……!」


次の瞬間、胸の奥に押し込めていたものが決壊したようにすずめの目から涙があふれた。


「ひぐっ……ひっく………」


「私がっ……私が無能だからぁっ!!」


「私が無能だからっ……みんな……みんな死んじゃった……っ!!」


「うあああっ……うぁああああっ……!!」


彼女は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。

肩が激しく上下して息が詰まり指先が震えて唇を噛んでも嗚咽が漏れてしまう。


「(みんな………黒蜜は? 反田さんは? 「アイツら」は……!?)」


たろうには意味がわからなかった。

でも、すずめの涙だけは

どうしようもないほど本物だった。


だからただ、抱きしめることしかできなかった。


慰める言葉はどれも薄っぺらく思えてしまって、そばに居ることでしかもう、この世界の「呪い」から彼女を守る術をたろうは知らなかった。




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すずめは小さく鼻をすすりながら、濡れた瞳をたろうに向けたままゆっくりと体を起こす。


部屋の中は静かで、彼女の息づかいだけが聞こえる。 頬はまだ熱を帯びていて涙の跡が淡く光っていた。


「……たろう」


すずめは震える指先で、たろうの頬にそっと触れた。

その手のひらが、ゆっくりと滑って、首筋へ、鎖骨へと降りていく。


たろうは少し驚いたが、何も言わずにただ彼女を見つめ返した。目が合うたびに、胸の奥が熱くなる。


すずめは小さく息を呑んで、ゆっくりと体を寄せる。


距離が縮まる。

息がかかるほど近くて、

震える唇が、そっと重なった。


「…………んっ……」


すずめは自分から深く求めて、舌を絡め息を奪うようにキスを重ねる。


灯りが消える。

小さな吐息が漏れて、

ふたりは自然と布団のほうへ移動して倒れ込んだ。


服が一枚、また一枚と静かに落ちていく。

肌と肌が触れ合うたびに彼女は小さく震える。


すずめはたろうの胸に手を這わせながら、

熱っぽい瞳で見上げて囁いた。


「……ねぇ」

「……もっと、近くにいて」

「……ぎゅってして……全部、感じたい……」


答えの代わりに、彼女を強く抱きしめた。

ふたりは重なり合い、ゆっくりとひとつになっていく。


温かくて、柔らかくて、

どこまでも深く、溶け合うような時間。


すずめは小さく息を乱しながら、

たろうの背中に爪を立てるようにしてしがみついた。


「……もっと……」


掠れた声が、熱を帯びて震える。


「…もっと激しくして……」


ふたりの影が重なり合い、激しく揺れて、

息が途切れるほどの熱が部屋を満たしていく。


すずめは目を閉じて、ただ彼にしがみつく。

震える吐息が甘い響きに変わって零れ落ちる。


そして二人は、最後まで溶け合った。


それからどれだけ時間が過ぎたのか

ふたりにはもうわからない。

最後にすずめの睫毛が小さく震えて

一粒の雫がこぼれ落ちた。




鼓動がようやく静まって、

かすかに揺れるカーテンが夜の冷たい空気を運んでくる。


すずめは布団から上体だけを起こして、

細い指でカーテンの端をほんの少し摘んだ。

その隙間から夜の光がこぼれ落ちる。


「……雪、止んでるよ」


囁くような声。

冷たい空気を吸い込むたび、肩がゆっくり上下する。

布団に座ったまま、すずめはそっと首を傾けて覗くように窓の外を見つめる。


「………見て、月がすごいきれい」


雲間から姿を現した月は、

雪を吸い込んだあとの世界を静かに洗うように

彼女の頬の涙の跡を淡く照らす。


「あぁ、すごいきれいだ……」


たろうも布団の上で身体を起こし、

すずめの肩越しにその光を見た。

 


「————————————きれい」



同じ瞬間、まったく別の場所で。

純白のメイド服を着た赤毛の女の子が、

まるで月に憧れるように

見上げながらぽつりと呟いた。


片手には黒いネコミミのニット帽。

それを静かに足元へ置くと、

女の子は崖の展望台の手すりに近づき


身を乗り出して飛び降りた。



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数年が過ぎた。


春の匂いが街全体にやわらかく満ちている。


日曜日の午前、赤ちゃんを抱っこ紐に固定しながら住宅街の先にある小さな公園へ向かって歩いていく。


桜の花吹雪、道端にひらりと落ちる花びら、朝日に透ける洗濯物、日なたでうとうとする猫、横断歩道で手を上げる幼児とその母、カンカンと鳴る踏切と通り過ぎる電車、どこかの家から聞こえる小さなピアノ練習曲。


春の空気が満たされている。


二十歳になった青年、佐藤たろうは——

あれから、東京にある父方の祖父母の家を譲り受けた。


高校を出たあと、すぐに働き始めて

気づけばこうして家族を抱えて春の街を歩いている。


家の玄関で見送ってくれたすずめは、赤ちゃんのための編み物を仕上げるまで出られないらしい。


公園はもう賑やかだった。


たろうは赤ちゃんを自分の膝の上に乗せるように移動させてからベンチに腰を下ろした。


子どもたちが真剣な顔で砂の山を作ったり、

「ここは秘密基地!」と決めたらしい場所に枝を立てたりして、世界のすべてをその小さな手の中に収めようとしていた。


ベンチのそばでは三輪車がカラカラと軽い音を鳴らしながら通り過ぎる。

シャボン玉を吹く少女の前では、春の風がいくつもの透明な球を浮かせて陽光の中で虹色に揺らしていく。


すべてが、今日という一日の続きが永遠に続いていくかのような穏やかな春の光景だった。


だから見つめられた。 



























👁️ 👁️



















「あれ、たろうくん?」


「鷹男さん?」


黒いスーツに身を包み、穏やかな笑みを浮かべた男性——鈴木鷹男が、まるで昔と変わらない端正な顔立ちのままこちらへ歩いてくる。


公園の入り口のほうには、黒いベントレーが静かに停まっていた。

窓は濃くスモークが貼られていて中の様子はなにも見えない。


「久しぶりだね、たろうくん。あれから元気だった?」


「お久しぶりです、鷹男さん。どうしてこんなところに?」


「取引先が近くてね。商談まで少し時間が空いたから車で移動してたら君の姿が見えたんだ」


「そうだったんですね。あの、それで……昔いただいた腕時計、本当にありがとうございました」


「はは、懐かしいね」


「あの時計、売ったらびっくりするくらい高くて……今の生活でもけっこう助けられてます」


「それはよかった……やはり助けになれたようだね」


「やはりって……まさか鷹男さんはここまで見越して……?」


「僕はね、先を読むのが上手いんだ」


彼の手首には、また別の腕時計が巻かれていた。

黒いスーツの袖から覗く時計は、見ただけで値段の想像がつかない。

革靴も仕立ての良いものだ。


「鷹男さんって……どうやったらそんなふうに金持ちになれるんですか?」


聞くつもりはなかった。

けれど、気づけば言葉が滑り出ていた。

鷹男は少しだけ笑って答えた。


「簡単なことだよ。——誰にでも、「夢」を見せるんだ」


「夢……?」


「客にも、働いてくれてる子たちにもね。

希望や憧れ、性愛に承認、背徳と大義、金欲に安心に未来…。

みんな何かに依存して生きてるし、依存して生きてない人はそれはそれで虚しくて蜜を与えれば簡単に依存する。

これが簡単にできるようになれば、カネなんていくらでも湧いてくるよ」


それは甘い砂糖菓子みたいな言葉のはずなのに、

妙に冷たく響いた。


鷹男は続けた。


「でもね、たろうくん。君は今のままでいいと思うんだ。一歩ずつ積み重ねて、守りたいものを守って……それで十分に幸せになれる。今君が手にしているものはね、金持ちがいくら札束を積んでも辿り着けない幸せな未来なんだよ」


「……」


「それに——僕に憧れるのはやめておいた方がいい」


春の風がそよぐ。

桜の花びらが一枚、鷹男の肩に落ちてはらりと転がった。


「僕は所詮、“鬼子”だ」


そう呟いた彼の横顔は、どこか遠くの景色を見ていた。


「じゃあ、行くね。またいつか」


ひらりと手を振り、鷹男はベントレーへ戻っていった。そして、黒い車体は音もなく住宅街の向こうへ消えていく。


春の空はよく晴れていた。

子どもたちの笑い声が遠くから転がってくる。

違う家族の赤ん坊はベビーカーの中ですやすやと眠っている。


「(……いい日だな)」


たろうは、ゆっくりと空を見上げた。

桜が風に揺れていた。



——そうだ、今度みんなで花見に行こう



家族で一緒に



それだけで、十分すぎる未来だ。



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「よし…」


リビングの椅子に、すずめは静かに座っていた。


編み終えたばかりの小さな毛糸の帽子が膝にあり、

仕上げの糸を結び終えた指先がほんのり温もりを残している。

髪は高い位置でひとつにまとめられ、まるで舞台袖で呼吸を整えるバレエ少女のように一筋の光を集めて凛としていた。


「……お弁当、作らなきゃ」


小さく呟き、すずめはキッチンへ向かう。

まな板を取り出そうとしたとき——


背後から、ふわりと風が流れこむ気配がした。



……窓、閉め忘れたかな。



トトト…


軽い足取りでリビングへ戻ると

大きな窓が半ば開いており、春の風が柔らかく揺れていた。



私は、罪人だ。


どれだけ時間が経っても、

過去は骨の形のまま胸の中に残っている。


あの家で流された声も、匂いも、沈黙も

全て、私の中でまだ「呪い」として生き続けている。


何一つ、忘れることはできなかった。


たろうと別れたあとも、

本当は忘れたかったわけじゃない。


忘れられなかっただけ。


思い出すたびに胸が裂けるほど苦しいのに、

それでも私は、あの日々を手放せなかった。


私はたろうを捨てきれなくて、

“鬼子”には戻れなかった。

  

冷たく切り捨てられなかった。

罪を罪のまま抱えて歩くしかなかった。

その弱さが、無能さが

みんなを殺してしまったのだろう。


本当は、私はひとりで死ぬべきだった。


あの家の血に沈んだまま終わるのが、

本当は正しいはずだった。


なのに——たろうに会って、私は救われてしまった。


この数年間

 


私はあまりにも満たされてしまった。




サァァァ………



風が頬を撫でるように通り抜けて、

どこかで桜の揺れた残響が耳に触れる。



————————それにしても…



「……それにしても、ほんといい風。


………そう思わない?



——————————————レオくん」




「—————お久しぶりです、お嬢」




金髪、黒い帽子、ナイロンパーカー。

礼儀正しい無表情の奥にどこか苦い影を宿した青年が、右手に銃を持って立っていた。



「すいません、「上」からの指示です」



「……私の子も、殺すの?」



「いえ、「上」からは……あなたの命だけ、との命令です」

 


「そう……ありがとう。あなたも大変ね」



その青年は冷静を装っていたが、動揺を隠しきれてはいなかった。


——ああ、ほんとうなら


春になれば、赤ちゃんはきっと最初の言葉を覚えるだろう。


夏には三人で海に行って、赤ちゃんが怖がる波にたろうが大げさにびしょ濡れになって笑わせてくれる。


秋になれば、ベビーカーと落ち葉の上を歩きながらどんぐりを拾って遊ぶ。

 

冬には、また皆でケーキを囲んで来年の話をする。



当たり前で、小さくて、でも――眩しいほど尊い未来。



たろう、ごめんね


私、あなたの隣で生き続ける強さを


最後まで持てなかった。



赤ちゃん、ごめんね


あなたの成長を、ずっとそばで見たかった。


抱きしめて、名前を呼んで、笑ってほしかった。



ただ、それでも



彼女は、レオのほうへ堂々と振り向く。



その澄みきった微笑みには、恐れも後悔も「呪い」さえもはやなかった。



「私にはもったいないくらい



あまりにも満たされた、とても幸せな人生だった」



カチャ。



————————————バァンッ!




視界が、揺れる。

 


彼が走って逃げていく。



赤ちゃんのおもちゃがひとつ、光を受けてコロコロ転がる。



指先で、おもちゃに触れる。



カラカラカラ……



「……ね……むれ……ちいさい……ことり……」



——たろう……ごめんね…あなたの隣にいられなくなることだけが、心残り

 


「……きょうの……おそらは……あたた……かい……」



——あなたがくれた日々は、どんな空よりもあたたかかった



「……ね……むれ…………そばに……いる……」



——赤ちゃん……あなたを抱きしめられなくて、本当にごめんなさい



「……やすめ……ひかりの……なかで……」

 


——どうか、ふたりで幸せになって…私が願えるのは…もうそれだけ

 


「……あしたも……また……なかよく……すごそう……」



——私ね……本当に…本当に、満たされてたよ



——……あぁ、でも



ひとつだけ



ほんのひとつだけ……心残りがあったかも




「…………おたんじょうび……パーティ………したかった……な……」




窓辺から春の風が吹きこみ


 

桜の花びらがひとつ



すずめの髪に、静かに落ちた。






     


    if ルート『あまりにも満たされた桜』


         

                   END





 


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2025年12月7日 18:00

幼馴染を食べちゃいましょう あまもよう @aaa777111

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