第9話

 それはなんだかよくわかる気がした。

 人間じゃないのに、心を強く惹かれてしまう。この子と一緒にいきていけたら、と幼い紀少年が思ってしまったのも仕方ないだろう。ひおという存在は強く人を引き付ける。


 最初の案内どおり、ひおのいたという海には一時間ほどで到着した。

「海!」

 めったに見ることのない景色についはしゃぐ三井を横に、紀はじっと海の彼方へと視線を送っていた。その横顔がほんの少しだけ硬い。

「紀さん?」

「はい」

「……大丈夫ですか?」


 心配になって声をかけると表情をやわらげ「大丈夫ですよ」と答えた。

「久しぶりに来たので、ちょっと懐かしくて」

「そうですか」

「ひおも、つれてきてあげればよかったかな」

「……そうですね」


 とはいえ、人魚は水がないと生きていられない。車の中に大きな水槽を持ち込むことは難しいし、なにより誰かに見られたら大変だ。大騒ぎになってしまう。

「もうすこし先に行ったところにぼくが預けられていた家があります。行ってみますか?」

「はい」


 もう一度車に乗り込み10分ほどでそこへは到着した。

 人が住まなくかなりの年月が経った建物はすっかり朽ち果て、雑草がはこびり蔦が絡まって人の立ち入りを強く拒んでいるかのようだった。

 昔はきっと豪奢な佇まいだったのだろうと思わせる風景に三井の遠い記憶がチカチカと点滅した。


「……あれ、ここ……?」

「もう使われなくなってかなりたちます。入ってみますか?」

「……はい」

 この先へは立ち入らないほうがいいと本能が訴えている。きっと取り返しがつかないことになる。そんな予感がする。

 知らないほうがいい。ひおに会えたことだけに満足して帰ればよかったのだ。

 だけど抗えない何かに手を引かれるように三井は紀の後についてその家の中へと足を踏み入れた。


 朽ち果てた家の中にはまだいくつかの調度品が残り、楽しかった時間を眠らせている。

「ここ、最後はホテルとして使われていました」

「ホテル、ですか」

「はい」

 慣れた足取りで海に向かって解放されている窓に紀は近づいていく。外に広がるテラスには階段がついていて、このまま海に出ていくことができるようだった。

「ぼくの部屋はこの上だったんです。今は危なくてもう登れませんけど、同じように海に向かって開けていた。そこから見る景色がとっても好きでした」


 知っている、と三井は思った。

 ここを知っている。

 あの、幼い日。ひおに出会ったあの日。

 三井が訪れていたのはここで、紀にも会っている。


 三井の記憶の中には今と同じ大人の姿の紀がいた。そう思い当たって、三井は頭を抱えた。

 今こうして目の前にいる紀は三井とそんなに年が変わらないはずだ。なのに、蘇る記憶の先にいるのは今と同じ歳の紀だ。

 テラスから海を眺める幼い紀ではない。


「紀さん……」

「はい」

「ぼくは、ずっと昔……あなたに会っていますよね?」


 紀は是とも否ともいわず、ただ曖昧に笑みを浮かべたまま三井を見つめていた。

 そうだ。間違いない。会っている。ここで。遠い昔に。

 蘇る記憶を遮るようにノイズが走る。これ以上は思い出さないほうがいい。知らないほうがいい。今すぐ逃げたほうがいい。だが脚は動かない。

「この辺りにはこんな話があるんですよ」と紀は微笑みながら話をはじめた。


「昔の話ですが、とある夫婦が海に得体のしれない生き物を見つけた。それは人の姿をしていながら、人ではなかった。もしかしてあれが不老不死の力を手に入れることのできる人魚というものではないのか、そう思い当たった夫婦は人々の制止も聞かず、生け捕ろうとした」

 低い紀の声が古い建物の中に反響していく。まるであちこちに古い亡霊がいてそれらが囁いているかのように、耳へと届いた。


「ようやく生け捕った人魚は傷つけられすっかりボロボロになっていた。それでも人魚には変わりないとその肉を口に入れようとして……だけど人魚も黙って食べられるほど弱くもなかった。反対に襲われたその夫婦は二度と戻ってくることはなかった」

 だけどね、と紀は三井に視線を向けた。

 紀の瞳がある場所はぽっかりと穴が開いたような漆黒で、まともにかち合ってしまった三井は思わず後ずさる。

「どうやらその夫婦には子供がいたらしい。人魚にも心があるからね、子供だけは見逃したようです。その子は両親がどんなことをしていたのか、どんな目に遭ったのか分からないままひとりでずっと砂浜で遊んでいました。それはとても無邪気に」

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