第2話
「お待たせいたしました」
やはり物音ひとつ立てず、男は三井の目の前に立ち、タオルを手渡した。
受け取り、濡れて色の変わってしまったジャケットをとんとんと叩いた。頭や顔も遠慮なく拭かせてもらう。雨が続いているせいか空気も冷え、濡れたところから風邪をひいてしまいそうだった。
「温かいものもどうぞ」
「何から何まで…すみません」
「いいえ、それにしても」と、壁一面に広がる窓から先ほど玄関先で見ていたと思われる庭に視線を向けた。
「よく降りますね」
「本当に。雨は嫌いじゃないけど、これだけ続けばさすがに気が滅入ってきます」
同じように窓へと視線を向けながら答えると、紀は小さく笑い三井のほうへと視線を向けた。
「改めまして、はじめまして。
「こちらこそ、本日はありがとうございます。三井と申します」
名刺を差し出すと受け取り、紀はじっとそれを見つめた。
「作家さんにお会いするのは初めてです」
「といいましても、名ばかりの底辺作家でして」
「ふふ。そうなんですか? それでも作家さんには変わりありませんから」
紀ははじめ見たときの印象と違い、とても柔らかく笑った。
「それで、お調べになりたいこととは何でしょうか。ぼくで役に立てばいいのですけど」
「突然の不躾な要望を受け入れてくださってありがとうございます。メールでお願いしたように次回の小説の参考にしたいと思いまして……人魚について、教えていただけませんか」
「人魚、に、ついて」
「はい。こちらの地方だけに伝わる人魚伝説があると耳にしまして。それを調べていた時に紀さんを知りました。それをお聞かせいただけませんか?」
「……あなたは、人魚を信じているんですか?」
じっと探るように紀は視線を縫いとめた。
まるで胸の内側まで見透かされるようで三井はごくりと唾をのんだ。けして揶揄ったり面白おかしく茶化すつもりはない。
「あんなのはただの迷信。不老不死にあこがれた強欲な人間たちの作り上げたでっち上げとは思わないのですか?」
「……そうですね。真実はわからない。一部では自分の欲のためだけに血眼になって探す輩もいると目にしました。でも、ぼくはそうではなく……うまく言えませんが、運命を感じました」
へえ? というように紀の端正な眉が上がった。
「運命ですか。それは、初めて耳にしますね」
興味を持たれたらしい。紀は面白そうに瞳を輝かせた。
「だいだい人魚について知りたがるのは不老不死に興味を持っている方々ばかりで。どこに行けば人魚の肉を食べることができるのかとか、本当に若くあり続けることができるのかとか、その欲深さにうんざりしていたのです。そうですか、運命……」
今まで幾度となく繰り返された話題なのだろう。忌々し気に顔をしかめつつ、興味深そうに三井に向き直る。
「どうして運命を感じたのか聞いても?」
「そうですね…思えば初めて人魚を知って興味を持ったのはもうかなり昔のこと。まだ幼かったころの話です」
ためらいつつも三井は人魚との出会いを口にした。
「……信じてもらえるか、わからないのですが……ぼくは一度人魚を見たことがあるのです」
「人魚を?」
「はい、あの時はあまりにも子供だったので、もしかしたらその当時読んでいた絵本が夢の中に出てきただけなのかもしれないんですけど……人魚に会ったんです」
三井は誰にも話したことのない秘密を打ち明けることにした。きっとこの人なら、分かってくれるような気がしたのだ。
「両親に連れられてどこか海沿いの観光地に行った時のことです。海が眺望できるホテルに宿泊していたぼくたちは、夜になって浜辺で花火をすることにしました。初めて見る夜の海は真っ暗で波の音がすぐそばまで来ていて……ぼくはとても怖かった」
月のない夜だったせいか、なおさらしっとりとまとわりついてくる闇に幼い三井はひどく怯えていたらしい。
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