元カノが土下座してきたけど、俺はもう年収2000万の美人上司と婚約済みなんだが?

@flameflame

第一話 婚約指輪を買った日に、彼女は間男のベッドにいた

十一月の夕暮れ、俺――瑠璃川蒼司は、ジュエリーショップの紙袋を大切に抱えて帰路についていた。中身は婚約指輪だ。三ヶ月分の給料を注ぎ込んだ、俺なりの精一杯の気持ちが詰まった小さな箱。


交際三年、同棲一年半。彼女――氷室瑠奈との関係は順調だった。少なくとも、俺はそう思っていた。地味かもしれないが堅実な生活。将来のための貯金も順調に増えている。そろそろ次のステップに進んでもいい頃だろう。


俺は二十八歳、彼女は二十七歳。IT企業でシステムエンジニアとして働く俺の年収は決して高くないが、二人で暮らすには十分だ。瑠奈はアパレルショップで販売員をしている。


マンションのエントランスをくぐり、エレベーターで五階へ。ドアの前に立った瞬間、違和感が胸を刺した。


玄関に、見慣れない靴があった。


男物のブランドスニーカー。一目でわかる高級品だ。俺の履いている実用重視の靴とは格が違う。


心臓の鼓動が早くなる。いや、考え過ぎだ。瑠奈の友達の誰かが遊びに来ているだけかもしれない。でも、男物の靴を履く女友達なんていたか?


鍵を開けて中に入る。リビングに明かりはついていない。だが、寝室の方から声が聞こえる。


瑠奈の声だ。


そして、男の声。


「ねえ玲央、蒼司ってほんとつまらないの。デートも安い居酒屋ばっかりで、プレゼントも実用的なものばっかり」


瑠奈の声が、寝室から漏れてくる。


「誕生日にくれたのが加湿器だよ? 加湿器って。せめてネックレスとか、もっとロマンチックなものくれればいいのに」


男の笑い声が続く。


「俺みたいな男と付き合えば、毎日が刺激的だぜ? この前もさ、高級ホテルのバーで飲んだだろ? あれくらいが普通なんだよ、本来は」


「うん、すごく楽しかった。蒼司とは絶対に行けない場所だもん」


胸が締め付けられる。だが不思議と、怒りよりも先に冷静さが訪れた。


俺はポケットからスマートフォンを取り出し、ボイスレコーダーアプリを起動した。寝室のドア付近まで静かに近づき、録音を開始する。


「でもさ、別れないの? その地味男と」


「うーん、まだ決めてない。だって蒼司、生活力はあるから。安定してるし、真面目だし」


「つまり金づるってわけか」


「そういう言い方しないでよ。でも...まあ、そうかもね」


二人の笑い声。


十分な証拠が録れた。俺は静かにリビングに戻り、スマートフォンのカメラで部屋の様子を撮影した。瑠奈の私物、共有の家具、そして玄関の男物の靴。日付と時刻がしっかり記録される設定で、複数枚撮影する。


それから、自分の荷物をまとめ始めた。


衣類、PC、書類、思い出の品...いや、思い出の品は要らない。必要最低限のものだけをスーツケースとボストンバッグに詰め込む。作業は驚くほど機械的に進んだ。


三十分後、俺は玄関に立っていた。


寝室からはまだ声が聞こえている。もう内容は聞きたくなかった。


ドアを静かに閉め、マンションを後にする。紙袋に入った婚約指輪が、やけに重い。


近くのビジネスホテルにチェックインし、ベッドに座り込んだ。ようやく感情が追いついてきた。怒り、悲しみ、失望――しかし同時に、妙な爽快感もあった。


これで、踏ん切りがついた。


翌朝、俺は行動を開始した。


まず、購入したばかりの婚約指輪をジュエリーショップに持ち込んだ。


「未使用ですので、全額返金させていただきます。何かご事情があったのでしょうか」


店員の女性が気遣わしげに尋ねてくる。


「人生の方向転換です」


俺は笑顔で答えた。三ヶ月分の給料が口座に戻ってくる。この金は、新しい人生のために使おう。


次に向かったのは不動産会社だ。単身者向けの1Kマンションをその場で契約した。敷金礼金、初月の家賃を即座に支払う。鍵は三日後に受け取れるという。


それから法律事務所へ。


「同棲解消と慰謝料請求についてご相談されたいと」


弁護士は中年の女性だった。俺は証拠の音声データと写真を見せる。


「これは明確な不貞行為の証拠になりますね。内容証明郵便で通知を送り、慰謝料請求の意思を示しましょう。金額については、相手の対応次第ですが」


「別に多額の慰謝料は求めていません。ただ、けじめをつけたいんです」


「わかりました。では早速手続きを進めましょう」


三日間、俺はビジネスホテルで過ごした。瑠奈からのLINEは大量に届いていた。


『どこ行ったの?』


『なんで連絡くれないの?』


『ねえ、怒ってるの?』


『ちゃんと話そうよ』


『無視しないでよ!』


既読はつけない。返信もしない。


三日後、新しいマンションの鍵を受け取った日、瑠奈に内容証明郵便が届いたようだ。彼女から着信が何度も入るが、俺は出なかった。


代わりに、一通だけメッセージを送った。


『弁護士を通してください。直接の連絡は今後一切受け付けません』


それきり、瑠奈をブロックした。


新しい部屋で荷解きをしながら、俺は考えていた。三年間の恋愛は無駄だったのか? いや、違う。これは学びだ。人を見る目を養う機会だったのだ。


そして、もう一つ決心した。


このまま今の会社で燻っている場合じゃない。実は半年前から、大手IT企業の人事部から声をかけられていた。当時は瑠奈との生活を優先して断ったが、今なら話は別だ。


その夜、俺はメールを送った。


『以前お声がけいただいた件、改めてご相談させていただけないでしょうか』


返信は翌朝には来ていた。


『ぜひ一度お会いしましょう。今週中にお時間いただけますか?』


面接は三日後に設定された。


面接当日。俺はスーツを新調し、髪も整えた。鏡に映る自分は、どこか吹っ切れた表情をしていた。


「瑠璃川さん、前回お声がけした時は辞退されましたよね。今回、お気持ちが変わられた理由をお聞かせいただけますか」


人事部長の質問に、俺は正直に答えた。


「私生活で大きな転換期を迎えました。それがきっかけで、自分の人生を改めて見つめ直したんです。このままでいいのかと。もっと挑戦すべきじゃないかと」


「具体的には、どんな転換期だったのでしょう」


「長年付き合っていた恋人と別れました。その過程で気づいたんです。俺は安定を求めすぎて、成長を忘れていたんじゃないかと」


人事部長は興味深そうに頷いた。


「なるほど。逆境をバネにする力をお持ちなんですね」


面接は一時間に及んだ。技術的なスキルチェック、プロジェクト管理能力の確認、そして将来のビジョンについて。


「では最後に、あなたが当社で実現したいことを教えてください」


「大規模なシステム開発プロジェクトを統括したいです。そのために必要な経験とスキルを貴社で積みたい。そして、いつか自分の手で、社会に本当に役立つシステムを作り上げたいんです」


人事部長は満足げに微笑んだ。


「わかりました。では結果は一週間以内にご連絡します」


だが、その日の夕方には電話がかかってきた。


「瑠璃川さん、内定です。ぜひ我が社に来ていただきたい。条件面の詳細は後日お送りしますが、まず年収は現在の一・五倍からスタートです」


受話器を握る手が震えた。


「ありがとうございます! 必ず期待に応えます!」


新しい人生が、動き出した。


入社日までの一ヶ月間、俺は準備に費やした。現職の引き継ぎ、新しい会社で必要になる知識の習得、そして心身のリフレッシュ。


瑠奈からは弁護士を通じて連絡があった。慰謝料については分割で支払うという提案。俺は最低限の金額で合意した。金が欲しいわけじゃない。けじめがつけばそれでいい。


そして、十二月。


俺は新しい会社の初出勤日を迎えた。大手IT企業のオフィスビルは、前の職場とは比較にならないほど立派だった。


人事部で手続きを済ませ、配属先のフロアへ案内される。


「瑠璃川さんは、第三開発部への配属となります。部長の神峰が直々に指名されました」


「神峰...部長?」


「ええ、当社でも屈指の敏腕部長です。厳しいですが、部下の育成には定評があります」


会議室に通された。


しばらくして、ドアが開いた。


「お待たせしました」


現れたのは、長身の女性だった。


黒縁の眼鏡をかけ、パンツスーツを完璧に着こなしている。凛とした雰囲気だが、どこか柔らかさもある。年齢は三十代前半だろうか。


「瑠璃川蒼司さん、ですね。第三開発部部長の神峰紫苑です」


彼女は手を差し出した。俺は慌てて握手する。


「よろしくお願いします」


「あなたの経歴、拝見しました。技術力は申し分ない。でも、それ以上に面接での言葉が印象的でした」


「面接での...言葉、ですか」


「ええ。『逆境をバネにする』という話です。人は、辛い経験を経て本当に成長する。私はそう信じています」


神峰部長――紫苑は、穏やかに微笑んだ。


「当部では現在、大型プロジェクトが複数走っています。まずは一つのチームに参加していただき、三ヶ月後を目処にリーダー候補として育成していく予定です」


「はい、全力で取り組みます」


「期待していますよ、瑠璃川さん」


彼女の凛とした笑顔に、俺は不思議な安心感を覚えた。


これが、俺と神峰紫苑との出会いだった。


この時の俺は、まだ知らなかった。


彼女が、俺の人生を変える存在になることを。


そして、数ヶ月後に現れる瑠奈の姿を。


新しい人生の幕が、今まさに上がろうとしていた。

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