第35話 綺麗にキメたかった夏の終わり

 ろくろく眠れないうちに外が明るくなってきた。私は眠るのを諦めて布団から出た。カハクくんは眠っている。ジンの瓶を見たらほんのちょっとしか残ってなかった。私は薄い水割り一杯飲んだだけだから、ほとんどカハクくんが飲んだことになる。酒豪だったのねカハクくん。


 ちょっとやそっとで起きそうにないので音楽をかけてもいいだろうと思う。私はなんだか急に"Baby It's You"が聴きたくなってテープを変えた。スミスのカバー。イギリスのザ・スミスじゃないよ。アメリカのスミス。これ好きなんだ。


 It's not the way you smile that touched my heart

 It's not the way you kiss that tears me apart

("Baby It's You" Lyric by Mack David)


 カハクくんが起きるまでの時間を使って、未来のオードリーと私自身に宛てたミニレターを書いた。オードリーには、オードリーのことが大好きだったということを。昨日の夜カハクくんが話してくれたみたいに、オードリーのどこが好きだったのか精一杯書いてみた。鳥みたいに小首をかしげる仕草が好きだった、目を輝かせて愛読書について話してくれるのが好きだった、レースのドイリーを編むとき細い指がちょこまかと動くのが可愛かった、大好きだった。書きながら全部過去形だということに気づいた。自分宛にはカハクくんについて書いた。カハクくんが私にくれたものを忘れたくはないから。カハクくんは私という存在を肯定してくれた。私をきちんと見て私を評価してくれて、私を欲してくれた。そんな人はこれまでいなかった。だけど未来の私の隣にカハクくんはいない。私がそうするつもりだから。


 ………


「詩人の家」


 〈詩人の家〉を知っていますか

 ピラミッドのような屋根はベンチになっていて

 家族連れや恋人たちがすわって

 コーラを飲んだりホットドッグを食べたり

 ピラミッドの中には青空が広がり

 星ぼしが輝きしゃぼん玉が漂って

 わたしが間違っていたのだと

 静かに教えてくれるあの〈詩人の家〉を

 あなたは知っていますか

 あそこへ あそこへ

 わたしを守ろうとしてくれた人よ

 あなたと一緒に行きたいのです


――ゲーテ「ミニョンの歌」のオマージュ(1985.8.30 by Sasaho)


 ………


 カハクくんが目を覚ましたのは九時ころだった。頭が痛いという。二日酔いに何が効くのか知らないけど、父が酔っぱらったとき「水をくれ」というのを思い出してゲーターレードを飲んでもらった。でも足りないらしい。水筒いっぱいに水を持ってきて飲ませる。2リットルくらい飲んでるよ、心配なんだけど、水を飲めば飲むだけ回復しているようには見える。


「今日最後だから私は万博に行くよ。カハクくんどうする?」

「僕も行く」


 万博に着いたら十時を過ぎていた。もう人気パビリオンはことごとく長蛇の列である。でも私は最終日のパビリオンを二つ決めてあった。あそこは混まない。列があっても短いはずだ。燦鳥館と〈詩人の家〉。


 Gブロックに行って20分待ちの燦鳥館に並ぶと、小雨が降ってきた。レインコートを着るほどの雨じゃないので折りたたみ傘を広げて相合傘。カハクくんは私に雨が当たらないよう気遣ってくれるが、それではカハクくんが濡れてしまうではないかと思ってカハクくんを見ると濡れていない。まるで雨がカハクくんを避けるように。


 それにしてもカハクくんが異常に優しい。甘すぎる。この人と長い時間を過ごしたら確実にこの人を好きになってしまうだろう。そして私はこの人の優しさのせいで私ではなくなってしまうだろう。でも、カハクくんといられるのは長くてあと2時間。


「今日は何時までいられるのか教えてくれる?」

「お昼までかなあ。万博中央駅でごはん食べてすぐ帰る」

「どうしてもお昼まで?」

「うん。だって私、駅から自転車で帰るから真っ暗になる前に帰りたい。雨がやむといいんだけど」

「雨は絶対にやむよ。僕が保証する。それにしても駅から家まで自転車……何分かかるの」

「45分」

「くっそ、僕が駅から送りたい」

「それは無理と言うものでしょう」


 二人で燦鳥館のシアターに入る。前に見たときは飛び立ってゆくカナダグースにオードリーを重ねて、ひどく感傷的になった。いま見上げているカナダグースの飛翔は、私にとって向日的なものに思えた。理由はわかってる。今度は私が飛び立つ方だからだ。


 燦鳥館を出て〈詩人の家〉へゆく。時間がないから大急ぎ。〈詩人の家〉は相変わらず空いていてすぐ入れた。


「ここは外れパビリオンだという噂だよ」


 カハクくんが教えてくれる。外れパビリオンだと。私がいちばん好きなパビリオンじゃい。でも外れだという噂があるからすぐ入れるのか。


 シアターに入って二人並んで座る。谷川俊太郎の「地球へのピクニック」朗読が始まる。


 ここで一緒になわとびをしよう ここで

 ここで一緒におにぎりを食べよう

 ここでおまえを愛そう

 おまえの眼は空の青をうつし

 おまえの背中はよもぎの緑に染まるだろう

 ここで一緒に星座の名前を覚えよう

 (谷川俊太郎「地球へのピクニック」より)


 カハクくんの手が私の手を握った。ひんやりした少し湿った手だ。この人はもしかしたら人間の男の人ではないのだと思えてきた。手を握りあったまま朗読を聞く。「ここへ何度でも帰って来よう」というところを聞いたら涙がにじんできた。もう私はここに帰ってこない。しゃぼん玉がふわふわ飛んできて映像が終わる。カハクくんが手を離してくれないので手をつないだまま外に出た。見紛うことなきカップル状態、誰が見ても恋人同士に見えるだろう。


「私もう帰らないと」

「万博中央駅までは送るよ」

「ありがとう」


 西ゲートに向かう前に、ポストカプセル2001を投函し、パピルスプラザでお土産を買う。カハクくんは荷物を持とうとする。傘さして荷物持って手をつなぐのは無理だから! 荷物か傘を私に持たせて!


「詩人の家、全然外れパビリオンじゃなかった」


 万博中央駅に向かう車の中で、ぽそっとカハクくんが言った。私は「地球へのピクニック」の最初のほうを朗読というか暗唱した。


「よく覚えてるね?」

「私、詩が好きなの。なれるなら詩人になりたい」

「きみらしいと思うよ。なりたいものがわかっているのは羨ましい」


 万博中央駅にきたけど、もう食事をする時間もなくてミスタードーナツでドーナツを買った。電車の時刻まで10分ない。思い残さないように、なんてのは不可能だ。絶対残る。


「私の連絡先聞かないの?」

「聞かない。言う気ないだろ」

「うん」

「連絡先を教えてくれるつもりがあったなら、昨日教えてくれたと思う」

「そうだね」


 別れのキスとかなしで、普通に手を振って別れる。別れの言葉は「ありがとう」だ。We'll always have Tsukuba!


 ………


 かように綺麗にキメてきたのに、どうしてこうなるのでしょうか。私は駐輪場に立ち尽くしていた。私の自転車のタイヤは誰のいたずらかズタズタに切り裂かれていた。時刻は午後六時ちょっと過ぎ。カハクくんが言ったとおり雨はやんでいた。バスはまだあるけどどうしよう。私の両親が帰宅するまでまだ一時間ある。考えた末、私は封筒を開けた。使う予定のなかったテレカとメモ。


 駅前広場に白と黒のツートンカラーのカリブがやってくる。


「来てやったぞ、ありがたく思え」

「ありがとう」

「自転車はどうなってるんだ」

「見てちょうだい」

「ひっでえな。警察に届けたか?」

「まだ」


 もうアホザルって呼ぶのやめよう。アオノさんって言おう。アオノさんのカリブなら後ろの座席を倒せば自転車が乗る。アオノさんは警察まで運転してくれ、届を出すのにも付き合ってくれた。警察では最近こういう事件が続発していると言われた。別に私だけを狙ったものではないようで少し安心した。


「ありがとう、すごく助かった」

「バカに殊勝だなあ、ずいぶんスマートに俺を頼ってきたし。旅先でなんかあった?」

「別に何も」

「ロストバージンした?」

「してないよ!」

「ペッティングした?」

「してないよ!」


 やっぱアオノさんからアホザルに降格しようか。


「キスした?」

「……」


 私の意思ではないのだけど、許したのは間違いないよなあ。そしてあれはキスだよなあ。


「どんな男だ」

「関係ないでしょ」

「あるよ。関係ないなんて言わないでくれ」

「……大学生で、はたちだって言った。でも連絡先の交換もしなかったし、もうおしまい。二度と会わない」

「行きずりの恋ってやつ?」

「なんかそれも違う気がするけど」

「もう二度と会わないならいいや。そいつには時間も地の利もなかった。俺には両方ある」


 カハクくんが示唆したことはどうやら本当だったようだ。どうしてこれまでアオノさんの気持ちに気づかなかったんだろう。直接告白されてるわけではないから答えるのはやめておく。かわりに。


「アオノさんに聞きたいことと言いたいことが一つずつあるんだけど、いい?」

「なんだか知らんけどいいぞ」

「アオノさんの好きな女の子が『あなたに恋してはいないけどあなたが抱きたいならokする』って言ったらどうする? 抱く?」

「抱くわけないだろ」

「なんで?」

「『抱いて』って言わせるほうがいいから」


 カハクくんと結果的には同じなのに、なにゆえこうも印象が違うのか。


「で、言いたいことっていうのはなんだ。『抱いて』?」

「違うわアホザル」


 思わずアホザルと言ってしまった。いかんいかん。


「あのね、休憩所とかでよくお尻を触ってくるじゃん、あれやめてほしい」

「いいじゃん、あれくらい」

「ああいう触れ合いはね! 好きな人と密室でするもんなの。みんなが見てるところで笑われながらしたくない」

「じゃあ今からラブホでする?」


 どうして男という生き物には話が通じないのだろう。これだから私は男になりたいとも言い切れないのだ。次は別な方面から話をしてみよう。


「『抱いて』って言わせて抱きたいなら、触るほうも『触って』って言わせてからにしないとおかしくない?」

「うーん、確かにそうだな。なるべく触らないようにする。でもそのうち『お願い触って、抱いて』って言わせるから」

「万が一のことですが私がそう言ったらどうぞお触りください」

 

 うちに着いたのでキスリングから小さな袋を出す。


「今日は本当にありがとう。これお土産」

「なんだこのコイン」

「魚がたくさん釣れるお守りメダル!」

「南太平洋館って書いてあるぞ」

「魚釣れるっていうのは嘘だけど。記念メダルなのは確かだから30年くらい経つと高くなるかも」

「まあもらっとく。またな」

「またね」


 私の万博の夏はこうして終わった。


 ★★★


 いい加減わかったと思いますが、カハクくんは現実の男じゃありません。こんな男いるわけないでしょ。彼の正体についてはあとがきに書きます。


 "We'll always have Tsukuba"は映画『カサブランカ』の別れのシーンのセリフ"We'll always have Paris"のパクリ。ささほさんカッコつけすぎ。


 

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