フランス篇
第14話 パリにて(1)ソース・オランデーズ
石造りのアパルトマンの窓から、パリの七区らしい灰色の屋根並みが見下ろせる。まだ朝靄が残る街並みは、ひかりが知る東京のそれとは全く異なっていた。
「ひかりさん、カフェ・オレが入りましたよ」
背後から、慣れ親しんだ穏やかな声がする。白銀玲華が、温かいカフェ・オレ・ボウルを二つ、小さなテーブルに運んできた。
「……ありがとうございます、玲華さん」
ひかりは頷き、コンロの火を調整する。
ひかりのフランス短期研修が決まった時、玲華は「良い機会ですから、私もご一緒します」と、当たり前のように宣言した。
ひかりの師匠筋であるシェフも、玲華が、世界バズした料理配信「銀の匙」の片割れであり、類稀なる舌を持つことを知っていたため、その同行を快く許可した。
こうして「二人きり」の生活が、この異国の地で始まっていた。
「さて、始めましょうか」
玲華が配信用の小型カメラを起動させる。設定は昨日ひかりが済ませてある。
いつものスタジオではない、パリのキッチンからの突然の配信に、コメント欄は瞬時に沸騰した。
『Bonjour. 「銀の匙」、本日は特別編をお送りします』
≫ !?!?!?
≫ どこここ!? パリ!?
≫ Bonjour?? 玲華様!?
≫ え、ガチでフランス?
≫ ちょ、ひかりちゃんもいる!!!
≫ なんで二人でフランスに!?
玲華は、殺到するコメントに優雅に微笑みかける。
「ふふ、驚かれましたか? 少しの間、ひかりさんのお勉強にお供して、こちらに滞在しております」
「お勉強」という言葉で、これが研修旅行であることを匂わせる。
だが、視聴者の興味はそこではなかった。
≫ お供して(意味深)
≫ 同棲じゃん……
≫ 「二人はいつも一緒」
≫ 新婚旅行かな???
≫ 玲華様、ガチでついていったんだ……
≫ #二人の世界 in Paris
「今日は、先ほど二人で歩いてきたマルシェ(市場)で手に入れた、素晴らしい食材をご紹介しますね」
玲華がカメラをひかりの手元に向ける。
そこには、日本ではお目にかかれないほど太く、艶やかな白いアスパラガスが横たわっていた。
「……今日は、これをポシェ(茹でて)にします。ソース・オランデーズに、少しだけ工夫を」
ひかりは緊張した面持ちで、しかし的確な手つきでアスパラガスの皮を剥き始める。
《シルヴァヌスの舌》は、フランスの強力な食材を前に、歓喜の悲鳴を上げていた。バターの香り、卵のコク、野菜の力強さ。すべてが日本とは違う。
(……この強い味を、玲華さんが一番喜ぶバランスに調和させるには)
ひかりは、沸騰させない湯の中で、慎重にアスパラガスに火を通していく。
同時に、ソース・オランデーズの準備に入る。卵黄、澄ましバター、レモン。そして、マルシェで見つけた小さな黒トリュフを、ほんの少しだけ。
≫ うわ、白アスパラだ
≫ ソース・オランデーズ! 家で作れないやつ!
≫ ひかりちゃんの手つき、現地シェフみたい
≫ 玲華様、完全に「ひかりの隣」が定位置なのよ
≫ ああ、この空気感。日本にいなくても二人は二人だ
やがて、完璧な火入れを終えたアスパラガスが皿に盛られ、黄金色のソース・オランデーズがとろりとかけられる。仕上げに、トリュフがふわりと香った。
「……どうぞ、玲華さん。熱いうちに」
「ありがとうございます。いただきます」
カメラが、ナイフとフォークを手に取る玲華の優雅な所作を追う。
一口。ソースをまとったアスパラガスが、玲華の口に運ばれる。
彼女は目を閉じ、その味の奔流に身を任せた。
やがて、ゆっくりと目を開けた玲華の瞳は、セーヌ川の朝靄のように潤んでいた。
「……これは、夜明けの凱旋門ですね」
コメント欄が「きた!」「#玲華舌」で埋まる。
「まだ誰もいない、静かな広場に、私とひかりさん、二人きりで立っているようです。……このアスパラガスの力強さは、歴史を刻んだ石畳の感触。そして、このソース・オランデーズ……」
玲華は言葉を切り、うっとりとひかりを見つめた。
「これは、雲間から差し込む、朝一番の光です。パリの街全体を、この一皿が祝福している。……いいえ、違いますね」
彼女は小さく首を振る。
「この味は、異国の地で見つけた『たった一つの真実』です。どんなに場所が変わっても、どんなに違う食材を使っても……ひかりさんが私のために作ってくれる味は、寸分違わず『私』に届く。……この安心感を、私は知っている」
それは、このフランスで二人きりでいることへの、玲華からの最大の肯定だった。
「ひかりさん。この一皿は、私たちが今、ここに二人でいる『意味』そのものです。……最高に、幸せな味です」
≫ 泣いた
≫ #玲華舌 (訳:ひかりがいればどこでも天国)
≫ もう告白じゃんそれ
≫ #二人だけの真実
≫ (尊すぎてコメントが打てない)
≫ 結婚しろ(シャトー・ドゥ・サントニーで)
ひかりは、顔を真っ赤にして俯きそうになるのを、ぐっと堪えた。
「……玲華さんが、喜んでくれて、よかった。フランスの食材は、手強いですから」
「ふふ。あなたの《舌》には、敵わないようですよ」
玲華が、配信中であることを忘れ、ひかりの手をそっと握る。
その瞬間、コメント欄は阿鼻叫喚の嵐となったが、二人はもう気づいていなかった。
***
配信を終え、二人分の食器を洗い終える。
「ひかりさん、そろそろ研修先のお時間では?」
「……はい。今日は、シェフにソースの味見をしてもらうので、緊張します」
ひかりがコートを羽織る。
「大丈夫ですよ」
玲華は、ひかりの襟元を優しく直しながら、微笑んだ。
「あなたがどれほど素晴らしいか、私が一番よく知っていますから。……さあ、行きましょう。今日も、アトリエまでお送りしますね」
玲華が、ごく自然にひかりの手に自分の手を絡める。
「はい、玲華さん」
ひかりも、その手を強く握り返した。
二人は、鍵を閉め、パリの石畳の道へと、まるで一つの影のように並んで歩き出していった。
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