第6話 離れゆく未来
季節は、高校二年の秋へと静かに移ろいでいた。
家の指示による「完璧すぎる」配信の反動か、玲華は以前にも増して、誰にも邪魔されない、ひかりとの「二人きりのスタジオ」の空気を求めるようになった。
そして、学校での「白銀玲華」の仮面が厚くなればなるほど、放課後、スタジオの扉を開けた瞬間に漏れる玲華の「ひかり」と呼ぶ声は、甘く、切実な響きを帯びていく。
だが、ひかりは、その甘い時間に安住できなかった。
自室の机。ひかりは、一枚のパンフレットを指でなぞっていた。
フランス、リヨン。世界最高峰と謳われる料理学校。
《シルヴァヌスの舌》は、レシピさえあれば玲華の望む味を完璧に再現できる。だが、その「レシピ」そのものを生み出す発想力、基礎となる技術が、自分には圧倒的に不足している。
有馬健斗のようなプロの存在。白銀家という、玲華を縛る見えない圧力。
(あの人を、守りたい)
玲華の、あの「失敗作」に救いを求めた横顔を思い出す。
あんな顔を、もう二度とさせたくない)。
玲華が、誰にも気兼ねせず、自由に「美味しい」と笑える場所を、自分が作らなければ。
そのためには、今のままではダメだ。
「玲華専属の味の設計者」でいるためには、世界中が納得する、いや、ひれ伏すほどの「技術」と「名前」が必要だった。
海外留学。
その四文字が、ひかりの胸に、重たい決意として刻まれていく。
***
その日の配信メニューは「和栗のモンブラン」。
ひかりが、玲華の「疲労」を読み取り、レシピを調整した、特別な一品だ。
> ▷ モンブラン! 秋だー!
> ▷ うわ、ひかりんのモンブラン、絶対美味い
> ▷ 玲華様、今日も麗しい
> ▷ 最近の二人の空気、前より甘くない?
玲華は、その繊細なマロンクリームの山を、愛おしそうに見つめている。
「……いただきます」
一口。
サク、というメレンゲの微かな音。
玲華の目が、幸福そうに、ゆっくりと細められた。
「……これは……『守られた約束』の味、ですね」
ひかりは、どきりとした。
「外側の、このマロンの繊細な糸は、まるで秋の冷たい風のようです。少し、心細くて、寂しい。
……でも、その風から私を守るように、中のクリームが、ふわりと、優しく包んでくれる。
そして、このメレンゲ。
サク、と崩れる音は、『私はここにいる』という、確かな足音。
ひかり。あなたの作ってくれるこの『城』は……いつも、暖かくて、絶対に私を裏切らない、約束の場所です」
> ▷ #玲華舌 絶好調
> ▷ 詩人すぎる
> ▷ 守られた約束……
> ▷ ひかりんが城主か
> ▷ 尊い……
玲華が、ひかりを見つめて、無邪気に微笑む。
その笑顔は、ひかりが守りたいと願う、まさにその宝物だった。
だが、その笑顔は、同時に、ひかりの胸を鋭く刺した。
(……言えない)
今、この「城」から、一時的とはいえ、自分が「離れたい」などと。
玲華を、この暖かい場所から、もっと強固な城を作るために、一度、一人にしてしまうなどと。
「ひかり?」
「……いえ。美味しいですか」
「当たり前じゃないですか。世界で一番、美味しいです」
配信が終わり、片付けをするひかりの背中に、玲華が小さく呟く。
「……ずっと、こうしていられたら良いですね」
それは、白銀家のお嬢様としての言葉ではなく、ただの「玲華」としての、切なる願いだった。
ひかりの手が、止まる。
「……そう、ですね」
そう答える声が、自分でも驚くほど、冷たく、乾いて聞こえた。
帰り道。
ひかりは、コートのポケットに入れた、あのくしゃくしゃになったパンフレットを、強く、強く握りしめていた。
玲華の「ずっと」と、ひかりの「未来」。
二人の進路が、同じ場所を向いていないことに、ひかりだけが気づき始めている。
そのすれ違いを、まだ玲華に告げる勇気は、ひかりにはなかった。
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