桜月夜
青城澄
第1話
それは、ある風のない静かな夜のことでした。
見上げると、満月に少し足りない月が、墨のような空にあいた小さな穴のように、しらじらと無言で光っています。
風景の全てが、息をひそめて眠りこけているような、そんな時刻でした。永遠に何も変わることのない、時の見えない帯を、眠りながらただ黙々と食べているような、ちんまりと小さな森が、ありました。
さて、その森の奥に、そこだけ木立がとぎれた、小さな丸い空き地がありました。年寄りたちの話によれば、この空き地は、大昔の昔、月からほんのりと白い手が降りてきて、まるで草の一房をひょいともぎとるように木立を抜き取った、その跡なのだそうです。もっとも、最近の若い者たちは年寄りの言うことなんぞまるで信じはしませんが。しかしその空き地は、若い者たちが集まって話をするには、かっこうの場所になっていました。
空き地の隅には、一本の山桜が生えていて、月光に薄桃色の花びらをひたひたと揺らせていました。まだ散り敷くというには少し早く、桜の根元には、ほんのちらほらと、数えるくらいの花びらが、まばらな草の生えた地面に、貝ボタンのように光りながら、散らばっていました。
今、その桜の木の、一番低い枝の下で、五、六匹の若い雌ギツネが集まって、何かをヒソヒソ話しています。
「西森に住んでるアオミミの息子が、結構な器量ですってよ」
「アオミミの息子は何匹もいるわ。どの息子?」
「末っ子よ、もちろん」
「あら、わたしは二番目の方が好みだわ」
「みんな知らないの? アオミミは浮気症で、狩りも下手なのよ。そんなやつの息子を夫にしたら、苦労するのに決まってるじゃない」
若い娘たちが、若い男たちについて、あれやこれやと好き勝手に品定めするのは、まあ、される身にはあまりいい気はしないでしょうが、そう目くじらをたてるほどのことでもありません。彼女らにとっては、これ以上に重要な問題はないからです。将来の自分の夫は、慎重に、慎重に、選ばなければなりませんからね。怠け者の夫を選んだために、子供を何匹も餓死させてしまったかわいそうな雌ギツネや、乱暴者の夫に毎日かみつかれて、とうとう我慢できずに家出してしまった雌ギツネなど、そんな話はこの世に山ほど転がっているのです。
みんな、しばらくの間、知っている限りの雄を槍玉にあげて、好き勝手なことを言い合っていましたが、やがて、ふと、一匹の雌が、声をひそめて、言いました。
「でも、『そのとき』がきたら、みんなどうするの?」
『そのとき』というのは、もちろん、雄にプロポーズされたときのことです。
「おかあさんが言ってたわ。そのときは、絶対すぐに返事をしたらだめだって。最初はまず、気のなさそうなふりして、じらすんだって」
すぐ隣にいた雌が知ったかぶりで答えました。娘たちの中には、たいていひとりやふたり、こんな耳年増がいるものです。まわりの娘たちは、興味しんしんで、彼女の話に耳をそばだてました。
「じらすって、どうやるの?」
「例えば、ぷいと横向いて、ほかの雄を見るふりをするとか、今、おなかがすいてて、そんな気になれないふりをするとか……」
「でも、そんなことしてる間に彼がいなくなったらどうするの? 崖の東のクロフサなんか、せっかちだから、すぐほかの雌のところに行っちゃうわ」
「だから、そこは、いろいろと手管を使うのよ。笑いかけたり、ちょっとポーズを作ったりさ。ほら、例えばこうやって頭をあげて胸をそらすと、胸の毛並みがすごくきれいに見えるでしょ。こんなのも手よ。あとは、ちょっとよろけたふりして、肩をぶつけたり、とか……」
「へえ、なんだかすごく経験あるみたいじゃない」
一匹の雌が、少し意地悪く言うと、耳年増の娘は、さっと顔を赤らめて、黙りこみました。それを見た他のみんなは、くすくすと笑いましたが、すぐにため息をついて、同じように黙ってしまいました。そして、てんでに、桜を見上げたり、地面に顔を落としたりして、物思いに沈みました。実際のところ彼女らはみんな、年頃になってから、若い雄とまともに話をしたことは、ほとんどなかったのです。
夜も更けてきたので、やがて彼女らは、ひとり、またひとりと、空き地を離れていきました。
「さよなら、また明日ね」
「さよなら」
きっと明日も、今日と同じ日が続くでしょう。そんな生ぬるい、しかしどこかじれったい安堵感の中で、彼女らはみな、それぞれの親の待つ巣穴へと、帰っていくのでした。
さて、その中に、すみれという名の、一匹の雌ギツネがいました。彼女は森の北の、大きな岩の陰にある巣穴に、母親とふたりだけで住んでいました。父親は、すみれがまだ小さい頃に、急な病で死んでしまったのです。母親は、懸命に、残された子供たちを育てましたが、病や事故で次々と死んでしまい、最後まで残ったのは、すみれだけでした。
「ただいま、おかあさん」
穴の奥で寝そべっている母親に近づくと、すみれは鼻を母親の首筋にすりつけて、甘えました。母親は、少し寝ぼけ声で、答えました。
「おかえり、楽しかったかい」
すみれは、すぐに答えず、母親から少し離れたところに寝そべって、息を一つついてから、言いました。
「相談があるの、おかあさん」
「なんだい?」
「実は……、今日、西森のアオミミの息子に、結婚を申し込まれたの」
母親は、閉じていた目をふとあけて、少し思い悩んだような娘の、元気のない横顔をみました。
「アオミミ? そういやあ、毛並みのいい息子が何匹かいたっけね。どの息子だい」
「クロジよ」
「ああ、総領かい。末っ子の方が、だいぶできがいいという話だが」
「知ってるわ」
すみれは、少し憮然として、顔を背けました。母親は、特に気にするふうでもなく、また目を閉じながら、ため息まじりに言いました。
「まあ、性質はよさそうだね。遊び癖もないようだし。あたしは別に反対しないよ。もう返事はしたのかい」
「……ううん、明日、中森のおおばば桜の下で、返事をすることになってるの」
「ほお。で、どうするんだい」
「……わからないの。わからないから、おかあさんに聞いてるんじゃない」
すみれは、少しとがめるように、言いました。母親は、答えず、しばし黙って目を閉じていましたが、やがてむくりと起き上がりました。
「外においで。お月さんを見よう」
「お月さん?」
「どうしていいかわからなくなったときには、月を見るのが一番さ」
すみれは首をかしげましたが、黙って母親について、巣穴を出ました。
ふたりは、巣穴のそばの大岩の上に登って、並んでちょこんと座りました。月は、少し離れたところの大きな広葉樹の梢の向こうから、のぞき見をするような格好で、じっとふたりを見つめています。
母親は、隣で、不安そうに月を見上げている娘を、見つめました。ひげがぴんぴんととんがっているところが、まだまだ幼げではありますが、生えそろったばかりの毛皮はタンポポのような黄みを帯びて、たいそう美しく、琥珀玉のような目は、水気をふくんで、かすかな月光に、ぼんやりと濡れているようです。母親は目を細めました。彼女の小さな心臓が、ちくちくと震えました。
「おまえもそういう年頃になったかねえ」
母親が、ぽつりと言いました。すみれは、黙っていましたが、やがて耐えきれなくなったかのように、大きなため息をついて、言いました。
「……西森は、ここと比べると、ずっと山よりで、日当たりがいいわ。獲物も多いし、アオミミはいいところに住んでいる。クロジは総領だから、アオミミの縄張りをつぐわよね。そしたら……」
「そしたら?」
母親は、月を見上げながら、まるで歌の一節でも歌うように、言いました。すみれは、ぐっと、押し黙りました。そして、何かに押し潰されるように、ぺたんと、頭を岩の上に落としました。肩が震えているので、母親は、娘が泣いているのではないかと思い、そのまましばらく黙って、月を見上げていました。やがて娘は、泣き声で、言いました。
「あたし、わからない。だって、男のひとのことなんて、知らないもの。どうしてあたしなんか好きになるのか、理解できないんだもの。あたし……、すごくいやな女なのに」
「どうして」
「きっと色目なんかつかって、男をたらしこむのよ」
「おやおや……」
すみれは、まるで子供のように前足で顔をこすりながら、ずいぶんとみっともない様子で泣いています。母親は、ただ静かにほほ笑んで、そんな娘を見守っていました。
「あたし、明日、おおばば桜にはいかない。だって……」
やがて、すみれは、しゃくりあげながら、言いました。母親は何も言わず、しっぽでやさしく娘の背中をなでました。すみれは、最初、無頓着なようでしたが、やがてのっそり顔をあげ、母親の肩に鼻をすりよせました。
「おかあさん、どうしたらいいの、あたし……」
「おまえの好きなようにしたらいいさ。どっちにしろ、お月さんがなくなるわけじゃなし」
母親は、いとしげに、言いました。すみれは母親の胸に顔を押しつけて、また、泣きました。母親は、そんな娘の震えた体を、つつみこむようにしながら、やさしく毛皮をなめてやりました。
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