いつか、誰も知らない夜明けが来る

原 蓮翠

第1話

  1、潮見悠の高校生活は、いつだってセピア色の写真のように曖昧だった。

 ​彼が通う私立「星見ヶ丘学園」は、海辺の街を見下ろす丘の上に建っている。創立から七十年が経過した校舎は、潮風と時間が蝕んだ石造りの壁が、重い歴史を語っていた。特に悠が毎朝潜り込む立ち入り禁止の旧校舎は、もはや遺跡に近い。

 この街全体が、開発という名の波に乗り遅れ、時代に取り残された寂れたノスタルジーを纏っている。駅前商店街のシャッターは半分以上が閉まり、かつて賑わった遊園地の跡地には塩錆びた観覧車だけが残っていた。そんな街の空気は、悠の心に張り付く「停滞感」と見事に同調していた。

 悠は、この学園の、そしてこの街の「風景の一部」である、と常に感じていた。


 高校三年生。進学校ゆえに周囲は受験一色だ。誰もが志望校を口にし、その未来に向かって迷いなく時間を消費しているように見える。

 しかし、悠にはそれがない。成績は上位だが、それは周囲の期待を裏切らないための、習慣的な努力の結果に過ぎない。「将来、何になりたい?」という問いには、「なんとなく」で決めた国立大学の経済学部という、最も無難で、最も情熱のない答えを用意している。

 彼にとって、未来とは遠い霧の中に浮かぶ、掴みどころのない塊だった。誰かにとって明確な「時間」が、自分にとってだけは止まってしまっているような、強烈な疎外感と焦燥感が、喉の奥に張り付いていた。


 人と関わるのは苦手ではない。クラスメイトと笑い、世間話もする。だが、その会話には常に「一歩引いた」距離があり、決して自分の核となる不安を晒すことはなかった。傷つくのが恐かった。自分の弱さを他人に否定されるのが耐えられなかった。だから、いつも周囲の空気を読み、波風を立てない、「無害な存在」として振る舞うことを選んだ。

 

「潮見、今日の放課後、参考書見せてくれよ」

 

 昼休み、クラスの中心にいる男子が声をかけてきた。

 

「ああ、いいよ。化学か?」

 

「サンキュー。やっぱお前頼りになるわ」

 

 悠は曖昧に微笑んだ。頼りにされるのは嬉しい。だが、それは彼の成績という「機能」であって、彼自身ではないことを知っている。彼自身は、誰にも見られていない、誰にも認識されていないと感じていた。

 自分だけが、この世界の時間の流れから切り離され、永遠に十七歳の夏に囚われている。そんな底知れない不安が、時折、彼を急に襲った。


 彼は、その焦燥から逃れるために、一つの「秘密の場所」を持っていた。

 

 ​2、旧校舎の裏手。立入禁止の黄色いテープが風に揺れている。

 生徒指導室の真裏に位置するこの建物は、十数年前に耐震基準で引っかかり、今は物置と化している。当然、生徒は立ち入り禁止だ。

 放課後、悠は誰にも見咎められないことを確認し、錆びた非常階段を上った。潮の匂いと、埃とカビの混ざった古い匂いが鼻を突く。鉄骨が軋む音は、まるで建物が悲鳴を上げているようだった。

 悠の目的地は、その最上階、旧校舎の屋上だった。


 屋上への扉は、鍵がかかっていたが、窓枠の隙間から差し込んだ古びた金属片で、何年も前から容易に開くようになっていた。

 ドアを開けた瞬間、生暖かい潮風が吹き抜けた。

 そこは、学校の敷地内で最も高い場所だった。眼下には、古びた校庭や、現校舎の瓦屋根。視線を遠くにやれば、防波堤を越えて、紺碧の海が広がり、その向こうに、寂れた街並みが箱庭のように見える。古い時計台、使われなくなった桟橋、そして彼自身の「停滞」を象徴するような、止まったままの遊園地の観覧車。

 悠にとって、ここは「停滞」からの唯一の避難所だった。誰にも見られない、誰にも邪魔されない、世界の輪郭が、皮肉なことに最もよく見える場所。彼はいつも、ここで進路の不安や、誰にも言えない孤独を、風に乗せて遠くへ流していた。


 その日も、悠は教科書と、クラスメイトから借りた問題集を抱え、扉を開けた。しかし、その瞬間、彼の足は凍り付いた。

 屋上の、海に最も近い手すりにもたれかかるようにして、一人の少女が立っていた。

 制服は星見ヶ丘のものだが、ネクタイは緩く結ばれ、スカートの丈は自由な長さに調整されている。彼女は、まるでこの錆びついた屋上に、突然生えてきた一輪の白い花のようだった。

 その少女は、悠が三年生のこの学期になって、突然現れた転校生だった。

 名前は、藍沢春風(あいざわ はるか)。

 彼女の存在は、初日から異質だった。どこか現実離れした透明感。教室の中にいても、まるで照明の当たらない場所にいるかのような、常にアンニュイな雰囲気を纏っていた。誰とも馴染もうとしない、というより、最初から誰とも馴染むつもりがないかのような、ミステリアスな存在。クラスメイトは彼女を「お嬢様」とか「病的な美人」とか、遠巻きに噂するだけだった。

 その春風が、今、悠の「秘密の場所」に、まるで自分の居場所であるかのように、静かに立っている。


 春風は、悠の存在に気づいたようだったが、特に驚いた様子もなく、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 その手には、一冊の古い詩集が握られていた。表紙は色褪せ、何度も読み返された形跡がある。彼女の必需品だ。悠は、彼女がいつもそれを持ち歩いているのを知っていた。

 

「……君も、ここを知っていたんだ」

 

 悠は、動揺を悟られないよう、努めて冷静な声で尋ねた。

 

「知っていたよ。というか、見つけた」

 

 春風の声は、潮風に乗って届いた。それは、予想よりもずっと澄んでいて、どこか儚げな音色だった。

 

「ここは立入禁止だ。誰かに見られたら――」

 

「見られないよ。誰も、旧校舎の屋上なんて、気にも留めないもの」

 

 彼女はそう言って、再び海に視線を戻した。その横顔は、あまりにも整っていて、あまりにも無関心だった。

 

「俺の場所なのに」悠は、思わず心の声を漏らした。

 

「ああ、そう。私もそう思っていた。ここは、私だけの、誰にも邪魔されない場所だって」

 

 春風は静かに微笑んだ。その微笑みは、寂れた街の夕焼けのように、切なく美しかった。

 

「でも、違ったみたい。先客がいた。まあ、いいや」

 

 彼女はそう言うと、詩集をぱたんと閉じた。

 

「君は、潮見悠くん、だよね。いつも教室で、周りの空気を読んで、笑っている人」

 

 悠は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。「風景の一部」として振る舞ってきた自分を、彼女は最初から見ていたのだ。

 

「どうして、そう思うんだ」

 

「だって、君の目は、いつも遠くを見てる。みんなと一緒にいる時も、一人でいる時も、同じ焦燥感が張り付いている。この街と同じ、停滞の色だ」

 

 春風はまっすぐ悠の目を見た。その瞳は、深海の底のように、悠の隠していた不安を全て見透かしているように感じた。悠は、誰にも言われたことのない言葉を浴び、全身の皮膚が一枚剥がれたような感覚に陥った。

 

「私がここに来るのは、この場所が、一番『遠く』に行けそうだから。君も、遠くに行きたいんでしょ? 行けないくせに」

 

 彼女の言葉は、まるで鋭い刃物のように、悠の心に突き刺さった。

 

 3、悠は反論の言葉を見つけられなかった。彼女はあまりにも的確に、彼の内面を言い当てていた。

 彼は、傍らにある古い、錆びたベンチに座り込んだ。

 

「遠く、か。遠くに行きたいよ。でも、どこへ行けばいいのか、分からない」

 

 悠は、観念したように自分の不安を口にした。

 

「みんな、目標があって、進路があって、迷いなく進んでいるように見える。でも、僕には何もない。ただ、成績が良いというだけで、レールの上を歩かされているだけだ。もしレールから外れたら、僕はただの『風景の一部』ではなくなって、誰にも必要とされなくなるんじゃないか、って」

 

 それは、彼が三年間の高校生活で、誰にも語ったことのない、最も切実な孤独だった。

 春風は、悠の隣に腰を下ろした。潮風が彼女の長い髪を揺らし、その透明感が一層際立つ。


「必要とされたいんだ?」


 彼女は尋ねた。

 

「分からない。でも、このまま、自分の存在意義を見つけられないまま、大人になるのが恐い。自分だけが、この街みたいに、時間から置いていかれて、誰も知らないまま終わっていくのが」

 

 悠は、話しながら、初めて心の重みが少し軽くなるのを感じた。春風は、彼の話を否定も肯定もせず、ただ静かに聞いていた。それは、彼が今まで求めていた、最も純粋な「受け入れ」だった。


「夜明けって、知ってる?」

 

 春風は、突然、詩集をそっと撫でながら言った。

 

「もちろん。太陽が昇ることだろ」

 

「それだけじゃない。夜明けは、世界が一新される瞬間。昨日という時間と、今日という時間が、最も曖昧になって、全てがリセットされる瞬間」

 

 春風は、屋上の隅に置かれていた、使い古された木箱に腰を掛け、詩集を開いた。

 

「この街の夜明けは、みんな知っている。みんなが、新しい一日を始めるための、ありふれた夜明け。でも、私には、あなたとは違う夜明けが来る気がする」

 

 彼女の言葉は、どこか遠い予感を孕んでいた。それは、希望なのか、それとも別れなのか、悠には判別できなかった。しかし、その声は、悠の心に深く響いた。

 

「私にとっての夜明けは、誰も知らない夜明けかもしれない。一人で迎える夜明け。それは、『終わり』かもしれないし、私にとっては『自由』かもしれない」

 

 彼女は、自分自身の言葉に聞き入るように、静かに目を閉じた。


 悠は、彼女のミステリアスな言葉の裏に、何か大きな秘密が隠されていることを本能的に感じた。それは、進路の不安などとは比べ物にならない、もっと根源的な「切実さ」だった。

 彼は、自分の孤独や焦燥を語りながらも、どこか自分を客観視できていた。だが、春風の言葉には、抗いようのない「静かな覚悟」が滲んでいた。まるで、彼女は既に、自分の未来を知っていて、そこへ向かう最終列車に乗っているかのようだった。


「君は……転校してきたばかりなのに、どうしてそんなに達観しているんだ」

 

「達観なんかじゃない。ただ、私の時間が、君たちの時間とは、流れる速さが違うだけ」

 

 春風は詩集から一枚の栞を取り出し、悠に差し出した。

 

 4、悠は、差し出された栞を受け取った。それは、押し花にされた小さな白い花だった。何の変哲もない、ただの雑草のような花。

 

「これは何?」

 

「私がこの屋上で見つけた、名前の知らない花。名前がないから、どんな意味でも持てる。どんな願いでも託せる」

 

 春風は立ち上がり、悠に一歩近づいた。その距離は、彼が普段、他人と取る距離よりもずっと近かった。

 

「潮見くん。君は、誰かの『特別』になりたいんだよね?」

 

 悠は息を飲んだ。彼の内面の最も深い欲望を、彼女は躊躇いもなく言葉にした。

 

「私は、君の秘密を共有した。君も、私の秘密を共有する?」

 

「君の秘密って……」

 

「この屋上を、君と私の、二人だけの秘密の場所にすること。誰も知らない、夜明けを待つための場所にすること」

 

 彼女は、旧校舎の手すりに手をかけ、再び街を見下ろした。夕日は海に沈みかけ、空は茜色と紺色のグラデーションに染まっている。ノスタルジックな街の輪郭が、闇に溶け込もうとしていた。


「私の秘密は、この屋上だけじゃない。私がここにいる理由も、私が持っているものも、全て秘密。誰も知らない場所で、最後に自由な時間を過ごしたい、という私の切実な願い。君は、それを理解できる、唯一の人間だと思う」

 

 悠は、彼女の言葉が持つ「重さ」を感じていた。それは、単なる学園生活における「内緒話」ではない。もっと深い、彼女の「生き方」に関わる、根源的な秘密だ。

 

「僕が、君の秘密を共有したら、どうなるんだ」

 

「君は、初めて『特別であること』の感情を知る。そして、私は、この寂しい場所で、初めて孤独ではない時間を持てる」

 

 春風は、自分の持っていた詩集を悠に差し出した。

 

「約束して。私たちが、この屋上でした話は、誰にも言わない。そして、君は、私を『退屈な日常』から救い出す、私の共犯者になる」

 

 詩集は、まだ温かかった。悠は、彼女の掌から伝わる微かな体温を感じながら、その詩集を受け取った。

 彼の人生で初めて、自らの意志で、誰かの「特別」になろうと手を伸ばした瞬間だった。


「分かった。僕は、君の秘密の共有者になる。この屋上も、君の言葉も、君の持っているものも、全て」

 

 悠の胸に、今まで感じたことのない、強烈な感情が湧き上がってきた。それは、進路への焦燥感とも、周囲への疎外感とも違う、新しい熱だった。「誰かに必要とされた」ことの高揚感と、「彼女の秘密」を知ってしまったことの、恐ろしいほどの切なさ。

 春風は、満足したように目を細めた。

 

「じゃあ、明日も、この場所で。夕焼けの後に、一番星が見える頃に」

 

 彼女はそう言い残すと、悠に背を向け、錆びたドアの向こうへ消えていった。その去り際はあまりにも突然で、本当に彼女がそこにいたのか、幻影だったのではないかとさえ思わせた。


 悠は一人、屋上に残された。手元には、春風の詩集と、押し花の栞。

 彼は詩集の表紙をそっと撫でた。古びた紙の匂い。

 夜の帳が降り、街の明かりがちらほらと灯り始める。眼下に広がる街は、まるで時間を止めたまま、夜を迎えたかのようだった。

 悠は立ち上がり、春風が立っていた手すりの傍へ寄った。潮風が彼の頬を撫でる。

 この夜明け前の、最も曖昧で、最も美しい瞬間に、彼は初めて、自分の心臓が激しく脈打つのを感じていた。

 彼は知らなかった。

 この秘密の共有が、彼の「退屈な日常」を劇的に変える、最初の一歩であること。

 そして、この孤独な再生の物語が、もうすぐ始まる、彼女との「最後の夏」の始まりであることを。

 彼はただ、彼女の言葉を反芻する。



 ――私には、あなたとは違う夜明けが来る気がする。


 

 悠は、詩集を抱きしめ、星見ヶ丘学園の、誰も知らない屋上で、自分だけの、孤独な再生を待つ夜を迎えるのだった。

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