ガラスの街と灰の花 街角のスズメ3

街角のスズメ

第1章 沈む街のスズメ

潮の匂いは、記憶に似ている。

静かに染み込み、気づいたときには、石の色を変えている。


わたし――ピッコロは、サン・マルコの鐘楼の尖端にいた。

朝でも夜でもない、光と水がまだ混ざりあう時刻。

足元で、ヴェネツィアがゆっくりと沈んでいく。


観光客たちは笑いながら長靴を履き、

波打つ広場の上でポーズを取る。

誰も、笑い声の下で石が“息をしている”ことを知らない。

街の下には、もうひとつの街――

忘れられた顔が、眠っている。


鐘楼の影が水面をなぞり、

鐘が二度鳴る。

その音は空を震わせ、波を震わせ、

そして、時間をほんの少しだけ、ずらした。


そのわずかな“ずれ”の隙間で、

わたしは世界を見ている。

風が過去を運び、水が未来を映す。

そのあいだで、羽音だけが現在を保っている。



わたしの下には、二つの影。

ムラーノ島のガラス工房で働く青年、マルコ。

そして、フレスコ画を修復する女、リヴィア。


二人のあいだには、言葉にならない距離がある。

まるで、潮と風のように、触れそうで触れない。


マルコの工房では、火が絶えず燃えている。

灰が降り、熱が踊り、そして“光”が生まれる。

彼は、灰を混ぜたガラス――

“灰の花(fiore di cenere)”を作ろうとしていた。

燃えたものの記憶を、閉じ込めるために。


リヴィアは本島の修復所で働く。

彼女の指先は、ひび割れた聖母の頬をなぞり、

剥がれかけた色を呼び戻す。

だが、どれほど丁寧に磨いても、

“失われた光”だけは戻らない。


二人は、どこか似ていた。

どちらも“壊れたもの”の中に美を見つけようとする人たち。

わたしは、彼らの肩の上で、

その沈黙を観察する小さな目だった。



夕暮れ。

空の金が水に溶け、鐘楼の影が街を横切る。

ピアッツァの石畳に、わたしは降り立った。


そこに、仮面がひとつ落ちている。

金と灰の粉で覆われた、祭りの残りもの。

風が吹くと、粉が舞い、

沈みかけた太陽の光に溶けていく。


仮面の裏に、小さな文字が刻まれていた。

《Benvenuti al Carnevale》

――カーニバルへようこそ。


わたしは首を傾げる。

仮面は顔を隠すためにある。

けれど、この街では、

“隠す”ことこそが“思い出す”ための儀式だ。


わたしが羽を震わせた瞬間、

水面の影が二つに割れた。

ひとつはスズメのかたち。

もうひとつは――

金の仮面をつけた男の影だった。


その影が囁く。

「また始まる。赦しの祭りが。」


鐘が三度鳴る。

街が息をのむ。

波が石畳を撫で、

空の色が一瞬、裏返る。


わたしは見た。

水の下に、もうひとつのヴェネツィア。

仮面をつけた人々が、逆さまの街を歩いている。

笑っているのか、泣いているのか、わからない。

だが、そのどちらも“赦し”の表情をしていた。


潮の音と鐘の音が交わる。

どちらが現実の響きか、もう区別がつかない。


街が沈むたびに、記憶は浮かび上がる。

誰かが仮面をかぶり、誰かがそれを焼き、灰に変える。

そして、燃えた灰の中から、

また新しい“花”が咲くのだ。


ヴェネツィアは――

燃え尽きた美しさを、水の上で揺らしている。

それが、この街の呼吸。

それが、赦しの始まり。

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