精緻

青瀬凛

第1話

 すらりと伸びた細い指をテーブルの縁に載せ、花瓶越しに窓の外を眺めるその人。

 いとも容易く折れてしまいそうなその指の白さと小さな丸テーブルの焦げ茶は対照的で、そのコントラストがやけに目に焼き付いた。憂いを帯びた瞳は一心に柔らかな外の光を見つめ、ふいに消えてしまいそうなほど儚げな雰囲気である。少しばかり枯れた青い松虫草の切り花が、哀し気な横顔に酷く似合っていた。ついつい見惚れてしまう。だが、穴の開くほど見つめようとも、その視線が俺に向けられることはない。

「少しだけ目線を上げて……。そう……。そのまま動かないで」

 一言も発することなく、彼女は俺の指示に従った。ゆっくりと、操り人形の如く。

 そう、彼女は絵のモデルをしているのである。それが彼女の生業で、生き甲斐だ。

 出逢って何度目の依頼の時だったか。作品が生み出される瞬間に立ち会えることがこの上ない喜びなのだと語った彼女の微笑みを俺は一生涯忘れないだろう。

 画家とモデル。依頼主と雇われ人。俺たちの関係はそれ以上でもなければ、それ以下でもない。だから俺は彼女の「生き甲斐」という言葉に縋りついている。表面上は仕事以上には思っていない振りをして、俺は頼み込んで何度も彼女にモデルをしてもらっていた。それはもう、何度も何度も。

 当然、彼女は俺以外の者の依頼を受けることもあるが、今では殆んど俺の専属モデルのようになっていた。本当はあらゆる画家から引っ張りだこであろうに。そんな彼女の世界を狭めて機会を奪っている自分は何て狡い人間なのだろうかと、罪悪感が胸に巣食う。だけれども、俺と彼女を繋ぐものはこの醜い独占欲しかないのだ。

 誰にも見せたくない。誰にも渡したくない。それが不可能であることも非現実的であることも分かっている。分かっているけれども。彼女を描くことを、止められない。

 ぐちゃぐちゃとした思考を振り払うようにかぶりを振り、微動だにしない彼女へと視線を戻す。

 キャンバス越しに見る彼女は一際美しかった。そう思うのは、きっと、その一時だけは俺だけのために彼女が存在してくれているのだと、烏滸がましくも感じられるからだろう。

 本当はどんな時でも魅力的だったけれど、あの瞳が一番輝く瞬間に俺は存在していないから。ちくりと刺すような胸の痛みを誤魔化すように、俺は目前の下絵に意識を集中させた。


 どのくらい経っただろうか。陽がだいぶ傾き、窓辺に西日が差し始める。

 俺は漸く手を止めた。もうそろそろ、来る頃だろう。

「今日はもういいよ。彩色は明日にするから」

 声を掛けると、人形の如く身動きしなかった彼女が姿勢を崩した。しかしそれも一瞬のことで、すぐに背筋を伸ばして立ち上がる。流れるような一連の所作に目を奪われる。猫のようなしなやかさ。凛とした佇まい。どれもが彼女の美しさを形作っている。

「線画は仕上がった?」

 柔らかな声音で彼女が尋ねる。見惚れていたことが急に恥ずかしくなり、俺は慌てて視線を逸らした。

「うん」

 短く一言だけ返す。それが精一杯だった。何と情けないことか。

「見せて」

 え、と声を上げた時にはもう既に彼女は俺のすぐ傍に立っていた。心音が煩い。耳の奥でバクバクと鳴る。俺にとっては爆音だ。そのまま彼女にまで音が聞こえてしまうのではないだろうか。心臓の側に彼女がいるから、余計に。せめて右側で拍動していたら、なんて、訳の分からないことを考える。木炭を握る右手にじわりと汗が滲んだ。

 俺の可笑しな様子には気づかないのか、彼女は何も言わずにキャンバスを眺めていた。その眼は穏やかで優しい。きゅう、と心臓が軋んだ気がした。

「細かくて丁寧ね……。その細い線、好き」

 好き、の二音にどきりとする。違う、違う。俺の期待する意味とは違う。

 文脈からも丸わかりじゃないか。分かっているくせに。絵の話だって。

 何で、どうして、苦しいのか。

「ただ写実的なだけではなくて……。柔らかい? 温かい? 上手く表現できないけれど……。もっとこう……」

 彼女がもどかしそうに両手を動かす。そうしながら、ほんの少し柳眉を顰めて考え込んでいたが、ふと、顔を上げて。そして。

「……深くまで見て描いているような、そんな気がする」

 そう言って、ふわりと、笑った。

「あ……」

 思わず声が漏れる。時の流れが緩やかになったのか、それとも止まったのか。静止画の連続を見ているような錯覚に陥る。森羅万象の何よりも、否、森羅万象の中で唯一、彼女だけが輝いている。

 何も言えなくなった俺を不思議に思ったのか、彼女がきょとんとした表情を見せる。何処かあどけなさを残したその顔に堪らなくなって、手を伸ばしかけた、その時。

 チリンチリン、と呼び鈴が鳴った。

 途端に彼女の顔がぱっと明るくなる。嗚呼、まただ。胸が痛い。

 俺は上げかけていた手を戻し、ゆっくりと立ち上がった。鉛のような足をのろのろと運び、扉を開ける。

「どうも。迎えに来ました」

 そう言って玄関口に立つ若い男。ニッと笑うその姿は宛ら太陽だ。

「毎度毎度ご苦労様」

「好きでやってるんで」

 屈託のない笑顔。溜め息を吐きそうになるのをぐっと堪えた。

 彼は彼女がこのアトリエに来ている時は、いつも迎えに来ていた。彼にも仕事やら何やら、都合があるだろうに。飽きもせず、よくやると思う。だが仕事とは言え、彼女は俺と二人きりなのだ。心配するのも当然だ。

「ほら、騎士様のお迎えだよ」

 背後に向かって声を掛ければ、顔を紅梅色に染めながら彼女がやって来た。

「いえ、あの、騎士なんて、そんな……」

 照れて狼狽える姿に嬉しそうに目を細める相手。二人の間にだけ花が舞っている。此方は南極にいるような心持ちだというのに。

「ええと、じゃあ、また明日」

 言外にもう帰れと匂わせて、素っ気なく告げる。まだ一緒に居たいのに、もう見て居たくない。複雑なこの気持ちに名前があることを、俺は知っている。

「あ、はい。また明日、宜しくお願いします」

 顔をほんのり赤くしたまま、彼女が答える。緊張しているのか、敬語だった。

「じゃ、俺たちはこれで。失礼します」

 彼も簡単な挨拶を口にする。笑顔ではあるが、先程よりも声が固い。おまけに一瞬だが剣呑な眼で睨まれた気がする。また明日、という言葉が気に掛かったのか。やはり二人で顔を合わせていること自体が面白くないのだろう。あんなに朗らかに笑うくせに、その笑顔の下には嫉妬深さを隠している。だからこそ、こうして迎えにも来るのだろう。

 軽く会釈をして、二人が出て行く。俺も少し頭を下げ、二人が通りに出るまで見送ってから扉を閉めた。彼も彼女も、振り返らなかった。

 何時の間にか身体に力が入っていたらしい。急に気怠くなって扉に凭れると、はあ、と息を吐いた。

 意識的なのか、無意識なのか。どちらにせよ、彼の行動は牽制の意味を含んでいる。

 そんなに心配しなくても良いのに。俺は彼女の手にすら触れたことはないのだ。例えポーズを指示するためであっても、指一本すら触れようとしたことはない。まあ、さっきは危なかったけれど。でも本当に彼が心配することは何もないのだ。俺は自らの心の内を明かす勇気など持ち合わせていないのだから。

 それに何より、彼のあの笑顔を見たら。曇り空が瞬く間に晴れてしまいそうな笑顔を見たら。敵わない、叶わない。そうだと分かってしまう。

「馬鹿みたいだ。……いや、馬鹿だな、俺」

 空っぽの部屋を眺めて、独り言ちる。ふいに今日の絵に手を加えたくなった。小机に転がされていた絵筆を手に取る。指先に感じるその感触は硬い。椅子を引いてキャンバスに向かう。そっと、下絵に線を足していく。

 丁寧に、丁寧に。この想いを積み上げる。描き出す。形に、する。

 零れそうになる言葉の代わりに。

 届くことのない想いを、ただただ筆先に込めた。

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精緻 青瀬凛 @Rin_Aose

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