第四話:雷神の授業

夜の空気は湿っていた。


今日は大きな戦こそなかったが、小競り合いくらいのものはあったのかと思わせるように、


戦場に立ちこめた煙が、まだ陣中の奥まで漂っている。


道雪が兵に酒樽を捕虜のもとへ運ぶよう命じ、

俺たち三人は捕虜たちが集められている仮の陣屋へと向かっていた。


道中、道雪は輿に小さな酒樽を置き、飯碗で酒をすくって、不安をかき消すようにがぶ飲みしていた。


小野「道雪さん? 緊張してるんですか?」

道雪「なにを言うておる。“常在戦場”じゃ。武士とは常に戦が起こることを想定し、キンチョウしておくものよ!」


さすがは雷神、戦に関しては敵知らずだ。

だが、“裏切った仲間たち”に対等な立場で会話をするなど、これまでの彼にはなかった。

どう接すればよいのか、戸惑っているように見えた。


小野「いいですか? 道雪さん。まずは“同情してあげること”が大事です。

同情して、相手にしゃべらせるんです。」


「いくらこっちが綺麗事を並べても、会話がなければ信頼は生まれません。

学校だってそうですよ。ずっと先生が話してる授業より、

みんなで話し合う時間がある授業の方が楽しいし、記憶に残るでしょ?」


道雪は興味が湧いたのか、目を見開いて俺に空の飯碗を渡し、酒を注ぎながら聞き入っていた。


道雪「がっこ……じゅぎょ?」


聞き慣れぬ言葉と酒の酔いが入り混じり、頭がショートしそうになっている道雪を見て、誾千代が口を開いた。


誾千代「小野、その“学校”とか“授業”とはなんだ?」


小野「誾千代さんたちは、読み書きをどこで習いましたか?」


誾千代「私は道雪様の家臣から。


道雪様は寺院で習われたと聞いておる。」


小野「じゃあ、その寺院が“学校”で、“授業”は教わる時間ですね。


ずっと書いたり読んだりってつまらないでしょ? 話して使った方が楽しいんですよ。」


道雪「歌を詠んだりしてのう!」


道雪がすっかり陽気になって笑う。


---


そして辿り着いたのは捕虜たちの仮の陣屋だった。


火に囲まれた彼らの目は、恐怖と諦めで濁っている。


縄で縛られたままの兵たちが、道雪を見るなり体を震わせた。


道雪は輿を降り、捕虜たちの前に座る。


道雪「さっきはすまんかったな。みながわしから離れようとした理由を、聞かせてくれぬか?」


捕虜たちは互いに顔を見合わせたが、やがて一人の中年の兵が、意を決したように口を開いた。


「……道雪様。わしら、立花が嫌いになったわけではありませぬ。


ただ、飢えが限界だったのです。家では子が泣いております。


戦が終わらねば、田も耕せませぬ。


それでも戦を続けねばならぬのでしょうか……?」


その声には、怒りではなく、深い疲れが滲んでいた。


――この人たちは裏切ったんじゃない。


ただ、“帰りたかった”だけなんだ。


だが、この時代には報告の仕組みもなければ、意見を届ける場もない。


結果、彼らの行動は“裏切り”として報告され、処罰されようとしていたのだ。


道雪は無言で酒を一口飲んだ。


炎が、彼の皺を赤く照らす。


誾千代は言葉を探すように、捕虜たちを見つめていた。


そして、静かに前へ出た。


誾千代「父上。


私は幼いころより、戦は“己の正しさ”を通すためのものと思っておりました。


ですが――その正しさが、誰かの涙の上に立つものなら、


それは果たして“義”と呼べましょうか?」


捕虜たちが顔を上げる。


その光景に、俺は胸の奥が熱くなった。


(誾千代さん……あんた、もう現代の人間よりずっと“人”として強いよ)


道雪は目を閉じ、深く息を吐いた。


道雪「……誾千代、そなたの言う通りじゃ。


わしは戦に勝つために“義”を掲げてきた。


だが、その義が民の命を奪うなら、もはやそれは“鬼”の理屈かもしれぬ。」


焚き火の火が、静かにはぜた。


捕虜の中にいた若い兵が、震える声で言った。


「……帰りたいです。けれど、立花を裏切ったこと、心から悔いております。」


道雪はその兵の前に歩み寄り、飯碗に酒を注いだ。


「ならば飲め。わしと飲もう。


この一盃、恨みも罪も越えて、次の戦を終わらせるための盃じゃ。」


兵は涙を流しながらその酒を飲んだ。


誾千代も静かに杯を取り、道雪の隣で盃を掲げた。


俺はその光景を見つめながら、心の奥で何かがほどけていくのを感じた。


――“導き”とは、こういうことなのかもしれない。


誰かを変えるためじゃなく、


誰かと向き合うために、自分はここに呼ばれたのかもしれない。


風が吹き、火の粉が空に舞った。


その夜、戦の匂いの中で、確かに“人の声”が交わった。


***


翌朝。


昨夜、盃を交わした捕虜たちが、今は道雪の輿を担いでいた。


その顔には、昨日までの陰はない。


信頼と覚悟に満ちていた。


道雪「小野、今日は戦じゃ。


おぬしはまだ兵の編成に入っておらぬゆえ、陣から見ておれ。」


――そうだ、ここは戦場なんだ。


昨夜の温かな空気で一瞬忘れていた“恐怖”が、胸の奥で再び息を吹き返す。


だが、ここにいると決めた以上、目を背けるわけにはいかない。


道雪の、兵の、そしてこの戦国という時代の血泥の戦いが、いよいよ始まろうとしていた――。

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